ジャスト日本のプロレス考察日誌

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


 




 




 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 



 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」


私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第2回 『脱・三沢光晴』を掲げたノア時代とGLEAT旗揚げ」




 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「最終回(第3回) ベンチャー団体GLEATの未来予想図」
 
 
 
「GLEAT実験マッチ」の意図


──鈴木さんが創設した新団体・GLEATでは旗揚げ発表後にYouTube公式チャンネルで「GLEAT実験マッチ」と題して道場でのプロレスやUWFルールの試合を定期的に動画配信されました。これはどういった意図があったのですか?

 

鈴木さん 実験マッチは田村潔司エグゼクティブディレクターの提案です。GLEATを創設した2020年はまだコロナ禍であり、大会スケジュールが組みづらい状態で、それでも2021年7月1日の旗揚げ大会まで何かしらのプロモーションと所属選手に経験を積ませることが大事だったので、主にメジャークラスの大会を経験された他団体またはフリーの選手に参戦していただき、伊藤貴則と渡辺壮馬の成長過程を実験マッチと称してYouTube配信させていただきました。


──伊藤選手と渡辺選手はGLEATに来てかなり変わりましたよね。伊藤選手は体重を絞って精悍な感じに変貌しましたし、格闘技経験がなかった渡辺選手に至ってはキックボクシングの試合にもチャレンジしましたから。プロレスラーとしての太い軸がGLEATに入ってから出来たような印象があります。


鈴木さん そうですね。私としては当時の所属選手4人の中でも伊藤貴則、渡辺壮馬にGLEATのエースとして活躍してほしいと伝えていたので自覚も強くあったでしょうし、田村潔司エグゼクティブの教えも力になったと思います。



当初、田中稔とCIMAは相容れない関係と強く感じていた




──その後、プロレスリングHEAT-UPから飯塚優選手が移籍したり、田中稔選手や松井大二郎選手が入団されましたね。


鈴木さん はい。あと実験マッチしている頃に#STRONGHEARTSがGLEATに参戦してくれて、入団するまでの関係を構築できたのは大きかったですね。


──#STRONGHEARTSは国内と国外の団体を転戦していて、CIMA選手はAEWにも参戦していたのですが、コロナ禍があって海外に行きにくいという状況でしたね。


鈴木さん 恐らくコロナが解決すれば#STRONGHEARTSとしてアメリカはもちろん世界中で活動と活躍を予定していたと思います。でも実験マッチで縁があって最終的には入団をしてくれて、本旗揚げ前のGLEATに大きな注目と期待を得るきっかけとなってくれました。


──彼らの入団は驚きました。#STRONGHEARTSがいればプロレス部門(G PROWRESTLING)は確立できますからね。


鈴木さん そうですね。#STRONGHEARTSは「プロレスで人の心を掴む」スペシャリストです。その対極として田中稔は「UWFをやりたい」と言ってくれたので、選手兼任でUWFルールテクニカルオフィサーに就任していただきました。G PROWRESTLINGはCIMA、LIDET UWFは田中稔が責任者として仕切ることになるのですが、当初、田中稔とCIMAは相容れない関係と強く感じておりました。


──そうなんですか!イデオロギーがぶつかっているのですね。


鈴木さん 日本プロレス界で一時代を築いてきた選手同士リスペクトはありながら、育ってきた環境と教育は全く異なるのでイデオロギーの対峙は当然のことでした。その二人にカズ・ハヤシがスーパーバランサーとして大きな力を発揮してくれました。カズ・ハヤシがいなかったら早い段階で破裂していたかも知れません。


──カズ選手、CIMA選手、田中選手は日本ジュニアヘビー級戦線におけるレジェンドレスラーですからね。


鈴木さん 確か3人ともタイトル記録保持者でしたね。カズ・ハヤシが全日本の世界ジュニアヘビー王座最多連続防衛保持者(17回)で、CIMAがドラゴンゲートのオープン・ザ・ドリームゲートの記録保存者(最多連続防衛回数:15回、最多通算防衛回数、最長連続保持期間:574日、最長通算保持期間:1056日 )で、そして田中稔は新日本・全日本・ノアのメジャー団体ジュニア王座グランドスラムを達成していて、IWGP Jr.最多連続防衛保持者(11回/覆面レスラー「ヒート」時代)という凄い記録を持っていると本旗揚げ後に知りました。


──実績が桁違いの皆さんですね!


鈴木さん 三人には各々に強烈な実績と個性、生まれ育った団体の文化があるので、カズ・ハヤシがバランスを取ってGLEATらしさを構築してくれているところです。


──カズ選手は社長の経験があるのが大きいですよね。


鈴木さん カズ・ハヤシは実績が示す通りプロレスラーとしても超一流ですが、プロレス団体の社長経験もあり、私のことを力強くサポートしてくれます。




ハードヒットとの全面対抗戦は私達フロント側すら大会をきちんと最後まで大会を成立させられるのかと緊張感と殺伐感を体験させていただきました




──素晴らしいですね。GLEATは2020年10月15日・後楽園ホールでプレ旗揚げ戦、2021年5月26日に新宿フェイスで『G PROWRESTLING Ver.0』、2021年6月9日に新宿フェイスで『LIDET UWF Ver.0』を開催していきます。特に『LIDET UWF Ver.0』では「現在進行形のU」を標榜するハードヒットとの全面対抗戦が行われました。ハードヒットとの対抗戦についてはどのようにご覧になられましたか?


鈴木さん LIDET UWFをやるにあたって、私はハードヒットの大会をはじめて観戦に行きました。すると「LIDET UWFで考えているスタイルを既にやっている団体があった」「しかもUWFと田村潔司という名前にかなりシビアだぞ」というのが率直な感想でした。


──ハードヒットのUWFに対する執着心は凄まじいですよ。


鈴木さん なぜかUWFではなくハードヒットと名乗り、「現在進行形のU」と主宰の佐藤光留選手を筆頭に選手たちは口を揃えて言ってました。そして赤いパンツの頑固者と言われる田村潔司エグゼクティブに剝き出しの闘志を感じさせる白いパンツの頑固者和田拓也選手にも衝撃を受けました。そうなるとハードヒットとの対戦は絶対に避けて通れないので、ならば一発目の興行で決着をつけようと決断にいたりました。ハードヒットには自分たちがUWFを守ってきたという愛とプライドがあって、LIDET UWFも中途半端な気持ちではやっていないことを証明するためにも全面対抗戦を実現させて、勝負を決する道を選びました。昭和のプロレスって緊張感と殺伐感に溢れた試合が多かったじゃないですか。その一方で平成後期になって見やすい試合が多くなっている印象があります。


──確かにそうですね。


鈴木さん ハードヒットとの全面対抗戦は私達フロント側すら大会をきちんと最後まで大会を成立させられるのかと緊張感と殺伐感を一発目の大会で体験させていただきました。


──個人的にはLIDET UWF VS ハードヒットは最高の対抗戦でした。ものすごい刺激物であり、劇薬だったと思います。


鈴木さん ありがとうございます。ハードヒットの選手は本当にUWF愛が凄いです。伊藤と渡辺はUWFと言われても、田村潔司という凄い人に教わっていることもピンときてない印象でした。伊藤はPRIDEが好きだったので田村エグゼクティブの試合は見たことがあるかもしれませんが、渡辺に関してはハッスルがプロレスを好きになるきっかけでしたから・・・


──それは知りませんでした。


鈴木さん ハードヒットとの対抗戦で「これからの道は簡単ではない」と伊藤と渡辺はよく理解してくれたと思います。


──「生半可な気持ちでUWFを名乗らないほうがいい」ということをハードヒットが教えてくれたような気がします。


鈴木さん 色々と現実を認識した大会が『LIDET UWF Ver.0』だったかなとは思います。



UWFはかっこいいだけでもダメだし、強いだけでもダメで、両方を備えているべき



──これは持論なんですけど、UWFはプロレスと格闘技の間なんですよ。LIDET UWFとハードヒットはUWFスタイルを標榜しながら、目指すものが違っていて、プロレスと格闘技の配合具合がかなり異なっているんです。LIDET UWFはUWFインターナショナルに近くてプロレス7.5割、格闘技2.5割。ハードヒットはパンクラスに近くてプロレス5割、格闘技5割という印象があって、配合の違いが試合になった顕著に現れるんですよ。だからハードヒットは「相手の光を消す」というのがやり方ですので、LIDET UWFの強さが目立ちにくい傾向があるのかなと思います。


鈴木さん おっしゃる通りです。LIDET UWFはファッショナブルでスター性のある選手を重視していて、ハードヒットは泥臭くても強い実力者が主に参戦していると感じます。第2次UWFはこれらをミックスアップした選手たちがやっていたから凄いです。船木誠勝選手なんてその象徴じゃないですか。


──確かにそうですね!


鈴木さん UWFはかっこいいだけでもダメだし、強いだけでもダメで、両方を備えているべきと考えています。


──LIDET UWFのプロモーション戦略とハードヒットの強さが重なると凄いUWFが生まれそうだなと感じました。


鈴木さん あとハードヒットとの闘いでは、LIDET UWFの選手は佐藤光留選手から得たものや授かったものがたくさんあると思います。佐藤光留VS青木真也(2023年4月12日・後楽園ホール/LIDET UWF初代王者決定トーナメント準決勝)は本当に「ザ・UWF」みたいな緊張感が充満した試合でしたから。「LIDET UWFはこうあるべきだ」を一番体現しているのはハードヒットの城主である佐藤選手かも知れません。


──それは興味深い話ですね。佐藤選手はなんだかんだ言って鈴木みのる選手のイズムがあるんですね。色々と口撃するけど、最終的にはその団体にとって有益になるものをきちんと提供している印象があります。


鈴木さん その通りです。




内部充実を図っていく事がGLEATにとって一番の課題




──ありがとうございます。次の話題に移りますが、鈴木さんはGLEATという団体はプロレス界でどのような立ち位置にあるとお考えですか?


鈴木さん  プレ旗揚げ戦(2020年10月15日・後楽園ホール大会)、旗揚げ戦(2021年7月1日・TDCホール大会)もそうですが、プロレス界のスター選手が集結して、GLEATの所属選手がそこに挑んでいくという闘いが主軸だったと思います。旗揚げ戦は新日本のSHO選手がメインイベントのUWFルールで参戦して、伊藤と対戦しました。それが週刊プロレスの表紙を飾りましたが、団体が旗揚げ戦してからしばらくはスター選手のゲスト参戦で「次、誰が出るのだろう」と興味を引かせてきたのが初期GLEATでしたね。


──割と驚くゲスト参戦の選手が多い印象がありましたね。


鈴木さん それが2023年には所属選手19人、フルグレイトの石田凱士も入れると20人ということで、所属選手の数が日本のプロレス団体では割と多い団体になってきました。最初はスペシャルゲストの参戦が軸でしたが、今は、タイトルマッチを主軸にして内部充実を図り、所属選手でメインイベントを締めれる大会が増えてきている状況ですね。


──ビッグマッチ『GLEAT ver.MEGA』(2023年8月4日・両国国技館大会)で行われたシングルのタイトル戦は、T-Hawk VS 田村ハヤト(G-REXタイトルマッチ)の所属選手同士でしたよね。


鈴木さん 両国国技館大会のG-REX戦だけ所属選手2人の試合で、あとの試合は対外敵の試合が軸となりました。これからも内部充実を図っていく事がGLEATにとって一番の課題になると思います。




予定外の開催だったGLEAT両国国技館大会



──『GLEAT ver.MEGA』はGLEATにとって旗揚げ以後、収容人数最高となるビッグマッチでした。この大会が決まった経緯について教えてください。


鈴木さん これは全く予定していなかったビッグマッチでしたが、新日本プロレスさんを退団された飯伏幸太選手にGLEATの課題を相談させていただいたのが事の始まりです。


──そうだったんですね。


鈴木さん TDCホールで1200~1300人の観客動員数を記録したのですが、2000~3000人という数字が見えないことを飯伏選手に相談すると「だったら両国国技館大会をやったらいいですよ。」と言ってくれました。飯伏選手の様々なお話しすべてに熱があり理にかなっており、両国国技館大会開催を決心する事ができました。


──ちゃんと両国国技館のスケジュールも空いてたんですね。


鈴木さん GLEATが両国国技館で平日に開催するにはまだ力不足と考え、担当者に幾度も両国国技館に土日祝日で日程の空きがあるのかを確認してもらいました。結局、土日で空きがなくて最終的に2023年8月4日の金曜日に入れてもらいました。7月12日にTDCホールで2周年記念大会があって、8月23日に後楽園ホール大会がある中でしたが、結果、それでもやって良かった思える大会になりました。


──実際に両国国技館大会をやっていかがでしたか?


鈴木さん 2500人のお客様が来場してくださり、2000人を超えたのが初めてだったのでいい経験になりました。目標は3000人だったので数字は届きませんでしたが、2500人はいったので及第点です。あとYouTube配信の再生回数が5万回くらいのアッパーだったのですが、両国国技館大会は10万回再生をあっという間に超えたんです。年末の12月30日のTDCホール大会は過去最高の1500人を超えましたし、2023年は前年対比で観客動員数を大きく上げることに成功できました。飯伏選手をはじめスーパースター選手にも多数ご参戦いただけたことはもちろん、ファン皆様、所属選手や社員、関わって下さった皆様の力でGLEATをより多くの方に知っていただく事ができたのが両国国技館大会でした。


──素晴らしいですね!思えば飯伏選手はDDTがまだ後楽園ホール大会を集客に苦戦していた頃に両国国技館大会を開催するという大博打を打って、興行が大成功する光景を当事者として目のあたりにしているから、その経験に基づいて、鈴木さんに両国国技館大会を進言したんでしょうね。


鈴木さん おっしゃる通りで、その話をされてましたよ。飯伏選手が「両国国技館大会を経験すると、こんなに大きな世界があるんだと知りましたよ」と言ってました。


──先ほど鈴木さんは2007年の棚橋弘至VS後藤洋央紀の話をされていましたけど、この大会の観客動員の実数は2000人弱なんです。


鈴木さん ええええ!!


──棚橋選手の著書『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)には「じつを言えば、棚橋VS後藤のIWGPヘビー級タイトルマッチをメインイベントにしたこのときの両国大会は集客に苦しみ、実質2000人ちょっとしかお客さんが入っていなかった。だけど、大会は異常に盛り上がった。とくに、メインの棚橋VS後藤がものすごい盛り上がりを見せて、観戦していた東京ダイナマイトのハチミツ二郎さんが『平成新日本のベストバウトだ!』と絶賛してくれた。プロレスファンのあいだでは『新日本の両国大会がすごく盛り上がった』と評判になったという」と書かれているんですよ。


鈴木さん たとえ集客に苦戦したビッグマッチだったとしても、一大会1試合で流れが変わることがあるんです。棚橋VS後藤の会場での熱狂は凄まじかったですから。


──2007年の新日本は後楽園ホール大会が顧客満足度が高くて素晴らしかったんです。後楽園ホール大会の熱気を両国国技館大会に持ち込むというムードがあったように感じました。


鈴木さん 棚橋VS後藤の熱狂は1990年代の四天王プロレスを見ているような印象を受けました。   



GLEATが仕掛けていきたい戦略とは?




──それはあるかもしれませんね。ではプロレス界で生き抜くためにGLEATが仕掛けていきたい戦略はありますか?


鈴木さん ひとつひとつの興行を「次また見たい」と思ってもらえるような大会運営を継続するだけですね。今のプロレス界は選手よりも一部のファンの方が凶暴になっているなという感覚があって、選手に対して上からものを言う状態が横行していると感じます。それはプロレスラーと団体側の責任でもあって、私はプロレスラーは超人であれ、超人が集う闘いがプロレスであるべきだと考えているんですけど、人を超えた存在であるべきプロレスラーが神棚から降りてきている傾向があると感じます。


──同感です!


鈴木さん 新日本の選手はまだ神棚の上にいて、スターダムの選手もそこに近しいスタンスかなと。でもGLEATも含めたその他の団体の選手はファンと横にならんでしまって近い関係になってしまっているんです。超人ではなく人でしか見れない状態からどうやって神棚に上げることができるのかというのがありますね。


──そのためのブランディングやナビゲーションは重要ですね。


鈴木さん そうですね。AKB48はスターを夢みる人たちが段々と神棚に上がっていくドラマだと思っていて、最終的には握手したくてもできない領域に持って行ったんです。だから今後は「会えないけど、会いたいと思わせる」「選手を神棚に上げていくこと」がGLEATにとってステップアップするために必要な戦略かなと思います。あとはエンターテインメントであることが大事で、変に格闘技面しないこと。GLEATというエンターテインメントが何をお客さんに届けたいのかですね。


──LIDET UWFという格闘プロレスをやりながら、エンターテインメントの根本は忘れないということですか?


鈴木さん 私はLIDET UWFをプロレスという括りをしていて、GLEAT MMAは格闘技なんです。それを『GLEAT VER.MEGA』だとG PROWRESTLING、LIDET UWFはプロレス、GLEAT MMAは格闘技と2種三つのブランドを観戦できます。GLEATのナンバーシリーズではG PROWRESTLINGとLIDET UWFの二つのプロレスが観戦できる形にしています。あと、怪我や不慮の事故が発生すると親が子供に見せられなくなるじゃないですか。


──確かにそうですね。


鈴木さん リング上で凄い闘いが展開されることは重要なことですが、いかに大怪我をさせずに最後まで試合を成立させることがより重要だと思います。


──GLEATの医療体制はどうなのですか?


鈴木さん  各大会は極力、ドクターを呼ぶようにしていて、ビッグマッチは必ずドクターが来場しています。どうしてもドクターがいない場合は緊急対応してくれる病院を下調べしておいて、そこにすぐご相談させてもらうような体制にしています。あとは試合会場と連携して対応していくという形でスタッフ間浸透させるようにしています。



鈴木さんが選ぶプロレス名勝負




──ありがとうございます。では鈴木さんが選ぶプロレス名勝負を3試合、選んでください。


鈴木さん  先ほどから言ってますが、1試合目は棚橋弘至VS後藤洋央紀(新日本・2007年11月11日・両国国技館大会/IWGPヘビー級選手権試合)です。


──実は棚橋選手も自身のベストバウトとして後藤戦は上げているんですよ。


鈴木さん そうなんですね。あとは船木誠勝VS鈴木みのる(パンクラス・1994年10月15日両国国技館大会)は名勝負でした。


──確かに素晴らしい試合でした!


鈴木さん それから三沢光晴VS川田利明なんですよ。どの時期とは言えないんですけど、シングルマッチでもタッグマッチでも三沢さんと川田さんの絡みが強烈な印象で覚えています。


──鈴木さんから見て三沢VS川田はどのような試合に映ってましたか?


鈴木さん 三沢VS川田は愛と憎悪が入り混じった試合でした。お互い愛し合ってんだけど憎しみ合いもしていて、それがどっちも愛と憎悪が中途半端じゃなくて、フルボルテージでぶつかっている感じがしました。


──同感です。


鈴木さん 川田さんには三沢さんという超えられない壁がずっとまとわりついていて、三沢さんには川田さんを超えさせない壁であり続けたわけで、三沢VS川田は唯一無二の特別な決闘で、感動というより胸が苦しくなるような試合で、人として生きていく上で必要なものを与えてくれたのかなと思っています。そういう意味では人間賛歌なのかもしれません。    

 


GLEATを自立自走させることが大事。そのためには選手を増やしていくことだけではなく、削ることもあるかもしれない

 


──ありがとうございます。では鈴木さんの今後についてお聞かせください。


鈴木さん まずはGLEATを自立自走させることが大事ですね。みんなよくやってくれているので収益性は拡大してますけど、まだ持ち出しはありますから。あと2年で自立自走できるようにしていきたいですね。そのためには選手を増やしていくことだけではなく、削ることもあるかもしれません。規模感は小さくなってはいけないと思いますけど、ただ試合をしている人が残っていくというのではなく、本人はもちろんGLEATが人気を得るための強烈な努力を継続している選手だけが団体に残るべきだと考えます。それができない選手には団体を去ってもらうしかありません。今は団体を残る人が正義で、辞めてもダメだし、辞めさせてもダメという風潮があるじゃないですか。


──確かにそうですね。


鈴木さん 私は選手にも各々に合った団体があると考えます。まだGLEATに上がっていない選手の中に適性がある方もいるかもしれませんし、逆にGLEATに上がっているけど他の団体の方が合っている選手もいるかもしれません。限りある時間でそこの無駄なやり取りはあってはならないので、GLEATに根を張れる選手たちだけ団体に残ってもらえる見極めがこの1年間なのかなと考えています。日本プロレス界の過去約70年で様々な団体から選手が集まっている団体って崩壊しているところがほとんどじゃないですか。


──その通りです。外様が集まった団体はスタイルが違う者がくっついていることが多くて、まとまりがなくなって最終的に内ゲバになって崩壊していくという印象があります。


鈴木さん 生き残っている団体は生え抜きの選手の割合が多いとか、生え抜きのスーパースターがいるというのが大きな要因の一つであると考えます。外様が悪いわけではないんですが、「他がある」とお考えならばGLEATからはお引き取りいただくしかありません。他から参戦した選手でも「GLEATにたどり着くために生きてきた」という選手を生み出し、歓迎していくことが今後の課題ですね。


──「GLEATでのしあがっていくんだ!」という信念を持つ選手は生き残っていくということですね。


鈴木さん そうですね。口だけじゃなくて、行動も含めてGLEATに骨を埋めることができる選手を輩出できるかです。そのためにはGLEAT版棚橋弘至選手を生み出すことが大事ですね。口だけ番長じゃなくて、周囲が納得せざるを得ない行動や試合をやってきたのが棚橋選手で、目標を語って責任を取って、そこに向かっていって結果的に逆算型で叶えていくのが棚橋選手の凄さです。日本のプロレス界は棚橋弘至選手がいてよかったですよ。ジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんに継ぐ偉大な存在ですよ。


──棚橋選手は鈴木さんの発言を知ると泣きますよ(笑)。


鈴木さん 棚橋選手がいたから自分の中で「諦める」という概念は消えましたよ。




あなたにとってプロレスとは!?



──ではここで最後の質問です。あなたにとってプロレスとは何ですか?


鈴木さん プロレスとは…自分ですね。私はプロレスによって形成させているものが多くて、プロレスから得たものから会社の社長をさせていただいています。私という人間の半分以上はプロレスによって形成されているので、プロレスは自分を作ってくれた源であり、原子なんですよ。


──これでインタビューは以上となります。鈴木さん、長時間の取材にお受けいただき本当にありがとうございました。今後のご活躍とご健勝を心よりお祈り申し上げます。


鈴木さん こちらこそありがとうございました。


(私とプロレス 鈴木裕之さんの場合・完/第3回終了)










 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 

 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

私とプロレス 鈴木裕之さんの場合「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」




 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「第2回 『脱・三沢光晴』を掲げたノア時代とGLEAT旗揚げ」
 
 
 
なぜリデット体制のノアは「脱・三沢光晴」を掲げたのか!?


──鈴木さんがノアでされた変革の中に「脱・三沢光晴」というものがありました。これはどういった意図で行われたのですか?

 

鈴木さん ノアの経営に関わるようになって、選手や社員の皆さんと面談をさせてもらった中で「なんでノアに残っているのですか?」と聞くとほとんどの方が「三沢さんが…」という話になるんですよ。恐らく「三沢さんが作った団体だから残したい」ということなのでしょうが、三沢さんという名前が隠れ処にもなっているような気がしたんです。


──お気持ちはよく分かります。


鈴木さん だから三沢さんからみんなで脱却して、自分たちの団体としてプロレスリングノアをやっていこうよということを示すために「脱・三沢光晴」を掲げることにしました。あと「脱・三沢光晴」を行うことで、もう一度三沢さんの名前を浮上させたかったんです。三沢さんがいた時代のノアよりも、今のノアがより面白いものを提供するんだという対立構造を浮き出させるために、三沢さんから親離れするために、そしてノアを存続させる以上は、三沢さんを忘れてはならないという意味も込めて「脱・三沢光晴」を打ち出したのです。


──鈴木さんは「脱・三沢光晴」を掲げた時にプロレスメディアで意図を丁寧に説明されていた印象があります。その姿勢にものすごく好感を持ちましたよ。


鈴木さん ありがとうございます。ファンの皆さんは「ノア=三沢さん」で見ているところがあったと思うんですけど、「今のノアって何なの?」というのは全く不明だったので、だから選手、社員、ファンの皆さんも含めて意識改革する必要がありました。



──今の話はユークス時代の新日本がやっていた「猪木イズムからの脱却」に似てますね。


鈴木さん そうかもしれませんね。当時、棚橋弘至選手が道場にあった猪木さんのパネルを外したりとか「今の新日本」をひとつ形付けようとしてたと思うんですよ。ノアの場合は三沢さんが絶対的な存在であっても、隠れ処にしてはならないので。


──「三沢さん」という言葉を逃げ道にしないで、三沢さんが作ったノアを残すために頑張るしかないんですよね。


鈴木さん その通りです。だから三沢さん時代のロゴやマットの色は全部変えました。それでも三沢さんを感じさせたいと思う選手はコスチュームとか何かしらの手法で表現すればいいんです。その部分を選手や社員の皆さんにちゃんと丁寧にご理解していただくことからスタートしました。最初はSNSとかで批判が凄かったんですけど(苦笑)。


──確かにそうでしたね。でも、説明なしにされているわけではなくきちんと説明されていたので素晴らしかったですよ。あと「脱・三沢光晴」は誰かがやらないといけないことだったと思います。


鈴木さん それによって拳王選手や清宮海斗選手を筆頭に皆さん腹を決めてくれて「自分たちのノアにしていこう」と歩み始めてくれました。





「三沢光晴さんの正統後継者は潮崎豪選手。私が希望していたのは、三沢さん──潮崎選手──清宮選手という方舟の皇位継承ラインができること



──リデット体制のノアは一年だったと思いますが、振り返ってみていかがでしたか


鈴木さん 最終的に2019年11月2日両国国技館で行われたビッグマッチが5523人の満員で、本当に選手、社員の努力によって瞬発力が効いた状態だったので11月から各大会の観客動員数が良くなってきました。「毎日チケットがもっと売れるように努力してほしい」と口が酸っぱくなるほどお願いしてきて、皆さんが応えてくれて、すごく結束力というかそういうのを感じ取れるかけがえのない1年でしたね。


──先ほども言いましたが、リデット時代のノアはユークス時代の新日本を見ているようで、復調の兆しを感じさせてくれましたよ。


鈴木さん ユークス時代の新日本さんはかなり参考にさせていただきました。2007年11月11日両国国技館で行われた棚橋弘至VS後藤洋央紀のIWGPヘビー級選手権試合がものすごい名勝負だったので、5ちゃんねる(当時は2ちゃんねる)で新日本さんに対しては批判しかなかったのに、この試合で一変して、「今の新日本、いいんじゃないか」というムードになっていったんです。一つの試合で人の流れが変えることができるということをファンとして見ていたので、2019年11月11日の両国国技館大会までうまく繋いで、ビッグマッチを大成功させるという目標がありました。


──両国国技館大会でノアの評価を一変させようと考えたわけですね。


鈴木さん あと以前、鈴木秀樹選手が潮崎豪選手に「ノアはお前だよ」と言ってたじゃないですか。全く同意で、私は三沢さんの正統後継者は潮崎選手だと思っていたので、パブリックな部分は丸藤正道選手が後継者で、リング上の闘いは潮崎選手が三沢さんを継ぐべきと考えていました。色々とあって引き継ぎはうまくいきませんでしたが、パブリックは丸藤選手に任せておいて、試合で潮崎選手がノアの中心となって牽引していくのが一番の理想でしたね。


──そうだったんですね。


鈴木さん 私が希望していたのは、三沢さん──潮崎選手──清宮選手という方舟の皇位継承ラインができることでした。当社がノアを離れる少し前に潮崎選手がGHC王者になってくれたのはよかったです。以前、潮崎選手は三沢さんの緑と小橋建太さんの紫が入った黒のショートタイツを履いていて「それは違うよ」と思っていて、彼は色々と気を遣える人なので、三沢さんと小橋さんの魂を背負うという気持ちが強かったのでしょう。でも私は潮崎選手に「あなたは三沢さんだよ」と言いました。鈴木秀樹選手は「ノアはお前だよ」と言いましたが、私からすると「三沢さんはお前だよ」と。そこから清宮選手が潮崎選手から継いで、方舟の皇位継承というドラマが生まれるのかなと考えたんです。


──これはノアだけの話ではなく、日本プロレス界正統派の皇位継承なんですよ。


鈴木さん そうなんです。丸藤選手がずっと身体を張って「ノアは俺だ」とやってくれていたのですが、どちらかというと会社を背負うのではなくプロレス界の象徴として自由に好きなことをやってもらうのが丸藤選手の役割だと思うんです。当時ノアの象徴は潮崎選手だと信じていたので、彼の王者時代にサイバーエージェントさんに団体をお渡しすることができたのはよかったと思います。


──潮崎選手はノアの守護神ですよね。潮崎選手が試合でノアを引っ張っていって、GHC王座も一年を通してずっと防衛してきて、凄い名勝負を量産していったのが2020年のノアだったと思います。


鈴木さん 2020年の潮崎選手はGHC王座を防衛し続けますが、身体もボロボロで肩を怪我してずっと満身創痍だったと思いますが、そこから王座転落後に長期欠場に追い込まれたのはもったいなかったですね。あと私がノアの経営に関わる当初は「次は誰が辞めるんだろう」というネガティブなイメージがあったので、丸藤選手、杉浦貴選手、潮崎選手には「団体に骨を埋めると言えますか?」と問いました。「いつか辞めるかもしれないけど、今の気持ちはどうなのか」を示さないとファンの不安は払拭されないですから。それでも3人ともX(当時はTwitter)で宣言してくれたんです。


──「ノアに残って、骨を埋めます」という内容の発信ですね。


鈴木さん 丸藤選手、杉浦選手、潮崎選手はどの団体に行っても通用するじゃないですか。でも彼らはノアに残っている。それならノアに命を尽くしているということを自分から発信する責務があります。3人が迷うことなく「骨を埋めます」と言ってくれたので、団体に漂うネガティブな風向きは少しずつ変わっていきました。




リデット体制のノアがYouTube配信を活用した理由






──リデット時代のノアではYouTubeを活用されていた印象がありましたが、ネット配信に関しては意識されて運営されてましたか?


鈴木さん これは武田さんの考えで「ノアの闘いは面白いし、もっと伝える必要性があるからYouTubeで流した方がいいだろう」と配信をしたら、2019年の年末から2020年諸島にかけてノアの売上がよくなった要因のひとつはYouTube配信も大きかったですね。実はこの時期に海外の団体からノアと提携ができないのかという話があったんです。


──そうだったんですね!


鈴木さん その団体が一番ほしがったのは映像資産だったんです。旗揚げ時から現在までの映像はノアが持っていると考えていたようですが…。


──ノアは日本テレビが放映権を持っていたので、全盛期のビッグマッチを中心とした映像資産を団体で保有してません。ね


鈴木さん その団体からすると映像資産を団体が持っていないことはクレイジーな話なんです。この話は実現しませんでしたが、現在GLEATではテレビ局は介さずにYouTubeで大会配信をし続けているのは、テレビ局ではなく団体で映像資産を保有するためなんです。


──後々のことを考えてのことなんですね。


鈴木さん そうなんですよ。ノアでの提携話で体感した「映像資産は団体で保有しないといけない」ということを教訓にして今のGLEATを運営させてもらっています。大会の無料配信を行ってどんどんアーカイブを溜めていって、毎月いくらかの広告収入を得ていますので。



巨大企業サイバーエージェントへノアを譲渡



──2020年1月29日に日本のIT業界を牽引する巨大企業である株式会社サイバーエージェントがノア・グローバルエンタテインメント株式会社の100%株式を取得。連結子会社化することになりました。サイバーエージェントがノアのオーナー企業になった経緯を教えていただけますでしょうか。


鈴木さん 2019年11月の両国国技館大会が終わったタイミングで、武田さんに「もうこれ以上はうちの力では厳しいです。吸収合併も含めてノアを買ってくれるところを探していきませんか」とお話をさせていただきました。私としてはノアでの役割は終わっていて、どこかの団体に吸収合併をさせた方がいいのかなと考えていました。すると武田さんから「やっぱりノアは残すべきですし、残したいです」という反応だったんです。


──そこからノアを買ってくれる企業探しに入るんですね。


鈴木さん リデット時代のノアの盲点は映像系で、YouTubeのチャンネル登録者数や視聴回数も多くありませんでした。すると武田さんが『ABEMA』の北野雄司プロデューサーと以前一緒に仕事をしていたということだったので、「北野さんにこの件についてご相談できませんか?」とお伝えしたと記憶しています。


──『ABEMA』の北野さんは元々、テレビ朝日で映像制作をされていて、現在は、サイバーエージェントとテレビ朝日が共同で展開するインターネットテレビ局『ABEMA』格闘チャンネルでK-1・プロレス・格闘技の中継やABEMAオリジナル番組などの放送コンテンツに携わるプロデューサーで、確か『新日本プロレスワールド』の企画を立ち上げたのが北野さんなんですよ。


鈴木さん そうなんですよ。北野さんがテレビ朝日にいた時代に、武田さんは新日本でよくお仕事を一緒にしていて、気心が知れた関係だったようです。それで私は「サイバーエージェントさんが受けてくれるなら、ノアを譲渡することは大賛成です」と武田さんにお話をして、そこから武田さんがサイバーエージェントグループであるDDTの高木三四郎社長にご相談して、サイバーエージェントの藤田晋社長のOKをいただけました。武田さんと次のオーナー企業を探そうという話をしてから確か2~3週間で決着したと記憶してます。


──決断が早かったですね。確かDDTがサイバーエージェントの子会社になるときもかなり早くスピードで決まっていったと思います。ノアの身売り先が決まった時の心境はいかがでしたか?


鈴木さん 2019年12月初旬くらいだったかな。私が麻疹になっちゃったんです。完全隔離で家から出れなくなったで、ずっと家から電話でやり取りしていて、武田さんが全部動いてくれて、ものすごくいい条件でサイバーエージェントさんにノアを引き渡すことになりました。2020年1月末でお引渡しの契約が成立したんです。2020年は1月からコロナの話が出ていたので、もう少しズレていたらこの話はなかったかもしれません。


──運がよかったですね!


鈴木さん 今でも色々な方から「あのタイミングで決まったのはすごかったね」とよく言われます。藤田晋社長と高木三四郎社長、北野雄司プロデューサー、サイバーエージェントの皆さん、そして武田さんにリデットエンターテインメントは救われました。感謝しかないです。


──確かにそうですね。


鈴木さん リデットとしてはあのタイミングを逃したらどうなっていたのかと考えると…。


「ノアに関しては寂しさもありましたけど、やれることはやりきれた」



──ノアはリデット体制からサイバーエージェント体制に変わりました。リデットはGLEATを立ち上げるまで期間が空いていると思います。ノアをサイバーエージェントに譲渡してからはプロレス業界に関わるという考えはありましたか?


鈴木さん プロレスに関わるつもりはありませんでした。サイバーエージェント体制になってからもノアのスポンサーになって、リングマットに広告を入れたりしてました。それはプロレスファンとしてノアをサポートしたいなという考えでした。


──あとこれはお聞きしたかったのですが、ノアがリデット体制になってから拳王選手がかなり体制に反発していました。「金剛」というユニットを立ち上げた経緯として「親会社の言いなりにならねぇ」という反骨心があったからです。その拳王選手が2020年1月29日後楽園ホール大会での試合後のマイクで「元親会社のリデットエンターテインメントに一言、言いたいことがあるぞ!俺たちのブランド力をここまで上げてくれて、そしてな、スポンサーとして残ってくれてる?…いつもプロレスリングノアのために、強烈な努力をいただき、誠にありがとうございます!今後とも、何卒プロレスリングノアを宜しくお願い致します!」と語り、「金剛」のメンバーと共にリデットの社旗に頭を下げました。あれは嬉しかったんじゃないですか?


鈴木さん 私、会社の席で大泣きしちゃいましたよ…。そこにファンの皆さんからX(Twitter)でリプとかいただいて本当に涙が止まらなかったですから。もう胸が苦しくてしょうがないほど。


──拳王選手のリデットへの感謝のマイクに感動しましたよ。あのマイクはノアファンの総意だったと思います。


鈴木さん もう感動を超えちゃってましたよ(笑)。ノアに関しては寂しさもありましたけど、やれることはやりきれたという想いはありました。拳王選手の挨拶で、ひとつの大きなけじめがつけられたと思います。



新団体・GLEAT旗揚げの経緯



──ここから鈴木さん率いるリデットは2020年8月20日に新団体・GLEAT旗揚げを発表されました。新団体旗揚げの経緯についてお聞かせください。


鈴木さん 実はノアを運営した頃に田村潔司さんがリデットの社外取締役兼エグゼクティブディレクターに就任しているんですよ。ノアは厳しい練習はしているけど、それがあまり伝わっていないので田村さんがエグゼクティブプロデューサーとして入ることでプロレスの道場論を復活させ、世間に発信できるのではないかと考えました。でもそれが夢半ばで終わったんですけど、田村さんがYouTube動画でプレゼンをしてくれたんです。


──田村さんのYouTubeチャンネル『一人UWF放送室』ですね。


鈴木さん 私は田村さんと「何かやりたいですね」と話していたので、田村さんは自分がやりたいこと、私がやりたいことを動画でまとめてくれたんです。それがUWF女子でこれから人気が出るものだとホワイトボードに色々と書いてプレゼンしてくれてましたね。


──えええ!プレゼンター田村さんは誰も想像がつかないですよ(笑)。


鈴木さん それが細かく懇切丁寧にプレゼンしてくれましたので、完全に理に適っていたので「是非やってみたい」と思いましたよ。私はリデットで長州力さんを顧問、田村さんを社外取締役としてお迎えしているのかというと、二人とも常識人なんです。プロレス業界の中でも長州さんと田村さんはかなりしっかりしている人と私は思っています。


──そうなんですね!


鈴木さん あと長州さんや田村さんは物事の三階層、四階層の先を考えているんですよ。


──先々のことを考えているんですね。


鈴木さん その頃、NOSAWA論外さんもリデットの執行役員だったんです。NOSAWAさんから「どうやらWRESTLE-1が活動休止するようです。カズ・ハヤシさんが次の行き場所を探しているので一度、お会いしますか?」という話がありました。


──WRESTLE-1は2013年に全日本プロレスを退団した武藤敬司が設立したプロレス団体で、2020年4月1日、後楽園ホールで行われた無観客興行をもって活動休止。団体に所属していた選手たちはさまざまなリングに散り散りとなっています。カズ・ハヤシ選手は2017年からWRESTLE-1の社長を務めていました。


鈴木さん カズ選手にお会いして「マネジメント契約しましょうか」という話をさせてもらったのですが、「あと二人います。伊藤貴則と渡辺壮馬です」と言われて、伊藤選手と渡辺選手にお会いしました。瞬く間に仲間が3人になっていたんです。するとNOSAWAさんが「3人いたら団体ですよ」と言ったので、田村さんに相談したら「その団体を進めたらいいんじゃないですか。練習も見ますよ」という話になりました。



UWFは選手育成にものすごくいいブランド



──UWF女子の件は一旦置いて、新団体に向けて始動したわけですか。


鈴木さん はい。まずはカズ選手、伊藤選手、渡辺選手の三人は田村さんが主宰する登戸のU-FILE CAMPに週2回通って練習をスタートさせたと記憶しています。


──鈴木さんは田村さんの指導をご覧になられたことはありますか?


鈴木さん 1回あるかないかぐらいで、ちゃんとは見れてませんね。田村さんの指導はほとんど要所要所の大事なところしか喋らない、きちんと礼節の指導があるという話は聞きます。スパーリングしてくれる時もあれば、懇切丁寧に指導してくださる時もあるし、自分で考えなさいという時もあったりするようです。現在は井土徹也選手と福田茉耶選手がU-FILE CAMPに通ってます。


──リデットと鈴木さんがGLEATでやられた中でかなり大きなポイントになったのが令和の時代にUWFを復活させましたよね。団体内ブランドとしてLIDET UWFを立ち上げたのはどういった理由だったのですか?


鈴木さん 当初のGLEATはカズ選手が今までレスラー人生で経験されてきた日本、アメリカ

、メキシコのスタイルを取り入れたプロレスが主体になるのかなと考えていました。UWFは選手育成にもものすごく良いブランドだと思っていて、ロープには飛べないし、ルールの制約が厳しいプロレスなんです。でも、その中でエンターテインメントとして昇華させないといけないし、ファンに面白いと感じてもらわないといけないわけですから。


──選手育成の観点でUWFを捉えていたのですね。


鈴木さん UWFスタイルは寝技、打撃、投げ技と一つ一つの技を大切にじっくりとした攻防や殺伐感、緊張感を表現する闘いでありプロレスだと思うんです。だからカズ選手、伊藤選手、渡辺選手にはUWFの試合や練習をしてもらいながら、純プロレスもやってもらう形で進行することにしました。



(第2回終了)







 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、プロレス団体GLEAT代表であり、リデットエンターテインメント社長・鈴木裕之さんです。

 




(画像は本人提供です) 


 
 
 
【インフォメーション】
2024.4.17(水)新宿FACE
LIDET UWF Ver.4
開場17:30開始18:30
ent.lidet.co.jp/event/
#GLEAT #LIDETUWF #LIDET 


 

プロレスとの出逢い、初めて好きになったプロレスラー、プロレス業界に関わる以前の経歴、プロレス業界に関わる経緯、SANADA(真田聖也)選手をマネージメントしたした時期の話、プロレスリングノアのオーナー企業になった経緯、ノア時代の苦悩、田村潔司選手が鈴木社長にプレゼンした時の話、GLEAT旗揚げ、LIDET UWF、GLEATの今後について…。

 

鈴木さんから興味深い話が次々と飛び出しました。

 

  

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 鈴木裕之さんの場合
「第1回 私がプロレス業界に関わった理由」
 
 
 
鈴木さんがプロレスを好きになったきっかけ
 
 





──鈴木さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
鈴木さん こちらこそよろしくお願いします!

──まずは鈴木さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合をテレビで見たことがきっかけですね。プロレスから目が離せなくなって好きになりました。

──実際にテレビでプロレスを見てどのような感想を抱きましたか?

鈴木さん 初代タイガーマスクの試合を見ると超人的な動きじゃないですか。同じ人間の動きにはとても見えなくて、漫画やアニメの世界のスーパーヒーローは実在するんだなと感じましたね。


──今の話をお聞きすると初めて好きになったプロレスラーは初代タイガーマスクということですね。初代タイガーの魅力はどこにあると思いますか?

鈴木さん プロレスは闘いなんですけど、勝敗ではなくエンターテインメントとして魅せられたのかなと思います。試合開始からフィニッシュまでずっと目が離せない試合をしてきたのが初代タイガーの魅力かなと思います。


──初代タイガーは1981年にデビューしてほとんど負けることなく1983年に突如、引退しました。これは結構、驚かれましたか?

鈴木さん そうですね。ポッカリ穴が開いて、大きな喪失感を感じました。

──ちなみにプロレスファンから離れたわけではなかったのですか?

鈴木さん そこは、アントニオ猪木さん、長州力さん、藤波辰巳(現・辰爾)さん、ハルク・ホーガンさんといった選手を応援するようになっていたのでプロレスを離れることはなかったです。
 
 
昭和の新日本プロレスは「理想の地球」をリングで体現していた


──プロレスの入口は初代タイガーだけど、次第に新日本の魅力にハマっていったという感じでしょうか?

鈴木さん そうですね。当時の新日本さんはラッシャー木村さん、キラー・カーンさんとか身近には間違いなくいない人たちがリング上で色々なドラマを展開されていて、目が離せなかったですね。

──カーンさん、木村さん、アニマル浜口さんは確実に一般社会にはなかなかいないでしょうね。

鈴木さん あと新日本さんには外国人レスラーも凄いメンツが揃ってましたよね。子供ながらも今で言うダイバシティ「理想の地球」をリングで体現したのが新日本プロレスだったと思います。リングに集結した超人たちが時には仲間に、時には敵になったりして、大河ドラマを繰り広げてましたね。仮に勝敗と優劣はついていたとしても諦めなければタイトルは狙い続けることができるわけで、続けていくことの大切さをプロレスは教えてくれました。


──「理想の地球」という表現は素晴らしいですね!よくよく考えるとIWGPのロゴにも地球が描かれてますよね。では初めての会場でのプロレス観戦はいつ頃ですか?

鈴木さん 実は16歳の時からプロレスやコンサート会場の警備や誘導員のアルバイトをしていたんです。だから観戦というより仕事でプロレス会場に入ってました。色々な会場でアルバイトしましたけど、一番インパクトが強かったのは1987年12月27日・新日本さんの両国国技館大会ですね。

──あの伝説となった両国暴動事件ですね!この事件については堀江ガンツさんがNumber webで詳しく書かれているので、読者の皆さんにはチェックしていただければありがたいです。https://number.bunshun.jp/articles/-/846451 
 
では殺伐としたあの現場にいたのですか?

鈴木さん そうなんです。私は警備スタッフとして、会場入りした長州力顧問のアテンドしたり、背が大きいというだけでリングサイドの警備をさせられたんですよ。最終的に暴動に発展するのですが、リングサイドに人が押し寄せたり、リングに物が投げ入れられたりする光景を間近で見てしまいました…。両国暴動事件は自分が今まで見てきたプロレス興行の中で一番ショッキングだったので、あれはトラウマになりましたね。

──それほどの衝撃だったんですか!

鈴木さん  今でも脳裏にフラッシュバックするほどのトラウマですから。消せない記憶ってあるんですよ…。「もう絶対に許さない!」という1万人の熱狂と暴動を見て、人の怒りのエネルギーって凄いなと感じました。警備員として現場にいて、とても会場から出られる気がしなかったですから。

──そこからプロレスとはどのように接していたのですか?

鈴木さん 社会人になってから天龍源一郎さんが抜けた後の全日本プロレスさんの興行をよく見に行ってましたよ。毎月、後楽園ホールか日本武道館大会を観戦してました。
 
 
 
「お金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたい」


──ありがとうございます。では鈴木さんがプロレス業界に関わるまでの歩みをお聞かせください。

鈴木さん 高校を卒業して、コンサートやプロレス興行とかイベントの警備員を派遣する会社を起こそうと思って起業したのですが失敗して、父の勧めもあり約2年間イギリスに行ってました。

──イギリスから帰ってきてからどのような生活をされていたのですか?

鈴木さん 22歳で帰国してからもやはり社長になりたいという想いが途切れることがなくて、仕事をして行くなかで逆算して15年後の37歳には社長になろうと思うようになりました。広告代理店やパチンコホールで働いて、常に社長になるためのその人脈とか学びを得ていく日々を過ごしてました。32歳に今の会社に入ったんです。実はリデットエンターテインメントと(当時はエス・ピー広告)という会社は私が創業者ではないんですよ。

──そうなんですね!

鈴木さん 現在、創業者であるオーナーは引退されておりますが、2007年、37歳の時にリデットエンターテインメントの社長になりました。

──ちなみになぜ会社の社長になりたかったのですか?

鈴木さん 私の幼少期に『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ系)とかサスペンス系ドラマを見ていると、お金を巡る身内の争いによる殺人事件が多かったんです。鈴木家も遺産とかお金についてシビアな争いがあったので、子供ながら「人はお金に振り回される」と感じたんです。だからお金に振り回される人間ではなく、お金を振り回せる人間になりたいなと思ったときに将来の進路は総理大臣か社長の二択しかなかったんです。


──それは究極の二択ですね!

鈴木さん 総理大臣になるには凄く清廉潔白じゃないといけないのかなと思っていたので、色々な挑戦をしてみたいという想いを抱いて、社長を志すようになりました。お金をコントロールできる立場、自分で使えるお金を手に入れるには社長になるしかなかったんです。子供の時に、お金による親の喧嘩とか家族の変化を見てきたので。

──以前、『ハゲタカ』というドラマで「誰かが言った。人生の悲劇は2つしかない。1つは金のない悲劇、そしてもう1つは金のある悲劇。世の中は金だ。金が悲劇を生む」という名言があったんですよ。

鈴木さん 本当にその通りだと思いますよ。お金は大事だなと痛感しましたね。
 
 
 
低迷期の新日本を支えたエース・棚橋弘至選手の凄さ
 


──あまり思い出したくないと思われる実体験を語っていただきありがとうございます。リデットの社長になられてからどのような経緯でプロレス業界に関わっていくのですか?

鈴木さん 一番最初は私がプロレス好きということを知った、弊社の専務が社員の時いきなり新日本さんに連絡したんですよ。

──なかなか無謀なことをされたんですね。

鈴木さん その電話に応対してくれたのが、今はサイバーファイトでノアを統括している武田有弘取締役だったんですよ。「広告の仕事を出せるかわかりませんが、来てみますか」と言ってくれて、そこから細いながらも新日本さんと広告の関わりができました。


──最初にプロレス業界に関わったのはやはり新日本だったんですね。

鈴木さん 当時の新日本さんは棚橋弘至選手が全力プロモーション活動で頑張ってましたね。チケットも買わせていただいて、弊社のクライアント様へご招待や、社員共々多くの興行を観戦してました。


──団体のエースとして低迷期の新日本を支えて見事に復活させた棚橋選手は今や社長です。棚橋選手が新日本の社長になられると思われましたか?

鈴木さん 将来は社長になる人だなと当時から思ってました。色々なことがあって新日本を辞めるタイミングがあったのに、棚橋社長は辞めずに実力と努力でのし上がってきて、試合後にはマイクで「愛してま〜す!」と拳を突き上げたんです。当初はブーイングも飛んでいました。でも、挫けることなくずっと「愛してま〜す!」を貫いて、途中からブーイングから歓声に変わり、自身のプロレスが完成されていくことによって、最終的には大歓声を呼んでみんなの心を掴んでいったんです。棚橋選手への反応が変わっていく瞬間を拝見していて、「いかなる苦境も信念を貫くことの大切さを教えてもらえましたし、この人はいずれ新日本を取りまとめていくんだろうな」と。

──そうだったんですね。当時の棚橋選手は全国津々浦々、一人で地方各地でプロモーション活動を展開していた時期なんですよね。

鈴木さん 私はよく覚えているのが、大阪府立体育会館第二競技場大会で棚橋選手のサイン会があったんですけど、誰にも囲まれてなかったんですよ。それでも挫けないで、大きな声をだして前を向いている棚橋選手の姿を見て「組織の流れを変えることができる人」と感じました。


──棚橋選手によると「疲れない」「落ち込まない」「諦めない」は「逸材三原則」だそうですよ。

鈴木さん 本当の「逸材三原則」に則って、有言実行された人です。「ファンを愛している」「プロレスを愛している」といくら言っても、それがきちんと多くの皆さんに伝わったのは棚橋選手の偉大さですよ。プロモーション活動も「休まずにどんどん入れてほしい」と言っていたという話を聞いたことがありますから。

──地方に関してはコミュニティFMまで出向いて宣伝活動をされたそうですよ。

鈴木さん プロモーション活動も精力的にされて、肉体も維持して、あれだけ激しい試合をしていた棚橋選手には本当に尊敬しかないです。
 
 
フリー時代のSANADA選手をプロデュース


──ありがとうございます。これは棚橋選手は喜ぶと思いますよ。新日本との懸け橋となった武田さんが退社されてからリデットに入社されますよね。

鈴木さん 武田さんは新日本さんを辞めてから違う仕事をされて2年ほど経ってから「もう一度プロレスに関わりたい」というお話があったんです。その頃のリデットは対企業として広告のお仕事をしてましたけど、対顧客としてエンターテインメントのお仕事をやっていきたいなと思いまして、武田さんに「プロレスを事業化してくれませんか」とお願いすると快く承諾してくれてその後リデットに入社していただきました。

──武田さんは低迷期の新日本を裏方として支え、団体の執行役員を務め、コンテンツ事業で復活の後押しをされた功労者ですよね。

鈴木さん 弊社でももの凄い活躍とかけがえのない財産をのこしてくれました。

──リデットに入社された武田さんと最初はどのようなことをされたのですか?

鈴木さん 当時、アメリカから帰国したSANADA(当時は真田聖也)選手とマネジメント契約を結びまして、「1年間、やれるところまでやってみよう」とプロデュースすることになりました。


──確かSANADA選手は当時、大日本プロレスを主戦場にしてましたよね。実際に関わってみて、彼の印象はいかがでしたか?

鈴木さん 大変申し訳ありませんが、当時の真田聖也選手を一プロレスファンとして見ていて、技術は凄いんですけど表現力がないなと思いました。でも実際に接すると奥行きがある方で、ファッションとか興味があることにはとことん深掘りして形にしていった印象がありますね。私たちはSANADA選手の導線を作っただけで、あとは本人が頑張って走ってましたよ。彼が主戦場にしていたのは大日本プロレスさんですが、そのひたむきさはものすごく好感をもてるプロレスラーだなと思いました。

──SANADA選手が参加していた頃の大日本はメンバーが強豪ぞろいで豪華だったんですよ。2016年に開催された『一騎当千』というリーグ戦には彼以外に、関本大介選手、佐藤耕平選手、岡林裕二選手、石川修司選手、浜亮太選手、鈴木秀樹選手と実力者が集結してましたから。

鈴木さん 大日本プロレスの登坂栄児社長もSANADA選手に活躍の場を快く提供していただいたので、本当にありがたかったですね。


──SANADA選手はそこから新日本に参戦されますよね。

鈴木さん あれはものすごく運がいいと思いますよ。新日本に参戦するまでの1年間は弊社が担当したわけですが、彼が会場に登場した時にあまり反応がなかったんですよ。そこから瞬く間に逆転してたんで、それはよかったなと思います。

──2016年4月10日に新日本・両国国技館大会で行われたオカダ・カズチカ vs 内藤哲也のIWGPヘビー級戦で内藤選手が率いるロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(ロス・インゴ)のメンバーとして乱入したのがSANADA選手でした。実は解説の金沢克彦さんが驚いて「遂に来た!!」とちゃんと中継で彼についてきちんと補足してくれたので、映像を見た皆さんは「これはサプライズなんだ」とよく理解できたのかなと思います。

鈴木さん そうだったんですね。会場にいた時は「まだこのくらいなんだな」と言う感じだったんですよ。

──乱入したSANADA選手がラウンディングボディプレスやスカルエンド(胴絞めドラゴンスリーパー)を出してから観客から大きな反応があったような気がします。

鈴木さん いづれにせよSANADA選手はロス・インゴに入ったことが、その後のプロレスラー人生を激的に進化させたと思います。
 


なぜプロレスリングノアのオーナー企業となったのか⁈


──そこから次はどのような形でプロレス業界と関わることになるのですか?

鈴木さん 東京愚連隊興行やメキシコAAA日本公演に携わりまして、そこからDDTの新人育成ブランド『DNA』にお手伝いをさせていただきました。私としては『DNA』を預かってずっと運営させていただきたかったですが、当時の私はまだ力不足で目算が外れたところがありました。なので3~4ヶ月の関わりで離れる事となりました。

──確かにリデットが運営に関わっていた『DNA』は短かったですよね。

鈴木さん そこから弊社顧問である長州力の興行を4度開催させていただいて、2018年12月からプロレスリングノアの経営に携わることになりました。

──2018年2月28日、鈴木さんが社長を務めるリデットがノア・グローバルエンタテインメント株式会社の株式75%を取得して子会社化。そこからリデットがノアのオーナー企業となりました。なぜ、ノアを子会社にしたのですか?

鈴木さん 知人のご紹介で仲田龍さん(ノアで取締役統括本部長やゼネラルマネージャーを務めた方舟の参謀)が存命中の頃からノアとの接点は少しずつあったんです。仲田さんからも色々とお話しはあったものの形にはならず・・・当時、ノア社長・不破洋介さんからノアを引き継がせていただきました。私としてはひとりの選手のマネジメントからスタートして、単発興行、数か月だけど定期興行もやって、今度はメジャー団体の経営に関わる機会が目の前にあって「是非やってみたい」と即決させていただきました。

──思い切った決断をされましたね。

鈴木さん 武田さんから「本当にお金がかかるけど大丈夫ですか」と言われましたね。私としてはノアの経営に関わることで、団体を復活させることは難しいかもしれないけど、下げ止めをできる自信はあったんです。


──そうだったんですね。ノアを子会社にした当時のノアはどのように感じてましたか?
 

鈴木さん もう今日を生きるのに精一杯で明日がない会社でした。税金や年金とかもお支払いできていないという逼迫していて、企業として体を成してない状態ではありました。しかし、当時の全選手、全社員、誰よりもファン皆様から三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したいという強い志は感じ取ることができ、それが唯一の希望となりました。

──もしリデットがノアに手を差し伸べなければ、そのまま倒産という可能性はあったのですか?

鈴木さん ギリギリのタイミングではあったんですが、ノアだったら誰かが買ったと思います。出逢いさえあれば「ノアの経営に関わりたい、三沢光晴さんの旗揚げした団体を遺したい」と手を挙げる企業や個人の方はいたのではないでしょうか。但し、莫大な資金が必要なため中継ぎのような形でどこかの企業がお金を出して使い切って終わって別の企業に譲渡されていくという状態で、団体の生命を繋いでいくような形でノアは残ったかもしれません。


(第1回終了)


 
 

 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第1回 三沢さんが生きる目標だった」



私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第2回 推しは人格で選ぶ」






 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「最終回(第3回) 『あつのあ』と今の方舟について」
 
 
 
YouTubeチャンネル「あつまれ!のあのあチャンネル」を始めた理由
 


──連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さんは非公式ノア専門YouTubeチャンネル『あつまれ!のあのあチャンネル』(以下・『あつのあ』)を立ち上げられています。YouTubeを始めた経緯についてお聞かせいただければありがたいです。

 

連れ1000さん ノアをもう一度見るようになって、気になったのが「ノアファン怖い」というイメージでした。ノアファンのイメージを和らげることで、ノアが盛り上げればいいなという想いで始めました。あとイラストの投稿もSNSでやるようになって、ノアで絵師やっている人があまりいなくて、その時ノアを描いてたのはTACKさんやsiroiroさんくらいだった気がします。


──新日本を描く絵師さんは多かったですよね。


連れ1000さん そういうところも差を感じてしまって、なんとか埋めたいなあと思って描いてましたね。動画に関しては、20211月に「潮崎豪はなぜプロレス大賞MVPを取れなかったのか」をテーマに最初の配信を行いました。潮崎さんが大活躍したのに2020年のプロレス大賞を取れなかったんですよね。







──2020年のプロレス大賞は新日本の内藤哲也選手がMVP、潮崎選手は殊勲賞でした。


連れ1000さん この年の新日本はコロナ禍で割と興行を休んでいて、内藤さんが一年を通して活躍したのかというとそうでもなかったんですよ。IWGPヘビー級&インターコンチネンタル王座の二冠王にはなりましたけど。


──2020年はEVIL選手がIWGPヘビー級&インターコンチネンタルの二冠王になって、反則絡みの試合内容が多かった印象があります。


連れ1000さん あの時の新日本は不透明決着も多かったじゃないですか。それもあって新日ファンがノアも見てくれるようになった。ABEMAでノア中継がスタートした頃で、拳王VS潮崎豪(ノア/2020810日・横浜文化体育館・GHCヘビー級&GHCナショナル ダブル選手権試合)を見て「これが見たかったんだ!」というファンの声が多かったんですよ。


──確かにそうですね。


連れ1000さん それなのに潮崎さんがプロレス大賞を取れなかった。あまりにも悔しすぎて自分らで選ぼうと思って、XTwitter)でベストバウトとMVPを募集したんですよ。それが結構な応募数になったのでYouTubeを発表しようかなということで動画を配信しました。



──潮崎選手がプロレス大賞を取れなかったことがYouTubeを始めるきっかけだったんですね。


連れ1000さん そうですね。


──ちなみに2020年のネット・プロレス大賞のMVPは潮崎選手で、2位が内藤選手でした。だからプロレスファンはきちんと見てますよ。あと潮崎選手はコメントとかで発信するのではなく、主に試合内容で発信していくスタイルがまた三沢さんや小橋さんを彷彿とさせますね。


連れ1000さん それは嬉しかったですね。『あつのあ』を始める当時が新しいファンが流入している時期でイメージを変えてどんどん入りやすくしたくて、あと三沢さんや小橋さんを知らない人も増えてきたので、動画という形で彼らの功績を語っていきたいなといくつか動画を作らせていただきました。


──それが『俺たちの三沢光晴』という動画だったりするわけですね。


https://youtu.be/GANLseI5FWw?si=H-dRlAB-PZtIIZsI





https://youtu.be/3ZnAxNb6cZ8?si=1Pdbcqrn1Rsfsmh0



https://youtu.be/HzK22xnUCb4?si=DVusA-RuzvsF-qB0




連れ1000さん その一方でノア好きのプ女子会をやったりして、新旧ノアファンの溝を埋めたかったんですよ。


──『俺たちの金剛』はめちゃくちゃ面白かったですよ!


https://youtu.be/_btnqORDmdw?si=Q0tj1InXpNb3cWCN



https://youtu.be/w9kXwOMj87g?si=JZwo9jqUxmqyMeRW



https://youtu.be/YIKmVjb3ahI?si=BDJcHfO2NDDbnRNb



https://youtu.be/omWScM0cTjE?si=iTGC6Tg7p_yj6AMO




連れ1000さん ありがとうございます。あの回は熱かったですね!


──大変聞きにくいことですが、しばらく『あつのあ』の配信が途絶えていますよね。


連れ1000さん そうなんですよ。『あつのあ』をやることでファンも増えたかもしれませんけど、批判もありました。以前、ノアコーデという企画があって、誰でも参加できるという形でやったんですよ。それを「内輪で盛り上がっているだけ」と言う人もいたり、どんな人に対しても門戸は開いていたのですが


──それはノアに限ったことじゃないような気がします。


連れ1000さん だからみんなを巻き込んで何かをするのはやっぱり難しいですね。そこで挫折したかもしれません。


──そのお気持ちはよく分かります。みんなを巻き込んで何かをやろうとしても、みんなの気持ちは案外バラバラですよ。自分が思った通りに行くわけがないですし、ファンをまとめることは難題ですよね。


連れ1000さん 参加して楽しんでくれた人たちからは喜んでもらえたと思うんですけど、そこに入りきれない人たちからすると「一部で楽しそうにやっているだけ」と捉えられたりとか。でも入りたくても入れない方の気持ちはよく分かるんですよ。


──彼らからすると仲間外れにされている感覚はあるかもしれませんね。でもそれを内にとどめておけばいんですけど、不特定多数の皆さんが閲覧するSNSで発信するんですよね。


連れ1000さん 結構厳しい意見ありましたし凹みましたね…。今後、どのような形になるかはわかりませんが、また何かを発信することはあるかもしれません。


──ありがとうございます。連れ1000さんにお聞きしたかったのが、今のノアについてどのように捉えているのかを教えていただけますでしょうか。


連れ1000さん 今のノアは、明らかにターゲット層を変えてますよね。以前、新日本も同様なことがあったと思います。好きな男性プロレスラーを「推し」と呼ぶ女性ファンの皆さんは良い潜在顧客なわけですから、そっちの方向に舵を切るのは良いことだと思います。あとはその流れに対して僕も含めてこれまでのファンがどう受け止めるのかという問題があるんですよ。


──確かにその通りです!


連れ1000さん 今はプロレスが好きというより、アイドルやアニメとかを見る感覚でプロレスラーを応援している人が多いのかなと感じてますね。もちろんファンが増えるならそれもいいことだと思います。まあ時代ですね。


──今のノアについて色々とジレンマを感じている人たちは多いんじゃないでしょうか。


連れ1000さん  古参のノアファンは結構去りましたよね。以前新日からノアにファンが流れてきてたように、今は古参ファンは全日本に流れている印象があります。寂しいですね。



連れ1000さんが選ぶ名勝負とは!?


──ありがとうございます。ではここで連れ1000さんの好きな名勝負を3試合、挙げてください。


連れ1000さん これは僕の人生を変えた試合を主に選びました。まずは三冠ヘビー級選手権試合・川田利明VS小橋健太(1995119日・大阪府立体育会館)です。      


──この試合の二日前の1995117日に阪神・淡路大震災が発生し、甚大な被害と多くの死傷者がでました。中止になるのかと思いきや全日本は大阪大会を開催。メインの川田VS小橋の三冠戦は大熱闘となり、結果は60分引き分けで終わり、全日本コールも発生するなど、震災直後、被災者たちを元気づける伝説の三冠戦ですね。


連れ1000さん この試合は現地で見ました。僕は京都なので、阪神・淡路大震災では被害もありました。やるかやらないか分からないけど大阪大会に行くことにして、途中に神戸によって震災の被害をこの目で見ようと思ったんです。するとこんな言い方は適切か分かりませんが、がれきの山でまるで戦争の跡みたいな感じなんです。あまりに衝撃を受けました。全日本の大阪大会は中止じゃなくて開催されていて、馬場さんがこの日の全選手のファイトマネーを全額寄付を発表したんですよ。


──ありましたね!


連れ1000さん そしてメインの川田VS60分時間切れ引き分けなんですけど、最後の2分くらい小橋さんがずっと逃げてるんですよ。あとは川田さんがフォールに行けば勝利という場面で、小橋さんが這って逃げようとしている。その姿に感動しましたね。あの後、神戸は震災を乗り越えて立ち直りますけど、そのパワーの一つになったのは川田VS小橋の三冠戦だったんじゃないかなと思います。プロレスは人々を勇気づける力があるんだなとすごく感じました。


──小橋さんは感情を表現するアクションが天才なんですよね。


連れ1000さん そうですよね。あれは感動しましたよ



──小橋さんは人々の感情を揺さぶったり、心を振るわせたりする才能がずば抜けているのかもしれません。では2試合目をよろしくお願いします。


連れ1000さん この試合は僕がプロレスにハマるきっかけになったザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク(全日本・19771215日蔵前国技館/世界オープン・タッグ選手権公式戦)です。テリー・ファンクがものすごく心を震わすんですよ。倉持隆夫アナウンサーの「テリーがいった!左のストレート!」という名実況がたまらなく好きで、ブッチャーのフォーク攻撃を右腕に受けて退場をして包帯を巻いて帰ってくるんですよ。


──日本プロレス史における屈指の名シーンですよね。


連れ1000さん テリーのファイトは痺れましたし、かっこよかった!あんな勧善懲悪な試合をまた見たいなと思いましたね。


──ありがとうございます。では3試合を挙げてください。


連れ1000さん 拳王VS潮崎豪(ノア/2020810日・横浜文化体育館・GHCヘビー級&GHCナショナル ダブル選手権試合)ですね。


──あの試合は素晴らしかったですね!令和の四天王プロレスを見ているようでした。


連れ1000さん 正直、四天王プロレスは心の中で否定しながらも、どこか求めてしまうところがあるんですよ。ああいうハードなことはやらなくなった中で拳王VS潮崎はギアが一個、違ったのかなと。拳王さんのフットスタンプがあの試合に関しては体重の乗せ方とかヒットしてからの踏み込み方がエグいですよね。だから仕掛ける拳王さんと受けとめる潮崎さんからも「爪痕を残してやる!」という覚悟を感じました。


──ネットで「どこまでやるのか!」と湧いていた記憶があります。


連れ1000さん 拳王VS潮崎から「ノアがきている!」という追い風を感じましたね。僕が「連れてってくれ1000円」という名前でXTwitter)やYouTubeをやるようになったすべてのきっかけになった人生を変えた試合ですね。お互いのファイトスタイルが違うじゃないですか。平成の川田VS小橋、昭和の藤波VS前田(日明)、令和の拳王VS潮崎はたまらなく好きですね。


──ありがとうございます。


連れ1000さん これは1試合多くなりますけど、やっぱり三沢さんの試合は外せないですね。特に三沢光晴VSジャンボ鶴田(全日本/1990年6月8日・日本武道館)は今までプロレスを見てきてあの試合ほど燃えたことはないですね。


──今思うと当時の全日本ではあり得ないマッチメイクですよね。


連れ1000さん あの試合も若林アナウンサーの実況がいいんですよ!「両足にはまだボルトが入っているんです!」「こみ上げてくる瞬間にしかできないことがあります!」とか。


──「三沢に『ショートタイツになってみたら?』と言うと『両足にボルトが入っていて履けないんです』と語った」とか。


連れ1000さん 試合内容は19909月の三冠挑戦者決定戦、19914月の三冠戦の方がいいかもしれませんけど、三沢さんと一体になれた試合でしたね。


──個人的には三沢さんが鶴田さんに勝って、若林アナウンサーが実況を締める時に「プロレスラーを辞めなくてよかった」と言うんですよ。あれは三沢さんになり替わって出たフレーズだったんだろうなと思って感動しましたね。


連れ1000さん  みんな色々なものを三沢さんに乗せていたんでしょうね。僕らもうまくいかない人生の中で「三沢さんが勝てば人生が変わるかもしれない」って思えたんですよ。


──若林アナウンサーはよく「みんなの夢・三沢光晴」と実況してましたから。


連れ1000さん 今だと会社のプッシュなのかと思いがちですけど、当時はそんなこと全然考えてなかったですよ。何らかの意図はあったかもしれませんけど。



今後について



──ありがとうございます。ではここで連れ1000さんの今後についてお聞かせください。


連れ1000さん 『あつのあ』ではやりきれなかったプロレスの素晴らしさを伝えていきたいですね。プロレスと三沢さんに命を助けてもらった者としてどう伝えてくるのかという難しい課題はあります。でもなんとか僕なりの手法で若い世代に伝えていきたい。今は「推しの文化」が強くて、その場合は「この人、かっこいい」が中心ですよね。でもそれだとプロレスの魅力や楽しみ方の半分くらいなんですよ。奥行きのあるプロレスの魅力や楽しみ方を堅苦しい形ではなく柔らかい形で伝えていきたいです。


──素晴らしいと思います。連れ1000さんのようにイラストや動画といったビジュアルで伝えていく形はよく発信や拡散はされやすいのかなと感じます。


連れ1000さん そこをどう伝えていくのかを悩みながらやっていこうかなと。三沢さんにはみんながお参りに行けるようなお墓がないじゃないですか。今は三沢さんはみんなの心の中にあると思います。でもみんなの心から三沢さんがなくなってしまうと。そのために三沢さんの灯を絶やしたくないですね。三沢さんのことを伝えることで、生前にできなかった恩返しをしていきたいなと思います。


──私はブログやnoteで三沢さんの功績を綴ってきました。そのブログやnoteが生き続ける限りはネット上で三沢さんの凄さを伝えられるわけじゃないですか。そうすれば三沢さんがこの世にいなくても神話として生き続けるような気がするんです。連れ1000さんにはご自身の表現で今後もプロレスや三沢さんを伝えていってほしいなと思います。


連れ1000さん ありがとうございます。プロレスの魅力はもっといっぱいあるはずなので、ファンの声とかを拾い上げながら伝えていきたいですね。あと潮崎さんが今年デビュー20周年なので、これは華々しくやりたいです。三沢さんがいないので、僕の思いを託せるのはやっぱり潮崎さんなんで。

 



あなたにとってプロレスとは!? 



──連れ1000さんにとって潮崎さんの存在はかなり大きいですね。では最後にお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?


連れ1000さん これは難しいんですよ。ずっと考えているんですよ。うーんプロレスは応援歌です。僕の人生において特につらい時にはプロレスにずっと「頑張れ!」と励まされて勇気をもらってきたような気がします。近年はプロレスは楽しんだもの勝ちっていうところもあって、重く考えるとプロレスに対しても厳しく見ちゃうじゃないですか。プロレスを崇高だと思えば思うほど。


──重く思えば思うほど反動が出ますよね。それが結果的にプロレスを嫌いになる傾向もあります。


連れ1000さん 今の時代はプロレスをただ楽しんで見るだけの方が合っているんじゃないですか。プロレスに対してのリスペクトは常に持ちつつも、あまり神格化しないで日常にあるものと捉えることは大事ですよね。深く考えつつも、難しくは考えすぎないという絶妙なバランスでプロレスと接したいところで、プロレスをずっと楽しんで見ることはなかなか難しいですよね。


──同感です。今の時代は長期で愛するというよりも、短期で愛する感じなのでなかなか長続きしにくい傾向はあるかもしれません。


連れ1000さん そうなんですよ!今はファンの推しの団体やレスラーがよく変わる印象があります。あとはしんどくなってプロレスから離れるとか。


──もったいないですよね。プロレスは長く見れば見るほど面白いですから。これでインタビューは以上です。連れ1000さん、今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。


連れ1000さん こちらこそありがとうございました。


【私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合 /3回終了】













 


 

ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第1回 三沢さんが生きる目標だった」


 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「第2回 推しは人格で選ぶ」
 
 
 
「炎の飛龍」藤波辰爾選手の凄さと魅力
 



──ここで連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さんの好きなプロレスラーの凄さと魅力について大いに語ってください。まずは藤波辰爾選手です。

 

連れ1000さん 初めて見たのが小学生の頃だったんで、もう単純にかっこよかったんですよ。これは長州力さんや天龍源一郎さんもそうですけど年を取ってから面白がられる傾向があるじゃないですか。ドラゴンリングインとか。『マッチョドラゴン』も当時はそこまで変だとは思ってなかったですね。


──『マッチョドラゴン』は1985年に『コサキンワールド なんでもねぇんだよゲベロッチョ』の人気コーナーだったコサキンソングとして取り上げられり、『電気GROOVE ビリビリ行こうぜ』や『スーパーFMマガジン』でも紹介されたり、プロレスファン以外の層にに届いたある意味「伝説の名曲」ですよね。


連れ1000さん プロレス界隈ではかっこいいと思われていたのかもしれませんね。藤波さんは日本プロレス界において「ザ・ベビーフェース」であり、最初のヒーロー。猪木さんが「かっこいいレスラー」となると最初かもしれませんが、個人的にはかっこいいプロレスラー第1号は藤波さんだと思っています。




「完全無欠のエース」ジャンボ鶴田さんの凄さと魅力




──アントニオ猪木さんはスーパースターであり、超人なんですよね。確かに藤波さんはヒーロータイプで、子供たちに「大きくなって頑張ればこんなに強くなれる」と勇気を与えてくれた存在だったような気がします。次はジャンボ鶴田さんの凄さと魅力について語ってください。


連れ1000さん  僕が好きだった鶴田さんは善戦マンの頃なんですよ。


──トップレスラーと闘って敗退したり、タイトルマッチになると王座奪取に失敗し続けた頃の鶴田さんということですね。


連れ1000さん  はい。でも鶴田さんの技が凄くて、4種類のスープレックス(ジャーマン、フロント、ダブルアーム、サイド)が大好きでした。特にジャーマンは何回ビデオを巻き戻して見直すほど美しいんですよ。あと鶴田さんは人柄が見えた最初のプロレスラーだったのかなと。笑顔が素敵ですよね。


──確かにそうですね。


連れ1000さん  鶴田さんは普通にいい人なんですよ。僕が好きなプロレスラーは人柄で選んでいるかもしれません。長州力さんや天龍源一郎さんのように「プロレスに人生を賭けている」生き方にハマるファンが多かったと思いますが、鶴田さんのような「リングはリング」という仕事とプライベートをきっちり分ける生き方が好きでした。片手間でやっているように見えても強いじゃないですか。


──鶴田さんの魅力が浸透するには時間がかかるましたよね。


連れ1000さん  スポ根全盛の時代だったので鶴田さんの生き方は時代にマッチしてなかったんでしょうね。だから鶴田さんが日本人初のAWA世界王者になった時は嬉しかったんです。やっと鶴田さんが世界を取ってくれたので


──これはお聞きしたかったんですけど、連れ1000さんは一時期プロレスから距離を取られて、三沢光晴さんが2代目タイガーマスクの仮面を脱いだ1990年から本格的に戻られるじゃないですか。鶴田さんは三沢さんが率いる超世代軍の高き壁として立ちはだかりました。その頃の鶴田さんについてどのようにご覧になってましたか?


連れ1000さん  もう三沢さん推しでした。鶴田さんはあくまでも三沢さんのライバルという捉え方をしてました。多分鶴田さんが主人公になった全日本にあまり興味を持てなくなってしまったんですよ。当時若い頃の僕には今は素晴らしいと思えるオーバーリアクションとかも、周りの目とかもあって見ていてしんどくなってきてました。だから三沢さんには鶴田さんを乗り越えてほしいと強く願ってました。


──超世代軍と相対した時の鶴田さんが妙に色々な引き出しを開けてくるんですよね。


連れ1000さん 僕が好きだった頃の鶴田さんとは全然違う動きになってましたね。かなりえげつない攻めが多かったですから。天龍さんに引き出された部分が大きいと思うんですけど。ジャンピング・ニーの角度も違いましたから。


──あとキチンシンクも凄かったですね。


連れ1000さん あれめちゃくちゃ痛そうですよね。ジャンボラリアットも豪快にフルスイングして振り抜いているので、今だったらフィニッシュ級の破壊力がありますよ。




「プロレス界の盟主」三沢光晴さんの凄さと魅力




──ありがとうございます。次は好きなプロレスラー・三沢光晴さんの凄さと魅力について語ってください。


連れ1000さん 三沢さんは僕にプロレスを見ることに自信を持たせてくれました。今までこっそり1人でテレビで見てたものが、友達とみんなでワイワイ語れるようになるきっかけを与えてくれたのは三沢さんのプロレスでした。一時期、全日本ブームになってましたから。


──確かに1990年代前半は観客動員数、若い女性ファンが増えてましたね。


連れ1000さん あの頃は友達とかに「こんなに身体を張って闘っているんだよ。だから見てほしい」と全日本を布教しまくってましたよ。もし三沢さんがいなかったらプロレスから完全に離れて見なくなっていたかもしれません。あと当時の僕は毎日死にたいという精神状態だったので、受けて、受けて、立ち上がってから最後に逆転するという三沢さんのファイトに勇気をもらいましたね。


──三沢さんはどんな相手でも逃げずにちゃんと正面突破してくれるんですよ。


連れ1000さん 三沢さんってやられる時に耐える顔や反撃していく時の顔とかグッとくるんですよ。あと実況の若林健治アナウンサーが名調子なんですよ。



──確かに!若林アナウンサーと解説の竹内宏介さんの「若竹コンビ」が最高にいいんですよね。


連れ1000さん その通りです!熱くて最高なんです。「三沢が泣いてますよ!」「両ヒザにはまだボルトが入ってるんです!」とか。あの時代の全日本は色々と変わっていったので、タイミングが合ってましたね。


──若林アナウンサーは三沢さんのお母さんに取材してきて、それを実況に活用されてましたね。(199091日・日本武道館/三沢光晴VSジャンボ鶴田)


連れ1000さん  若林さんの実況はプロレスが大好きなのがものすごく伝わりますよね!


──ちなみに四天王プロレス(三沢さん、川田利明さん、田上明さん、小橋健太さんによる限界を超えるような技の攻防が繰り広げられる壮絶なプロレススタイル)についてどのようにご覧になってましたか?


連れ1000さん  当時はただただ「どうだ!これが全日本だ!」「これこそが最高のプロレスだ!」と思ってました。正直、頭から落とす技も多かったので危ないじゃないですか。でもね、僕は大丈夫だと思ってました。


──四天王プロレスはかなり危険な攻防が多かったですよね。


連れ1000さん   以前、全日本道場での練習で横になった小橋健太(現・建太)さんに菊地毅さんが頭の上に乗って、小橋さんが首を動かすように鍛錬している映像を見たことがあるんです。自らの頭に人が乗っている状態で、首の力で人を持ち上げるんですよ。あれを見ているので大丈夫なんやと思っちゃったんですね。


──鍛えられ方が尋常じゃないからということですね。


連れ1000さん 当時、まことしやかに「プロレスラーは鍛えられているからトップロープから頭から真っ逆さまに落ちても大丈夫なんや」と言う人がいたんですよ。だから小橋さんの練習風景を見ると大丈夫なんだろなと思ってましたね。


──プロレスラーは超人であり、選ばれた人間なので、その極みに達すると四天王プロレスのような凄まじい闘いができる場合もしれませんね。


連れ1000さん でも三沢さんがリング禍で亡くなったことによって、あれはやっぱり大丈夫じゃなかったと。そこから四天王プロレスのような闘いは控えてほしいなと思うようになりました。


──以前、渕正信選手が三沢さんは通常は背中で取る受け身を首筋の下で取って、危険な攻防を乗り切っていたというエピソードを語っていたことがありますね。


連れ1000さん 首で受け身って凄すぎですよ。小橋さんのバーニングハンマーのように完全に頭から落下している技とかあるじゃないですか。


──小橋さんのバーニング・ハンマーを初めて受けた時は、頭から落下するギリギリまで目を見開いて落ち方に合わせてなんとか首で受け身を取ったようです。四天王プロレスは肉体と技術、精神を極めた選ばれし者だからできたのかもしれませんね。


連れ1000さん できたと言うべきなんでしょうか?


──できたんですけど、あまりにも代償が大きかったですね。


連れ1000さん そうなんですよ。三沢さんは亡くなりましたし、川田さん、田上さん、小橋さんは未だにそのダメージを負って日常生活を送っていますよね。だから「あの頃は凄かった」とかは僕はちょっと言えないです。四天王プロレスを賛美していいのだろうかという疑問があるんですよ。


──それはありますね。


連れ1000さん だから三沢さんが亡くなったことをきっかけに頭から落とすような危険な攻防にブレーキがかかった部分はあるかなと思いますね。




「鉄人」小橋建太さんの凄さと魅力




──それはありますね。次の好きなプロレスラー・小橋建太さんについて語ってください。


連れ1000さん 僕は京都出身なので、小橋さんは地元のヒーローですよ。



──小橋さんは京都府福知山市出身ですね。


連れ1000さん 小橋さんに関してはデビューから引退までしっかりと追うことができた初めてのプロレスラーでした。やっぱり小橋さんと一緒に自分自身も強くなっていったような気がします。


──三沢さんはどちらかというと後ろについてこいという感じで、小橋さんは一緒に走ろうというタイプですよね。


連れ1000さん 菊地毅さんとアジアタッグを取ったり、三冠王座を取ったりして駆け上がっていく姿が眩しかったですよね。小橋さんは途中大きな挫折もあったかもしれませんけど、最終的には右肩上がりでレスラー人生を終えていったという印象が強いんですよ。


──そうかもしれませんね。


連れ1000さん 最初から見ていたという部分で小橋さんには思い入れがすごくありますね。腎臓ガンから復帰した時もものすごく勇気をもらいました。


──小橋さんは2006年に腎臓ガンが発覚し手術を受けて、2007年に奇跡の復帰を果たします。しかし、その後怪我が絶えず、欠場と復帰を繰り返し、最終的に首の状態が悪化してドクターストップがかかり2013年に引退しました。小橋さんの引退についてはどのように感じましたか?


連れ1000さん 小橋さんの引退試合は現地では見れませんでしたが、映画館が会場のクローズドサーキットで観戦しました。もう十分、小橋さんを堪能することができました。レスラー人生を全うされたと思います。


──同感です。


連れ1000さん 小橋さんのレスラー人生って栄光も挫折も含めてストーリーとして出来すぎぐらいに美しいですよね。新人時代に台頭してきた時の期待感とか凄かったじゃないですか。


──天才タイプではなかったかもしれませんが、色々な技ができて体力と肉体とハートを兼ね備えていて、とてつもない可能性を20代前半の小橋さんから感じることができましたよね。


連れ1000さん あれは好きになりますよ。新日本では武藤敬司さんが華やかなプロレスをされてましたけど、全日本ではオレンジ色のショートタイツの小橋さんがムーンサルトプレスを使っていたのは、全日本ファンにとっては希望の光でした。


──小橋さんのレスラー人生は劇画に描きやすいんですよ。


連れ1000さん その通りなんですよ!小橋さんと一緒に握り拳を握るように、見ている側が気持ちを乗せやすいんですよね。




「豪腕」潮崎豪選手の凄さと魅力



──ありがとうございます。では連れ1000さんが選ぶ好きなプロレスラー。最後に語っていただくのは潮崎豪選手です。


連れ1000さん 潮崎さんのプロデビュー戦は生観戦していて、当時のノアでは小橋さん、三沢さん、秋山準さんの次が出てこないという状況があって、丸藤正道さんやKENTAさんはいるけどジュニアヘビー級なんですよ。ヘビー級の正統派レスラーが待望されていました。


──力皇猛さん、森嶋猛さん、杉浦貴さんとなると少し違うんですよね。


連れ1000さん 片や新日本には棚橋弘至さんがいて、中邑真輔さんがいて、柴田勝頼さんがいました。その状況下で2004年にデビューしたのが潮崎さんなんですよ。あのルックスと身体能力。凄い高いジャンプでムーンサルトプレスをするじゃないですか。彼が育てば三沢さんはやっと引退できるなと思いましたよ。


──確かにそうですね。


連れ1000さん 三沢さんとのコンビでグローバルタッグリーグ戦を優勝して、その後のGHCタッグ戦で三沢さんが亡くなり、翌日に潮崎さんは力皇さんを破り、GHCヘビー級王者になりますよね。ただ三沢さんが亡くなったことのショックが大きくて…。また小橋さんがノアを離れて引退されて、秋山さんや潮崎さんがノアを退団してバーニングとして全日本に移籍するじゃないですか。


──201212月で秋山選手、潮崎選手、金丸義信選手、鈴木鼓太郎選手、青木篤志さんがノアを退団。2013年に全日本へ移籍しています。


連れ1000さん そこでノアから少し距離ができてしまった。ノアの情報は追ってましたけど、会場に行くまでの想いはなくなってしまいましたね


──2015年に鈴木みのる選手が率いる鈴木軍がノアに襲来した時は忸怩たる想いがあったんじゃないですか?


連れ1000さん うーん。逆にノアを盛り上げてくれて僕はありがたかったですけどね。そんなノアを一時期離れいた自分を引き戻してくれたのが、実は拳王さんなんですよ。


──そうなんですね!


連れ1000さん 拳王さんが週刊プロレスのインタビューで、「昔、三沢や小橋が好きだったけど今は会場に来ていないやつらがいるだろう。その時代に三沢と小橋が好きだったヤツらはそこそこお金に余裕があるはずだ。そういうヤツらは俺を見にノアに来い」と言うわけですよ。


──なかなか踏み込んだ発言ですね!


連れ1000さん 一時期はホームレスになるくらい商売がうまくいかない時もありましたが、頑張って商売を浮上させて、生活が安定してきたんですけど、今度はそのお金をどう使えばいいのか分からない。楽しみというか目標がなくなっちゃったんですね。そんな時に拳王さんが「俺たちに預けてみないか」と言っている。「これや!」と思ってまたノアを応援するようになって、さらに2015年に潮崎さんが全日本を退団してノアに戻ってくるんですよ。ノアに帰ってきた潮崎さんが金髪になっていてめっちゃカッコよくなっているんですよ。試合内容は四天王プロレスみたいなことをしていて「これは推さねば」と思いました。そこから潮崎さんを激推ししています。


──そうですよね。


連れ1000さん 2020年の潮崎さんと拳王さんの対決は小橋VS川田を見ているようで、四天王とは違うハードヒットという形でプロレスの限界に挑んでいるような気がしました。潮崎さんからは三沢さんの魂を受け継いでいる部分を感じますよね。


──2020年の潮崎さんはMVP級の活躍をされましたね。


連れ1000さん 頑張りましたよね!「I am NOAH」を名乗るようになって、藤田和之さんに勝って、齋藤彰俊さんとの試合もよかったし、中嶋勝彦さんや杉浦貴さんとの試合も素晴らしかったですね。あまりの激戦でダメージが深くなって長期欠場に追い込まれてしまうところまで師匠の小橋さんっぽい(笑)


──潮崎さんの魅力はどこにありますか?


連れ1000さん 彼は多くを語らないんですけど、表情やちょっとした動きとかでいろんなことを伝えてくれる。マイクやSNSに頼らない、三沢さんや小橋さんの歴史や伝統を感じますよ。ラーメンとかで例えると、具材で派手に見せるんじゃなくてちゃんとしっかりとしたスープの生地を取って、ちゃんとした麺を作っているという感じですね。


──別にみんなみんな喋って言葉でプロレスをする必要はないわけで、色々な表現方法があっていいと思いますね。


連れ1000さん 確かに。あとめちゃめちゃ受けてくれるから対戦相手はみんな潮崎さんのことを好きになるでしょ。業界で潮崎さんの悪口はあまり聞いたことがない。これも人柄なんでしょうね。


──そうですよね。


連れ1000さん 実は僕の息子が潮崎さんの大ファンなんですよ。僕が三沢さんや小橋さんが好きで、息子が潮崎さんが好きになったというのも偶然とは思えなくて、やっぱり趣向も親と子で受け継がれたのかもしれません。今は親子二代で潮崎さんを応援させてもらえているので、それが嬉しいですね。息子も潮崎さんをきっかけに歴史を遡って知ろうとするわけで、そうなると息子と三沢さんや小橋さんの話ができますから。それは三沢さんの得意技エメラルドフロウジョン、小橋さんの得意技ムーンサルトプレス、チョップ、ラリアットを使い続ける潮崎さんがいるからその光景は成立しているんです。これは潮崎さんに感謝しています。


──素晴らしいですね!


連れ1000さん  僕は三沢さんがいなかったら、この世にはいないです。そうなると息子も生まれてない。あと息子の誕生日は三沢さんのデビュー日(821日)なんですよ。そこも何かで繋がっているような気がするんです。


(第2回終了)



 

ジャスト日本です。

 

 

 

 

「人間は考える葦(あし)である」

 

 

 

これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。

 

 

プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。

 

 

 

 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 

 

 

前編「逸材VS闘魂作家」  

 

 

後編「神の悪戯」 

 

 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!

 

前編「偉大な盗人」 

 

 

後編「闘魂連鎖」 

 

 

 

プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 

 

前編「1980年生まれのプロレス者」 

 

 

 

 

後編「幸村ケンシロウを語る会」 

 

 

 

 

 

 

4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

(写真は本人提供)

 

 

鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。

 

主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。

 

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(写真は本人提供)

 

安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講

 

オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/

 

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新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。

 

 

 

是非ご覧下さい!

 

プロレス人間交差点 鈴木修☓安部潤 前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」 

 

 

 

 

 

プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

後編「コブラさんからの手紙」

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

グレート・ムタのテーマ曲『MUTA』誕生秘話

「色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』」(鈴木さん)

 

 

 

 

──実は今回、昭和プロレステーマ曲研究家のコブラさんからお手紙を預かっているんですよ。

 

安部さん ちなみに大変失礼かもしれませんが、コブラさんはどういった方なんですか?

 

──昭和プロレステーマ曲研究家で、プロレステーマ曲に関しては多分日本でトップクラスで詳しい方なんですよ。

 

安部さん そうなんですね。

 

鈴木さん コブラさんや木原文人リングアナウンサーが揃ったらすべてのプロレステーマ曲は網羅できますよ。私は自分のテーマ曲のこともこの二人に聞きますから。どの日にどの会場で流れたとか。みんな教えていただいてますよ。あの域に達するのは本当にすごいと思います。

 

──コブラさんの著書『昭和プロレステーマ曲大事典』は尋常じゃないほどのマニアックな作品なんですよ。そのコブラさんの手紙には鈴木さんと安部さんへの質問がございましたので読ませていただきます。

 

「鈴木さん、ご無沙汰しております。昨年のGスピリッツのインタビューの際はお世話になりました。安部さん、初めまして。昭和プロレステーマ曲研究家のコブラと申します。今回はジャスト日本さんにお願いしまして、失礼ながらお二方に書面という形でご質問させていただきます。よろしくお願い致します」(コブラさんからの手紙より)

 

鈴木さん  よろしくお願いします。

 

安部さん よろしくお願いします。

 

 

 

──「一つ目の質問です。グレート・ムタについてお二方にお聞きします。まず鈴木さんへの質問です。別キャラの曲をアレンジするという手法は90年代のテーマ曲界において最大の発明であり快挙だと思っているのですが、最初に『HOLD OUT』を和風アレンジにするというアイデアは如何にして生み出されたのでしょうか?」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん   ムタのテーマ曲を制作することになって、「ムタは忍者なので曲調は和風だよな」というイメージができてました。私が若い頃から色々な神社や仏閣巡りをしていて、そこから得たヒントも入れたり、あと歌舞伎や能楽の色々な楽器を使って、津軽三味線とかも全部自分の中でごちゃまぜにして、忍者と和風をイメージして『HOLD OUT』の旋律に乗せて作ったんですよ。『MUTA』のプロトタイプは音を一個ずつ流して繋げていって、シーケンサで最初のベースとドラムのテンポだけ作っておいて、あとは全部手で弾きました。「ムタ」「よぉー」という掛け声を自分でマイクに言って完成しました。制作時間が短くてあっという間にできたテーマ曲でした。

 

──冒頭の「ムタ」の掛け声は鈴木さんの声だったんですね!

 

鈴木さん マイクを持って掛け声するとメーターの針が左右に揺れまくったんですよ(笑)。CDのレコーディングの時にエフェクターの方からもっと叫ぶ感じでやろうとか色々なアイデアが出たんですけど、私はボソッと言った方がいいと思ったので、プロトタイプもCDでも掛け声は同じでしたね。

 

──それは正解ですね。あれで不気味さが増しましたから。

 

鈴木さん ありがとうございます。ムタがスーパー・ストロング・マシンとよみうりランド(1991年8月25日)で闘った時に月が出ている中で入場したりとか、色々なシチュエーションに融合していくのを最初からイメージして作ったのが『MUTA』でした。私も楽しく制作できたので本当に感謝しています。

 

 

 

──鈴木さんが制作した『MUTA』の次にムタのテーマ曲を担当されたのが安部さんです。コブラさんの手紙でも言及されているので読ませていただきます。

 

安部さん はい。

 

──「安部さんへの質問です。ムタの手法は『トライアンフ』に変わってからも受け継がれ、『愚零闘武多協奏曲』を安部さんが編曲という形で手がけられました。この曲の製作秘話のようなものがあれば是非お聞きしたいです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん 『愚零闘武多協奏曲』も鈴木敏さんからの指示でしたね。この曲も含めた7曲収録のイメージアルバムで出したんですが、ムタって悪役ではありますけど悲壮感もありますよね。そうしたものも出しつつ、劇判(映画やドラマなどのストーリー中に流れる音楽)のようなイメージで製作した記憶がありますね。

 

 

小島聡選手のテーマ曲『RUSH!!』誕生秘話

「小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。ここからコブラさんの次の質問です。

「お二方への質問です。お二方両方とも作曲された数少ない選手の1人が小島聡選手なんですが、それぞれどういったイメージで作曲されたのでしょうか?(鈴木さんは『STYLUS』、安部さんは『RUSH!!』)」(コブラさんからの手紙)

 

 

 

鈴木さん 武藤全日本時代に木原文人リングアナウンサーからご依頼を受けて制作した小島選手のテーマ曲が『STYLUS』。武藤全日本において小島選手がチャンピオン、トップレスラーとしてやっていくというイメージで作りました。2021年に出したCD(『鈴木修ワークス 爆勝宣言』)の中に『STYLUS』が収録されていますが、これは現場で使われたものじゃないんです。現場で使われていたのはプロトタイプで、力強く音の輪郭の部分がうまく出せなくて、そこは残念だったなと思います。でも2021年発売のCDではうまく制作できたなと思っています。

 

──小島選手のテーマ曲に関しては鈴木さんよりも安部さんが制作した『RUSH!!』のイメージが強くなってしまうんですよね。

 

鈴木さん そうなんですよ。私は新日本担当を離れてから他団体も含めてあまりプロレスのテーマ曲を聞かなくなったんですよ。小橋さんの時の全日本やノアの時に比べるとそこまでガッツリ関わったわけではない時にご依頼を受けたので、その辺がテーマ曲制作においてちょっとピントが絞り切れていなったなという反省点がありますね。

 

──安部さんは小島選手のテーマ曲『RUSH!!』をどのようなイメージで制作されましたか?

 

安部さん 小島さんは僕の中では正統派プロレスラーのイメージがあったので、ちょっと色を出すのは難しかったような記憶があるんですよ。直線的なイメージで曲を作ったような感じです。

 

──『RUSH!!』は名曲で未だにこの曲がかかると自然発生的に「小島」コールが発生しますからね。

 

安部さん そうなんですね。余談ですけど、近くのカレー屋で偶然、小島夫妻にお会いしましてご挨拶させていただきまして、緊張しながら「小島さんのテーマ曲を制作させていただきました」とお伝えすると気を付けして深々とお礼して「ありがとうございます」と言ってくださり、本当にいい人でした。

 

──安部さんが制作されたテーマ曲の中でも『RUSH!!』はプロレスファンに愛されてる屈指の名曲だと思います。

 

安部さん ありがとうございます。

 

 

 

なぜ、藤原喜明選手は一時期『ダーティーハリー4 』をテーマ曲にしていたのか?

「この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから『UWFの匂いがしないものを』と言われたのは覚えています」(鈴木さん)

 

 

 

 

 

──コブラさんからの鈴木さんへの質問です。

 

「去年のGスピの取材で聞けなかった事なんですが、昭和63年に藤原喜明がドン・ナカヤ・ニールセンと異種格闘技戦を行なった時から『ダーティハリー4』に変わったのは、どういう経緯だったのでしょうか?あれだけ定着していたワルキューレから変えるのはかなりの決断だったと思います。自分としては、当時は前田らが新日を離れて新生UWFを立ち上げた頃なので、藤原からUWF色を払拭する狙いがあったのかなと予想していたのですが。あと、出来れば選曲理由もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

鈴木さん これは新日本からUWFの匂いを消すというようなことを依頼されまして、『ワールドプロレスリング』の中で関節や小物を折るSEをつけて『ダーティハリー4』を採用させていただきました。この曲の件で藤原さんとお話はしてなくて、田中秀和リングアナウンサーから「UWFの匂いがしないものを」と言われたのは覚えています。

 

 

 

『炎のファイター』オーケストラバージョン誕生秘話

「全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時はソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました」(安部さん)

 

 

──ありがとうございます。コブラさんから安部さんへの質問です。

「『炎のファイター』をはじめ『パワーホール』や『燃えよ荒鷲』など過去の名曲のアレンジをご担当される事が多いですが、その際に心がけていた事はございますか?『トライアンフ』よりもさらに『古典』というべき曲ばかりなので、かなりのプレッシャーもおありだったかなと思いますが、そのあたりのご心境もお聞かせ願えれば幸いです」(コブラさんからの手紙)

 

安部さん どの曲も原曲がインパクトが強かったんです。音は昔の音源はあるけど、CDにするときに演奏の権利上できないときは完コピが多かったんですね。『燃えよ荒鷲』は結構大変でしたけど。『炎のファイター』も完コピバージョンも作ったことがありました。

 

──『炎のファイター』オーケストラバージョンに関しては後に藤田和之選手がPRIDE参戦時から使うようになりましたね。

 

安部さん あれは何も知らなかったですよ。藤田選手が好きでテレビでPRIDEを見ていたらいきなり流れてきたのでビックリしました(笑)。猪木さんが亡くなってからも色々なテレビ番組でもこの曲が使われているので完全に独り歩きしてますよ。『炎のファイター』オーケストラバージョンは全然予算がなかったので、全部打ち込みでやりました。当時は

ソフトシンセとかなかったので、CDとかを駆使して頑張って作りました。

 

──安部さんが手掛けたリアレンジがかなり古典の曲でしたが、こちらに関するプレッシャーはありましたか?

 

安部さん プレッシャーはもちろんありつつも、自分がそれに携われる喜びの方が強かったかもしれないですね。

 

──これでコブラさんから質問は以上です。手紙の最後に「鈴木修さん、安部潤さん両氏の今後一層のご活躍を期待しております」という一文で締めくくられておりました。

 

鈴木さん ありがとうございました。

 

安部さん ありがとうございました。

 

──では最後の質問をさせていただきます。お二人にとってプロレステーマ曲とは何でしょうか?

 

鈴木さん この質問はよくいただきますし、私も年々、言うことが変わっていっています。この年齢になって感じることですが、選手の人生と一緒に歩んでいけたり、自分の主観と客観、選手の主観と客観とかあらゆるものが交わる部分を担うのがプロレステーマ曲なのかなと思います。

 

──ファンと選手交わる分を接着する役目を果たしているということでしょうか?

 

鈴木さん そういう捉え方もできますし、選手にとってテーマ曲は人生の中の思い出のひとつになったり、自分を奮い立たせるものにもなりますし、それが何か色々なもので繋がっているような気がしますね。時々、選手と会場で会ってテーマ曲の話になって、ファイトスタイルとかプロレス観を聞くと色々なものがそこでクロスオーバーしているなと感じますね。

 

──ありがとうございます。安部さん、よろしくお願いいたします。

 

安部さん 鈴木さんに素晴らしいことを言われてしまい、その後言うのは恥ずかしいんですけど(笑)。映画音楽や昔のヒット曲を聴くと当時の自分を思い出したりするじゃないですか。プロレステーマ曲も昔のことを思い出させてくれる音楽のひとつだと思います。映画とかヒット曲よりも、もしかしたら人によってさらに深い音楽の一つかもしれません。

 

──確かにそうですよね。

 

安部さん プロレステーマ曲は背景音楽の中でもマニアックな世界観があって、人によっては人生の応援歌になっているのかなと思います。仕事に行く前にプロレステーマ曲を聴く人もいるでしょうから。

 

──鈴木さん、安部さん、これで対談は以上となります。ありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。

 

(プロレス人間交差点 鈴木修✕安部潤・完/後編終了)

 

 

 

 

 

 

 

 

【特別掲載】

鈴木修さんと安部潤さん主要テーマ曲リスト

(昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさん作成)
※こちらに掲載している鈴木修さんと安部潤さんが作曲に携わったテーマ曲は主なものをピックアップしています。もし抜けがあったりした場合はコブラさんまでご一報よろしくお願いします!今回、掲載しているリストは2020年4月17日に追加させていただきました改訂版です。
 
昭和プロレステーマ曲研究家
コブラさんのX(Twitter)
https://x.com/kokontezangetsu
 
 
(鈴木修さん)

 

 

 
 
(安部潤さん)
 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで3度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 



プロレス人間交差点 木村光一☓加藤弘士〜アントニオ猪木を語り継ごう!


前編「偉大な盗人」 


後編「闘魂連鎖」 


プロレス人間交差点  佐藤光留☓サイプレス上野 


前編「1980年生まれのプロレス者」 



後編「幸村ケンシロウを語る会」 





4回目となる今回は作曲家・鈴木修さんと作編曲家・安部潤さんのプロレステーマ曲の巨匠対談をお送りします。

 

 

 

 

 



(写真は本人提供)



鈴木修

作曲家、ギタリスト。1965年静岡県出身。

1986年よりTV番組や舞台音楽制作者として活動。三冠王者、IWGP、GHC、G1 チャンピオンなど多くの選手達に楽曲を提供。、プロレスファンの間では「ミスター・プロレステーマ曲」と呼ばれている。現在はプロレスや舞台の創作を中心に、放送関係出演、個人様御依頼の制作や演奏といった多岐に渡る音楽活動を行っている。


主な楽曲提供選手:遠藤哲哉、藤波辰爾、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝、佐々木健介、小橋建太、越中詩郎、小島聡、秋山準、潮崎豪、ジェイク・リー、グレート・ムタ等。


X(Twitter)https://x.com/OTOSAKKA56



 




(写真は本人提供)


安部潤

3歳より、ピアノ講師である母のもとピアノを始める。92年より上京、作編曲家・サウンドプロデューサーとして、J pop、Jazz Fusionシーンにおいて数多くのレコーディング、ライブツアーに参加、また映画、イベント、またテレビやラジオのCM音楽など、多岐に渡るジャンルの音楽を幅広く手がけている。「初⾳ミク」のLA公演、タイのジャズフェスへの自己グループでの出演、中国の国民的アーティストの楽曲の編曲など、海外での活動もめざましい。LAやNYレコーディングを含むJazz Fusion系のソロアルバムを3枚リリースしている(最新作、「Walk Around」Sony Music)。昭和音楽大学非常勤講


オフィシャルウェブサイト

https://junabe.jp/


X(Twitter)https://x.com/JunAbe_JunAbe2





新日本プロレスの数々のオリジナルテーマ曲を世に生み出した「ミスタープロレステーマ曲」鈴木修さん。ウッドベル時代の新日本プロレスのオリジナルテーマ曲を制作された「インストゥルメンタル・アーティスト」安部潤さん。プロレステーマ曲の巨匠二人による対談はおおいに     

 お二人のテーマ曲との出逢い、テーマ曲の作り方、思い出のテーマ曲など対談は大いに盛り上がりました。


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

鈴木修☓安部潤

前編「プロレステーマ曲の巨匠対談」









プロレステーマ曲巨匠二人の想い

「鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました」(安部さん)

「安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきます」(鈴木さん)




──鈴木さん、安部さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は数々の名プロレステーマ曲を作曲された音楽家対談を組ませていただきました。テーマ曲マニアにとっては夢のマッチメイクだと思います。よろしくお願いします!


鈴木さん よろしくお願いいたします!


安部さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレステーマ曲との出逢いについてお聞かせください。


鈴木さん やっぱりアントニオ猪木さんの『炎のファイター』ですね。あとアブドーラザブッチャーの『吹けよ風、呼べよ嵐』は素晴らしいですね。私がプロレスを見始めたのが新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げ当初だったので、アントニオ猪木VS大木金太郎の喧嘩マッチ、アントニオ猪木VSストロング小林での猪木さんのジャーマンとか鮮明に覚えています。テーマ曲がない時代からプロレスを見てますが、なんとなく自然にテーマ曲に馴染んていけましたね。


安部さん 猪木さんの『炎のファイター』は知らず知らずのうちに聴いていて、テーマ曲を意識して聴くようになったのはミル・マスカラスの『スカイ・ハイ』です。中学校の時に吹奏楽部にいて『スカイ・ハイ』をよく演奏していたんですよ。



──ちなみにお二人がお仕事でプロレステーマ曲と接点を持たれたのはいつ頃でしたか?


鈴木さん 新日本の1986年10月9日・両国国技館大会ですね。アントニオ猪木VSレオン・スピンクス、前田日明VSドン・中矢・ニールセンが行われた興行で、「お前、プロレス詳しいからやってみろ」と言われて、テーマ曲を現場で出す仕事に携わりました。本当に新人で機械の扱いは慣れてなかったので緊張したのを覚えています。


安部さん 僕の場合はウッドベルの鈴木敏さんから依頼がきたのがきっかけです。確か1997年くらいだったと思います。鈴木敏さんは若くして亡くなってしまい本当に残念です。



──ウッドベル代表でプロレステーマ曲のプロデューサーとして活躍された鈴木敏さんは2007年に54歳の若さで他界されました。



安部さん 鈴木修さんを前にして言うのは大変おこがましいのですが、長らく鈴木修さんが新日本で作られてきたテーマ曲を作り変えるという話がきて、そこで僕はテーマ曲制作に携わることになりました。僕も含めてプロレスファンには鈴木修さんの作品が根付きまくっていて、リニューアルすることには抵抗がありました。でもそこに挑んだので責任重大だったと記憶しています。


──鈴木修さんが手掛けたテーマ曲は定番であり、スタンダードになってましたよね。


安部さん そうですよ。僕も作り手ですけど、ファン心理がわかるので「いいのかな?」と思いながら制作しましたから、ちょっと心苦しかったですね。だから今回の対談でお会いできて本当に嬉しいんですよ。


鈴木さん 安部さんは音楽家として実績を残されているので、この対談でお話をお伺いして勉強させていただきますよ。



テレビ番組での選曲について

「例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました」(鈴木さん)




──今回の対談はテーマ曲マニアからすると奇跡の遭遇ですよ。元々、鈴木さんはオリジナルテーマ曲を制作する以前は既存曲をテーマ曲として選曲されていたんですよね。



鈴木さん はい。当時私がいたTSP(東京サウンド・プロダクション)は代々、新日本プロレスの選曲に関わっていて、前任が引き継ぐ形で選曲するようになりました。これはなかなか説明にくいのですが、テレビの音響効果とか選曲はTSPがやっていて、新日本の選曲=テレビの選曲だったので、番組の担当者と一緒に選んでました。『ワールドプロレスリング』が1987年に「ギブUPまで待てない!」に改編してスポーツ局から編成局制作3部(主にバラエティー番組を手掛ける部門)に変わって、またスポーツ局に戻りかける過度期に番組の担当になって、選曲にも携わるようになりました。


──『ワールドプロレスリング』が放送時間や番組内容が変わったり、何かと混沌としていた時期ですね。


鈴木さん 番組の音響効果を2年くらいやりましたね。


──当時のテレビ番組ではシンプルな選曲をあまりしなかったという話を聞いたことがありまして、例えばタイガーを伝える話題に対して、タイガーという曲名が入ったものを使うとかはご法度だったとか。


鈴木さん そうですね。やっぱりテレビ番組は毎日色々なジャンルが放送されていて、例えば何かしらで闘う場面があった時に映画『ロッキー』のテーマ曲を使うのは、全国ネットの番組でそれは安易だから使えない。だからプロとしてこのフレーズを使っていないけどイメージに合う違う曲を探してくるという作業を日々、やってました。番組の選曲に関わった皆さんは探し当てる作業に苦労されていて、本当にプロフェッショナルなんですよ。



──最適な1曲を探すのに1日かけて行う場合もあると聞いたことがあります。


鈴木さん やっぱりそういう場合もあるし、とことんこだわる人もいましたね。私はそこまで時間をかける方ではなかったのですが、やはり慎重にやらなきゃいけないところがあって、その時はあの先輩から何度もダメ出しを食らってから選曲したこともありました。番組の選曲や音響効果に関わった皆さんは本当に苦しい想いをしてやってたので、なかなかその現場にいないと分からないかもしれません。  




ウッドベル時代のテーマ曲制作体制

「プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね」(安部さん)



──安部さんは元々ミュージシャンをされていて、既存曲ではなくオリジナル曲を制作する側として、テーマ曲に関わりますよね。


安部さん はい。前にいた事務所の人と鈴木敏さんが知り合いで、そこからテーマ曲制作に関わりました。プロデューサーの鈴木敏さんとディレクター、作曲家の古本鉄也さん、そしてギタリストであり作曲家のVEN(戸谷勉)さんらとの3、4人のチームで制作しておりました。一人でいくつかのペンネームで書いてた作曲家もいたりしましたね。


──ウッドベル時代のテーマ曲は平田淳嗣選手のテーマ曲『ミッドナイト・ロード~迷信~』や大谷晋二郎選手のテーマ曲『キャッチ・ザ・レインボー~流星~』は”N.J.P.UNIT”が演奏されています。それが安部さんや古本さんたちのチームだったわけですね。


安部さん そうです。テーマ曲のレコーディングに関わるエンジニアには後にMISIAやゴジラ、ウルトラマンの音楽に関わる川口昌浩さんが合流して、みんなで一緒にテーマ曲を作ってましたね。 



藤波辰爾選手のテーマ曲『RISING』誕生秘話

「これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、最終的には『変わっていくんだ』と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています」(鈴木さん)




──数々のウッドベル時代の貴重な話をいただきありがとうございます。ちなみにお二人はどのようにしてプロレステーマ曲を制作していくのか、テーマ曲の作り方についてお聞きしたいです。


鈴木さん 元々私は自分のバンドがあって、既存曲を選びながらも作曲思考が強かったんですよ。私たちの周りにでは音楽制作に力を入れている人も多くて、当時在籍していたTSPの中でも「既存曲で行くのか、オリジナルで行くのか」というせめぎあいがありました。そこを最初は上から指示されたことをやりながら、テレビ朝日の番組の中に少しずつ許可を得ながらオリジナル曲を制作して使ったりしてました。テーマ曲の作り方について結論から言いますと、決まりとかないんです。自分で頭の中で思い描いたメロディーをずっと溜めて、それを何かの形で音にしたり、ギターを弾きながら「これ、いいな」とか、鍵盤を鳴らして「このフレーズに合った曲ができたからこうしよう」とかケースバイケースですよ。


──決まったパターンでテーマ曲は生まれていないということですね。


鈴木さん プロレスの場合は選手と一緒に同行することが多いので、テレビや試合以外の彼らと接してきたので、その関係性やコミュニケーションからヒントを得た部分もあったかもです。



──鈴木さんが初めて手掛けたオリジナルテーマ曲は藤波辰爾選手の『RISING』です。この曲はどのようにして誕生したのですか?


鈴木さん  メインのフレーズを当時色々なものを自分の中で蓄えてまして、あの頃の藤波さんがビッグバン・ベイダーとか怪物と相対していて、「もっと力強い試合をしなければいけない」とおっしゃっていた時期で、色々とお話をさせていただき、これは藤波さんを鼓舞するような力強いテーマ曲を作らないといけないなと思いまして、ビクターレコードさんからCDを出しましたが、最終的には「変わっていくんだ」と藤波さんと話ながら制作していったのが印象に残っています。


──『RISING』はこれまでの藤波選手のイメージを一変させたテーマ曲でしたよね。


鈴木さん 藤波さんのテーマ曲といえば『ドラゴン・スープレックス』が一番華やかですごく人気があったんですけど、『RISING』をやる時の年齢は立場や状況も変わってきていたので、それを踏まえて制作させていただきました。


──1988年12月9日・後楽園ホールで行われたケリー・フォン・エリック戦(IWGP&WCCWヘビー級ダブルタイトルマッチ)で『RISING』が初披露されました。


鈴木さん あの時はプロトタイプの『RISING』が会場に流れましたね。



ウッドベル時代の秘話公開

「(小川直也さんのテーマ曲)『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本(真也)さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ」(安部さん)



──ありがとうございます。安部さんはどのような形でテーマ曲を作成していくのですか?


安部さん 自分からこんな感じを作るのではなく、ウッドベルの鈴木敏さんから「こういう感じで作ってほしい」という明確なビジョンを聞いてから制作してました。以前、橋本真也さんの新テーマ曲を制作したことがあったんです。橋本さんのテーマ曲といえば鈴木修さんが制作した『爆勝宣言』があまりにもハマっていたので、「やり変えていいのか」という葛藤があったのですが、作ってみると橋本さんよりも小川直也(当時、プロ格闘家として新日本に参戦)さんの方が合うということで小川さんのテーマ曲として採用されたことがありました。


──それが小川直也さんが主に新日本参戦時に使用していたテーマ曲『S.T.O.』だったんですね!


安部さん 『S.T.O.』は最初は風の音だけ流れて、そこから宇宙戦艦ヤマトっぽい曲調で仕上げたあのテーマ曲は僕が制作したもので、橋本さん向けに作ったつもりが結果的に小川さんのテーマ曲になったんですよ。テーマ曲は個性がはっきりわかる選手は作りやすいですよね。


──個人的には安部さんが制作された『S.T.O.』が小川さんに一番合ったテーマ曲だと思います。


安部さん ありがとうございます。あと長州力さんの『パワー・ホール』も作り直したことがあって、曲調は同じなんですけど、音とかを新しくしたんですよ。でも作業をしながら「これは原曲を超えるものにはならないな」と。頑張って作ったんですけど案の定、僕が作り直した『パワー・ホール』はあまり使われなかったですね。


──確立された原曲をリニューアルすることはなかなか難しいですよね。では今まで制作された曲の中で思い出に残っているテーマ曲についてお聞かせください。


鈴木さん 橋本さんの『爆勝宣言』、武藤敬司さんの『HOLD OUT』、蝶野正洋さんの『FANTASTIC CITY』、佐々木健介さんの『POWER』、越中詩郎さんの『SAMURAI』は特に印象に残っています。あと全日本で小橋健太(現・建太)さんのテーマ曲作成依頼を受けた時に、小橋さんからもかなりご指摘をいただき、意向を取り入れて『GRAND SWORD』という曲を作りました。作成に時間をかかりましたし、自分の中では初めての体験ができたテーマ曲でした。結果的に私が制作したテーマ曲の代表作になりましたので、小橋さんには本当に感謝しています。


──小橋さんの『GRAND SWORD』は素晴らしい名曲ですよね!


鈴木さん ありがとうございます。それから潮崎豪選手の『ENFONCER』、ジェイク・リー選手の『戴冠の定義』も印象に残っています。ジェイク選手に関してはサウンドからどんな風に作るのかということも確認しながら制作するという初めての手法でした。あと近年ではDDTの秋山準選手ご本人から直接ご依頼を受けて、テーマ曲『FINAL EXPLODER』を手掛けました。曲のベースにイントロとか最初の部分の激しさとかはすごくリクエストをいただいて、この部分を盛り上げていくのかという付け足す手法で挑みました。



新日本・テレビ朝日側にいたテーマ曲担当の本音

「日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は『完全に負けたな』と思ってました」(鈴木さん)




──鈴木さんは近年は全日本、プロレスリング・ノア、DDTといった団体の選手のテーマ曲制作に関わってます。以前、ジャイアント馬場さんのお別れ会(1999年4月17日・日本武道館)で馬場さんのテーマ曲『王者の魂』ギターバージョンを演奏されました。これはどういった経緯で決まったのですか?


鈴木さん これはお別れ会の2~3日前にご依頼をいただきまして、ベースだけ作っておいて、あとは本番で演奏させていただきました。実は私は猪木さんの30周年記念大会が横浜アリーナ(1990年9月30日)で開催されたときに猪木さんのかつてのライバルが登場したセレモニーがありまして『炎のファイター』スローバージョンの作成依頼が来まして、制作したことがありました。そのイメージがあったようで馬場さんのお別れ会の時に全日本からご依頼を受けたということです。



──猪木さんの『炎のファイター』スローバージョンを作られたことがあったんですね。


鈴木さん あとジャンボ鶴田さんのテーマ曲『J』スローバージョンにも関わりました。私はジャンボさんの『J』がプロレステーマ曲の中で一番好きなんですよ。とにかく日本テレビさんが手掛けた全日本のテーマ曲がクオリティーが素晴らしくて、当時テレビ朝日側にいた私は「完全に負けたな」と思ってました。だから『J』をカバーすることになった時は安部さんのように「私が触っていいのだろうか⁈」という葛藤はありました。



nWoJAPANテーマ曲誕生秘話

「あの前奏の『エヌ・ダブリュー・オー』は鈴木敏さんの声なんです」(安部さん)




──『J』スローバージョンは個人的に鶴田さんのレスラー人生に凄く合っていて、いい曲だと思います。安部さんは今まで作られた中で思い出のテーマ曲はありますか?


安部さん 小川さんの『S.T.O.』と後年、藤田和之さんが使っている猪木さんのテーマ曲『炎のファイター 』オーケストラ・バージョンですね。あと白使VSアンダーテイカー(みちのくプロレス1997年10月10日・両国国技館)で白使のテーマ曲を作るために新崎人生さんにイメージを聞きながら、一緒に付きっきりでテーマ曲制作したことは印象に残っています。人生さんは素晴らしい方で人格者でしたよ。



──安部さんはnWoジャパンのテーマ曲や前奏にも関わっているんですよね。


安部さん そうなんですよ。あの前奏の「エヌ・ダブリュー・オー」は鈴木敏さんの声なんです。プロレステーマ曲を制作させていただいて嬉しかったのはレスラーの皆さんの素顔を知れたことですね。蝶野さんや天山さんのヒロ斎藤さんに対するリスペクトとかザ・グレート・サスケさんがエレクトーン5級を持っていたとか、佐々木健介さんが息子さんを連れてレコーディング現場に来られたりとか、中西学さんはコスチュームに着替えて「こういうイメージなんです」と言われたときは面白かったです(笑)。



──ありがとうございます。ちなみに個人的にお聞きしたかったのが鈴木さんは後藤達俊さんのテーマ曲『Mr.B.D.』を制作されていますが、この曲はどういうイメージで作られたのですか?


鈴木さん 私はよく新日本の道場に行って、橋本さんと遊ぶことが多かったんですよ。テレビ解説でお世話になり可愛がっていただきました山本小鉄さんもよく道場に来られていて、小鉄さんが道場にいると緊張感が走るんですよ。隅っこにいると小鉄さんから「こっちに来なよ」と言われてセンターを座らせてもらうと、横から後藤さんの影が見えたんですよ。小鉄さんが退席された後に後藤さんから「俺の曲はまだなのか」と言われて、これがいつもの恒例みたいになってきてたんですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。


鈴木さん 何度も「俺の曲はまだか」というのがいじりとかじゃなくて本当の「まだか」に気がついて急いで制作したのが『Mr.B.D.』なんです。


──この『Mr.B.D.』は基本的に同じメロディを繰り返すような構成をされています。後に中邑真輔選手の新日本時代のテーマ曲『Subconscious』が『Mr.B.D.』の曲調に似てまして、中邑選手自身がレイジング・スタッフが大好きで、「(レイジング・スタッフの選手のテーマ曲は)曲としては単調かもしれないけど、ベースがよくて、レスラーと相まって独特の味がしみ出てくる」と語っているので、後藤さんのテーマ曲から影響を受けていると思われます。


鈴木さん そうなんですね!ブロンド・アウトローズ(レイジング・スタッフの前身となるユニット)のテーマ曲『禿山の一夜』がイメージに合っていて素晴らしかったので、そこからの後藤さんの『Mr.B.D.』に繋がったと思います。    




二人の今後

「プロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います」(鈴木さん)

「今後、あのようなイベント(『シンニチイズムミュージックフェス』)があれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです」(安部さん)




──ありがとうございます。ではここからはお二人の今後の活動についてお聞きしたいと思います。


鈴木さん プロレスだけじゃなくてあまり知られてない部分だとかジャンルを問わずに活動しているので、これからも継続してやっていきたいですね。あとプロレスに関しては選手とか団体の関わりが近年大きく変わったと思います。若い世代の音楽家の皆さんとか感性の違う方々が今、すごくいい曲を制作されています。私も依頼を受けたテーマ曲はしっかりとやっていきます。あとプロレスは以前に比べてファン目線に戻ってきていて、楽しく観戦しています。その辺をエッセンスとして取り入れて、今後もテーマ曲制作に携わりたいと思います。


──鈴木さんのX(Twitter)を見ているとプロレス熱が戻ってきているなと強く感じますよ。


鈴木さん ありがとうございます。自分が少年時代にプロレスを見ていた時のように「やっぱりプロレスラーは凄いな」という見方が強くなってますね。


──プロレス熱が戻ってきた鈴木さんからまた名作が生まれるのではないかと期待しています。では安部さん、よろしくお願いします。


安部さん 僕はプロレステーマ曲に関しては20年くらい関わっていませんが、今までやってきた色々なアーティストのサポートや自分のライブとかを地道にやっていきたいと思います。でも現在でも唯一プロレスと接点があるのが、プロレスラーだけどバークリー音楽大学出身の矢口壹琅(雷神矢口)さんとすごく仲良くさせてもらっているんですよ。


──ええ!!そうなんですね!


安部さん 矢口さんがプロデュースしている怪獣プロレス(プロレスと怪獣と音楽が融合した総合エンターテイメント)で二回演奏する機会をいただきました。矢口さんは色々な団体と絡んでいてさまざまな経験をされていてお話もすごく面白いんですよ。先日私のライブに矢口さんに出ていただいたりもしました、とてもいい経験でした。


──素晴らしいです!


安部さん あと最近、松永光弘さんと仲良くさせていただいていて、松永さんと矢口さんが別々に出てるライブをち見に行ったりしましたよ。松永さんも謎の音楽活動をされてますよね(笑)。


──松永さんはオブジェなどを改造して作る自作楽器作りが趣味で、2019年のR-1ぐらんぷりアマチュア部門で古時計を改造した楽器で優勝しているんですよ。


安部さん 松永さんのライブを拝見しましたけど、何とも言えない凄いライブでしたよ。



──安部さんは著名なミュージシャンのアレンジに携わったり、作曲でご活躍されています。これは鈴木さんも出演された『シンニチイズムミュージックフェス』(2022年11月17日・国立代々木競技場第一体育館)という“奇跡のプロレス入場曲フェス”のようなイベントが今後開催されたら、安部さんは参加したいというお考えはありますか?


安部さん あれはちょっと悔しかったんですよ。親しくさせていただいている山本恭司さんや石黒彰さんが出ていたので、「残念だな」と思いながら見てました。だから今後、あのようなイベントがあれば参加したいですし、鈴木さんとも共演したいです。


──鈴木さんと安部さんの共演は見たいです!


安部さん 鈴木さん、よろしくお願いします!


鈴木さん 安部さん、こちらこそよろしくお願いします!


(前編終了)












ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで2度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 




3回目となる今回はプロレスラー・佐藤光留選手とラッパーのサイプレス上野さんによる対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)




佐藤光留

 1980年7月8日生まれ。岡山県岡山市出身。173cm 93.10kg 

主要タイトル歴:世界ジュニア、アジアタッグ、IJシングル 

スポーツ歴 :レスリング、柔術、墓石麻雀5級 

得意技: 蹴り、関節技、北斗百裂アウトレイジ野球 趣味・特技:釣り、きもちく拳法 

好きな有名人: 来栖うさこ、岬恵麻、エロマンガパンチ 

好きな食べ物: sio

 会場使用テーマ曲: 「俺ら代表取締役辞任するだ」鳥羽周作


1999年にパンクラスに入門。総合格闘技で腕を磨き、2008年よりプロレス参戦。以後、DDTや全日本プロレスで活躍、 全日本ジュニアに強いこだわりを持ち絶対的な中心を自負する。ミスター・天龍プロジェクトの異名も取る。'23年3月開催のジュニアの祭典では田口隆祐&今成夢人と変態トリオを結成。8月の自主興行ではエル・デスペラードと一騎打ち。〝現在進行形のU〟と称される大会「ハードヒット」のプロデュースも行っている。 




 

 




(この写真は御本人提供です)

 


サイプレス上野


サイプレス上野とロベルト吉野のマイクロフォン担当。通称『サ上』。

2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で、サイプレス上野とロベルト吉野を結成。"HIP HOPミーツallグッド何か"を座右の銘に掲げ、"決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント"と称されるライブパフォーマンスを武器に、大型フェスやロックイベントへの出演、バンドとの対バンなどジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。


2020年にはサイプレス上野とロベルト吉野として結成20周年を迎え、2022年3月16日には漢a.k.a GAMI、鎮座DOPENESS、TARO SOUL、KEN THE 390、tofubeats 、STUTSらが参加する7枚目のオリジナルフルアルバム「Shuttle Loop」をリリース。


現在、サイプレス上野は、テレビ東京「流派-R SINCE2001」、FMヨコハマ「BAY DREAM」にレギュラー出演中の他、TVCMナレーションなど、越中詩郎級の『やってやるって!』の精神で多方面に進撃中。


公式HP  http://sauetoroyoshi.com/






佐藤選手、上野さん、進行を務めた私も1980年生まれのプロレス者同士です。お二人のプロレスとの出逢い、1990年代のプロレスについて、好きな名勝負、今後について…。最高にディープでマニアックで、最初から最後までずっとゲラゲラ笑いながらプロレスを語らう対談となりました。この記事を読んでストレス発散やフラストレーション解消になれば幸いです!


 

是非ご覧下さい!


プロレス人間交差点 佐藤光留☓サイプレス上野 前編「1980年生まれのプロレス者」 





プロレス人間交差点 

「変態レスラー」佐藤光留☓「LEGENDオブ伝説」サイプレス上野

後編「幸村ケンシロウを語る会」









「僕、ヒップホップが好きなんですよ。ラッパーさんは自分が生きてきた道を歌うじゃないですか。これはプロレスラーも同じ(中略)面白いプロレスはもちろん大事なんですが、面白い人間がやらないとプロレスって全く意味がないんです」(佐藤選手)





──1980年生まれのプロレス者対談、ディープに盛り上がっています。ここから後半戦に突入です。佐藤選手、上野さん、よろしくお願いいたします。


佐藤選手 よろしくお願いいたします!


上野さん よろしくお願いいたします!


佐藤選手 突然ですが、今回上野さんとじっくり話すことができるので、音楽とプロレスの共通点について考えてきたんですよ。


上野さん おお!それは気になります!


佐藤選手 実は僕、ヒップホップが好きなんですよ。ラッパーさんは自分が生きてきた道を歌うじゃないですか。これはプロレスラーも同じなんですけど、例えばムーンサルトプレスは誰でも使うけど、武藤敬司さんが自分の肉体の一部を引き換えにしながら打ってきたムーンサルトプレスと他の人のムーンサルトプレスとはどんなに形が綺麗でも違うと思うんですよ。ヒップホップもすごくいい歌があっても、その人以外の人が歌うと違うものなんですよ。僕はずっと興行を手掛けてますけど、面白いプロレスはもちろん大事なんですが、面白い人間がやらないとプロレスって全く意味がないんです。「コイツ、面白いな」「めちゃくちゃな生き方をしているな」とかプロレス界じゃないと見れない人間に僕は会いたいんですよ。アイアンメイデン以外が弾いているアイアンメイデンの曲は、アイアンメイデン感がないじゃないですか。


上野さん めちゃめちゃ分かります!ラッパーは、自分たちが生きてきたことをちゃんと楽曲として伝えなきゃいけないんですよ。俺たちみたいなちょっと歳を取った世代の人間でも若い世代に「これくらいはできるよ」と生き方を見せないといけないし、俺たちの先輩であるZeebraさん、スチャダラパーさん、RHYMESTERさんが歌ってることとか重みが違いますし、それは武藤さんのムーンサルトプレスのような年輪と重みと似ているのかなと思います。プロレスラーの方々は自分の身を削るようにリングに命を捧げて闘っています。ラッパーたちも、言ったことに責任が問われることが多いと思います。J-POPで恋愛の曲を歌うのは、歌手としてはそれでいいかもしれないし、俺もすごい好きです。でもラッパーは何かと「自分が言ったことにちゃんと責任を持てよ」と言われる文化なんですよ。




「ハッピーエンドもバッドエンドも意味の分からない終わり方があるのがエンターテインメントなんですよ」(上野さん)



──ヒップホップはその人の生き方が問われるジャンルですよね。


上野さん そうなんですよ。その部分がプロレスとヒップホップは似ていると思います。MCバトルは総合格闘技的な見方をされるんですけど、背負っているものが違うし、色々な闘い方があるんです。俺はMCバトルに、初期UFCに出ているプロレスラー代表というスタンスで関わりたいですね。


──「ザ・ビースト」ダニエル・スバーン的な感じですね。


上野さん ハハハ(笑)。UFCJAPANのトーナメントを優勝して「プロレスラーは本当は強いんです」と名言を残した桜庭和志選手をイメージしていたんですけど(笑)。正攻法で来る奴らがいる中で、頭に有刺鉄線をグルグル巻きにしてMCバトルで闘いたいわけですよ(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。いいじゃないですか!


──それは「ミスターデンジャー」松永光弘さんですね(笑)。


佐藤選手 最高ですよ。上野さんの心意気は好きですね!僕は映画が好きなんですけど、同じセリフでも俳優によって重みや説得力が違うじゃないですか。そういうところにも心をグッと掴まれることがありますね。今、全日本のエース・宮原健斗、新日本のエースで社長の棚橋弘至さんとか、お客さんに興行で満足してもらって笑顔で帰すエンターテインメントとか言っているけど、もちろんそれは大事。でもみんなが笑顔を帰って盛り上がるだけのエンターテインメントって凄く底が浅いような気がするんです。色々な価値観があるからこそエンターテインメントの奥深さが出るわけで。




──確かに!


佐藤選手 ヒップホップは友達が死んだ曲もあれば、友達が刑務所に入ったことを曲にしたり、自分の失恋話を曲にしたり、人生でなかなかうまくいかなかったことがあるから今があるというメッセージがあるじゃないですか。笑顔を帰すことがエンターテインメントみたいなことを言っているプロレスラーはインディーを見ていないと思いますよ(笑)。


上野さん 間違いないですね(笑)。ハッピーエンドもバッドエンドも意味の分からない終わり方があるのがエンターテインメントなんですよ。「今日はよかったな」だけじゃなくて、俺の友達も捕まって刑務所に行っていて、「そいつが帰ってくるまでは俺たちが曲とかライブで温めていくぜ」という気持ちで活動してますよ。


──ラジオに自分の音源を流すことで、刑務所にいる友達に届けるんだというラッパーさんもいますよね。


上野さん 全然いますよ。「少年院であなたの曲を聞いて元気が出ました」とか接してくれる人もいて嬉しいですよね。    

 



──プロレスラーもラッパーさんも色々な人の人生を変えてしまうほどの影響力があるんですね。


佐藤選手 そうですね。あとプロレスラーもラッパーさんも世間からの偏見と闘っていると思うんです。プロレスは「あんなの八百長じゃないか」、ヒップホップは「結局、ダジャレでしょ」とよく言われている。どんなものでも人の心が動くかどうかを主としていないのはプレイヤーだけで、外から見ると「あんなの」という世界なんですよ。




「自分が思った本音は人を動かす力があるんだなと田上VS川田で感じました」(佐藤選手)




──ありがとうございます。では次の話題に移ります。お二人が語ってみたいプロレス名勝負があればお聞かせください。


佐藤選手 これは名勝負かどうかは分かりませんが、色々と考えさせられたのが1991年1月15日全日本・後楽園ホールで行われた田上明VS川田利明(田上明・試練の七番勝負 番外編戦)です。この試合は深夜のリアルタイムで見ていて凄い面白い試合で、川田さんが勝つんですよ。田上さんが負けて「チクショー!」とかなっていて、試合後に握手とかノーサイドになるのかと思いきや、田上さんがヒザをついて倒れている川田さんの顔面を蹴り上げたんですよ。すると会場がとんでもない空気になって(笑)。


──ハハハ(笑)。


佐藤選手 これは空気が読めないということなのかもしれませんが、こんなに30年以上前の話なのに印象に残っている。自分が思った本音は人を動かす力があるんだなと田上VS川田で感じました。


──あの試合は異質でしたよね。また田上さんがファンからブーイングを浴びていた時期で、ダニー・スパイビーに6分で敗れたりとか。


上野さん めちゃくちゃ懐かしいですね!


佐藤選手 あの頃の田上さんは嫌われてましたね。「不屈のプリンス」ってどういう意味やねんと思ってました(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。プリンス感が全然ない!


佐藤選手 ひと回り小さい馬場さんみたいだったんですよ。川田戦で田上さんのファンになって、四天王で三沢さん、川田さん、小橋さんには黄色い声援なんですけど、田上さんだけ野太い声援が多くて。


──田上さんのファンはほとんど男性だった記憶があります。


佐藤選手 和田京平さんが「田上が三冠王者になってから日本武道館大会のチケットが売れ残り始めた」と身も蓋もないことを言ってましたよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 田上さんは本当についてない人でそういう立ち位置だったと思うんですけど、大人になってみると、田上さんの存在がひとりいるだけで全然違うんですよ。


──田上さんが投げっぱなしジャーマンをやると、みんな驚くじゃないですか。「田上がまさか!」となるわけで、そういうプロレスラーは必要ですよ。


佐藤選手 あの人、スープレックスする気がないですよ(笑)。上に放り投げているという感じですから。いわゆるいい試合はたくさんありますが、語るとなると何か消化しきれないものを口に入れてしまった感覚に陥る試合はどうも忘れられないんです.。



「俺は辻さんや福澤さんの実況を聞いて育ったので、叩かれる理由が分からないんですよ」(上野さん) 



──ありがとうございます。では上野さん、よろしくお願いいたします。


上野さん これはどうでもいいかしれませんけど、1990年4月13日東京ドームで行われた『日本レスリングサミット』の天龍源一郎VSランディ・サベージですね。「イカ天とはイカす天龍のことであります!」でおなじみの(笑)。


──若林健治アナウンサーの名実況ですね。


上野さん あれは大喜利みたいなあいうえお作文があるんだと(笑)。一年後にSWSで二人は再戦しているんです(1991年4月1日神戸ワールド記念ホール)。そこのテレビ中継でナレーターの木村匡也さんが「天龍の顔面キ~ック♪」と叫んでいて、「イカ天」も木村匡也さんのナレーションもどちらもトラウマみたいな感じになりましたね。兄貴は木村さんのナレーションにブチ切れてましたよ(笑)。


──ハハハ(笑)。木村匡也さんは『めちゃイケ』のナレーターとして有名ですけど、ちょっとあの時代のプロレス中継に関わるのは早かったかもしれませんね。


佐藤選手 僕らは古舘伊知郎さんの実況をほぼ聞いてなくて、福澤朗さんが「ジャストミート!」と言ったり、『プロレスニュース』をやったりして古参のプロレスファンから叩かれる意味が分からなかったんです。めちゃくちゃ面白かったじゃないですか。


上野さん 同感です!辻よしなりさんが実況で「ヒャッホー!」と叫んで一部から批判されていて、これも兄貴が「だからお前はダメなんだ!」とめちゃくちゃ怒ってました(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん でも俺は辻さんや福澤さんの実況を聞いて育ったので、叩かれる理由が分からないんですよ。


──ちなみに辻さんは未だにSNSで叩かれてますよ。


上野さん ハハハ(笑)。ヒドいなぁ。


──辻さんは古舘さん以降の新日本テレビ史を支えた功労者だと思いますよ。物議を呼んだ実況も個人的にはありだなと思ってましたから。




佐藤選手 1990年代の新日本・東京ドーム大会は辻さんの実況がメインでしたから。だから猪木さんの引退試合の実況を古舘さんが担当することになって、「なんで辻さんじゃないんだ⁈」と思いましたよ。


上野さん 俺もそう思いましたよ。


佐藤選手 僕らの世代はスティングが登場して「カッコよすぎる!!アメリカしてる!」とという辻さんの実況が馴染んでいるんですよ。


上野さん そこで古舘さんに変わるというのが辻さん、可哀想ですよね。

 


  

「俺が主催している興行『ENTA DA STAGE』で今年もYOKOHAMA BAY HALLでやる予定なので、その大一番のために準備する一年になりそうです」(上野さん)

「僕は全日本とは年間契約、専属契約どころか、毎月『来月空いてますか?』と1試合ごとにオファーをもらっていて、これを15年続けているんです。未だに1試合ごとのファイトマネーでやってますよ」(佐藤選手)



──古舘さんが猪木さんの引退試合を実況したのは猪木さんの願いで、二人の約束だったという話は聞いたことがあります。ではお二人の今度についてお聞かせください。


上野さん 今年はアルバムを出すのでそれに向けて動いているのと、俺が主催している興行『ENTA DA STAGE』で今年もYOKOHAMA BAY HALLでやる予定なので、その大一番のために準備する一年になりそうです。


──今年も上野さんは興行師として勝負をされるんですね。


上野さん そうですね。俺はインディー団体をたくさん見てきたので、それこそガラガラの大日本プロレス・川崎市体育館大会で、見ているヤツが対面にいる人しかいないという記憶もあるんです。今はガラガラでも、インディー団体を見てきた人間からするとこれは伸びしろでしかないので、興行主として今年はYOKOHAMA BAY HALLを満員にしたいですね。


佐藤選手 僕は全日本プロレスを守るだけです(笑)。


──ハハハ(笑)。ちなみに佐藤選手は全日本とはフリー契約ということですか?


佐藤選手 僕は全日本とは年間契約、専属契約どころか、毎月「来月空いてますか?」と1試合ごとにオファーをもらっていて、これを15年続けているんです。未だに1試合ごとのファイトマネーでやってますよ。契約見直しの話し合いをもつこともなく(笑)。



対談延長戦!!〜プロレス者同士のフリートーク〜



──その契約形態の選手が全日本ジュニアの中心にいるんですよね。これで対談のお題は以上となりますが、ここから少しフリートークで行きましょう。私と佐藤選手は2022年11月に高円寺パンディットでトークイベントをさせていただきましたが、この時に佐藤選手が話してくださったリアルジャパンプロレス(現・ストロングスタイルプロレス)に参戦した経緯の話が最高に面白いので、この場で再びお聞かせいただいてもよろしいですか?


佐藤選手 あれはIGFに出た次の日に要町のパンクラス事務所に行って、帰りに駐車場に行こうと思ったら急に車が出てきて「危なねぇよ」と思っていたら、その車が僕と目が合った瞬間にバーっと走り出したんですよ。これは交通事故なので、車を停めて運転手を引きずり降ろして「ふざけんな!」と言ったら、向こうが「警察を呼んでくれ」と言うので、二人で目白警察署にいくことになったんです。


上野さん はい。


佐藤選手 警察に行って僕は「絶対にあいつを許さない」と12時間、籠城をしたんですよ。なかなか帰らない僕に警察の人が連絡して呼んできたのが新間寿さんだったんです。午前6時に新間さんが現れて「お前、佐藤光留だろ。IGFで見たぞ。もう帰るぞ」と言われて帰らさせられて、初めて会話する新間さんを軽自動車で家まで送ったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 それで新間さんから「次のプロレスの試合はいつだ?」と聞かれて、「DDTに出ます」と答えると「俺はあの団体は知らないから、お前、佐山(聡)の団体(リアルジャパンプロレス)に出ろ」と。そこから急にリアルジャパンの平井代表から電話がかかってきて、「新間会長から言われたので無理やり1試合ねじこむことになりました」と言われリアルジャパンに参戦することになったんです。


──こうして2009年9月11日後楽園ホール大会の和田城功戦でリアルジャパン初参戦を果たしたわけですね。


佐藤選手 リアルジャパンは和気あいあいとしていたDDTの控室とは違ってみんな怖いんですよ!あと乗り越えなきゃいけない問題があって、当時の僕はメイド服を着て入場していたんです。「本物のプロレスを取り返す」と謡っているリアルジャパンでメイド服で入場していいのかを当時の現場監督・折原昌夫さんに聞きに行くと「佐山先生に直接聞いてくれ」と言われたので、「佐山総統」と書かれた佐山先生の控室をにメイド服を着て行ったんですよ。


上野さん それは地獄だ!


佐藤選手 「失礼します」と控室に入ると、奥に佐山先生が立っていて、その後ろに桜木裕司と瓜田幸造がいて格闘技の話をしてました。僕の姿を見た桜木と瓜田は「えっ」という顔をして、佐山先生は全然驚いてないんです。僕は「佐藤光留と言います。今日、急遽出場することになりましたが、この恰好(メイド服)がこの団体に相応しいのか佐山先生に判断していただきたく控室に来ました」と言うと、佐山先生が二回頷いて、桜木と瓜田に「お前ら、これぞ武道だ!」と言ったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 言われた方も「これが武道じゃないだろ!」と思いながらも、佐山先生が「これは宮本武蔵の『五輪書』にもある何々の兵法で…」と語り出して、桜木と瓜田が「押忍」と敬礼して、そのまま僕は入場しましたよ。新間さんは僕がメイド服で登場して驚いたらしいですけど、試合はよかったので、そのままリアルジャパンにレギュラー参戦するようになりました。


上野さん スゲェ話ですね!!お客さんの反応はどうだったんですか?


佐藤選手 最初は「なんだこいつは⁈」という反応でしたが、試合をすると「なかなかやるじゃないか」と。基本的にリアルジャパンのファンはみんな上から目線なので(笑)。リアルジャパンは今のプロレス界では珍しいインディー感満載のエピソードがたくさんあって、話し出したら止まらないですよ(笑)。以前、リアルジャパンの控室で長州力さん、天龍源一郎さん、藤波辰爾さん、長井満也さんと一緒で、早々に長井さんは「こんな控室に居られないよ」と出て行って、僕はこの三人と同じ控室になんて一生に一回しかないなと思ったので残ったんです。


──一生の記念にはなりそうですね!


佐藤選手 長州さん、天龍さん、藤波さんは明らかに「なんでこいつがいるんだ」という顔をしながら、会話していてたんですけど、マジで3人共、何を言っているのか聞き取れな

かったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 三人と同じところで笑っているから会話は成立しているようなんですけど。


──テレパシーで会話しているんですよ。


上野さん 肉体言語ですよ(笑)。


──リアルジャパンのような団体があるからこそプロレスの多様性は示しているような気がしますよ。


佐藤選手 そうなんですよ。いいプロレスばっかり見て育ってもしょうがないんですよ。今のプロレス界は新日本と新日本を水で薄めた団体しかない。だってカナダ人のアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジェット・シンが「スーダン出身」「インド出身」と言われるのがプロレス界の素敵なところじゃないですか。でも今、スーダンもインドも含めて世界各国のプロレスはほとんどWWEが占めている。そう考えるとインターネットは必ずしもプロレスにプラスをもたらしているわけじゃないんだなと思いますね。プロレスはもっと自分が歩いてきた道や血筋を大事にしていくともっと面白くなるんですよ。今後、その価値観を戻していければいいですね。


──それを全日本で戻していってくださいよ。


佐藤選手 それは無理です(笑)。


──佐藤選手には全日本以外にもハードヒットという城がありますからね。


佐藤選手 そうですね。今年の川崎球場(富士通スタジアム)大会は構想では本当にヒドい内容になると思いますよ(笑)。


上野さん 白馬で入場とか見たいです(笑)。


佐藤選手 IWAジャパン川崎球場大会ですね!白馬に乗ったテリー・ファンク、かっこよかったんですよ!以前、天龍さんに来てもらったことがあって、リリーフカーに乗って登場してもらうために天龍プロジェクトで身体を張った試合をやってました(笑)。でもリリーフカーがなくて、川崎のトヨタが持っている西城秀樹さんが乗っていたオープンカーがあって、当日に車のナンバーを見ると「708」で僕の誕生日で、天龍さんの娘さんの紋奈さんの誕生日だったんです。それで紋奈さんが「これは私が運転するしかない」と運転して『サンダーストーム』に乗って天龍さんが入場したんです。30キロくらいのスピードでスタジアム内を2周してましたね(笑)。またこんな感じの無茶苦茶なトークイベントでいつか高円寺でやりましょうよ!


──いいですね!その時は上野さんも一緒にやりましょうよ!


上野さん いつでもお声掛けいただければ行きますよ!


佐藤選手 そのイベント名は「幸村ケンシロウを語る会」にしましょう(笑)。


──ハハハ(笑)。素晴らしい締めくくりになりました!佐藤選手、上野さん、本当にありがとうございました。お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 佐藤光留✕サイプレス上野・完/後編終了)














ジャスト日本です。



「人間は考える葦(あし)である」



これは17世紀 フランスの哲学者・パスカルが遺した言葉です。 人間は、大きな宇宙から見たら1本の葦のようにか細く、少しの風にも簡単になびく弱いものですが、ただそれは「思考する」ことが出来る存在であり、偉大であるということを意味した言葉です。


プロレスについて考える葦は、葦の数だけ多種多様にタイプが違うもの。考える葦であるプロレス好きの皆さんがクロストークする場を私は立ち上げました。



 

さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開し、それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

これまで2度の刺激的対談が実現しました。




プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 


前編「逸材VS闘魂作家」  

後編「神の悪戯」 

 




3回目となる今回はプロレスラー・佐藤光留選手とラッパーのサイプレス上野さんによる対談をお送りします。

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)




佐藤光留

 1980年7月8日生まれ。岡山県岡山市出身。173cm 93.10kg 

主要タイトル歴:世界ジュニア、アジアタッグ、IJシングル 

スポーツ歴 :レスリング、柔術、墓石麻雀5級 

得意技: 蹴り、関節技、北斗百裂アウトレイジ野球 趣味・特技:釣り、きもちく拳法 

好きな有名人: 来栖うさこ、岬恵麻、エロマンガパンチ 

好きな食べ物: sio

 会場使用テーマ曲: 「俺ら代表取締役辞任するだ」鳥羽周作


1999年にパンクラスに入門。総合格闘技で腕を磨き、2008年よりプロレス参戦。以後、DDTや全日本プロレスで活躍、 全日本ジュニアに強いこだわりを持ち絶対的な中心を自負する。ミスター・天龍プロジェクトの異名も取る。'23年3月開催のジュニアの祭典では田口隆祐&今成夢人と変態トリオを結成。8月の自主興行ではエル・デスペラードと一騎打ち。〝現在進行形のU〟と称される大会「ハードヒット」のプロデュースも行っている。 




 

 




(この写真は御本人提供です)

 


サイプレス上野


サイプレス上野とロベルト吉野のマイクロフォン担当。通称『サ上』。

2000年にあらゆる意味で横浜のハズレ地区である『横浜ドリームランド』出身の先輩と後輩で、サイプレス上野とロベルト吉野を結成。"HIP HOPミーツallグッド何か"を座右の銘に掲げ、"決してHIPHOPを薄めないエンターテイメント"と称されるライブパフォーマンスを武器に、大型フェスやロックイベントへの出演、バンドとの対バンなどジャンルレスな活動を繰り広げ、ヒップホップリスナー以外からも人気を集めている。


2020年にはサイプレス上野とロベルト吉野として結成20周年を迎え、2022年3月16日には漢a.k.a GAMI、鎮座DOPENESS、TARO SOUL、KEN THE 390、tofubeats 、STUTSらが参加する7枚目のオリジナルフルアルバム「Shuttle Loop」をリリース。


現在、サイプレス上野は、テレビ東京「流派-R SINCE2001」、FMヨコハマ「BAY DREAM」にレギュラー出演中の他、TVCMナレーションなど、越中詩郎級の『やってやるって!』の精神で多方面に進撃中。


公式HP  http://sauetoroyoshi.com/






佐藤選手、上野さん、進行を務めた私も1980年生まれのプロレス者同士です。お二人のプロレスとの出逢い、1990年代のプロレスについて、好きな名勝負、今後について…。最高にディープでマニアックで、最初から最後までずっとゲラゲラ笑いながらプロレスを語らう対談となりました。この記事を読んでストレス発散やフラストレーション解消になれば幸いです!


 

是非ご覧下さい!




プロレス人間交差点 

「変態レスラー」佐藤光留☓「LEGENDオブ伝説」サイプレス上野

前編「1980年生まれのプロレス者」









「子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてました」(佐藤選手)




──佐藤選手、上野さん、「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!今回は進行の私も含めて1980年生まれのプロレス者3人でワイワイとプロレス談義で盛り上がりましょう!よろしくお願いします!


佐藤選手 よろしくお願いいたします!


上野さん よろしくお願いいたします!


──まずはお二人のプロレスとの出逢いについてお聞かせください。


佐藤選手 僕は保育園の卒業文集で「プロレスラーになりたい」と書いているんです。恐らく4~5歳から見ていて、2代目タイガーマスクが活躍していた時代の全日本プロレスの記憶がうっすらあるんですよ。プロレスを初めて見て、とにかくカッコよすぎて衝撃を受けました。その後、音楽やアイドルに衝撃を受けましたが、プロレスを超える衝撃はなかったです。


──幼少期からプロレスを見ているんですね。


佐藤選手 一時期、『機動警察パトレイバー』を見過ぎて警察官になろうと思ったことはありましたけど(笑)。それ以外はずっとプロレスラーになりたかったんです。最初はテレビで新日本と全日本を見ていたのですが、小学4年生の時に同じクラスにいたプロレスファンの子に「週刊プロレスという雑誌があるぞ」と言われて読むと、新日本と全日本以外の団体や女子プロレスを知りました。でも子供の頃は新日本か全日本に入ってプロレスラーになろうと考えてましたね。


──ということは佐藤選手はプロレスに出逢ってから40年近くになるんですね。


佐藤選手 そうですね。だから本当にいい人生を歩んでいるなと思いますよ。パンクラスの入門テストは一度落ちて、高校卒業してから5月に再度入門テストを受けて合格して6月に入門したんですよ。プロレスラーになれなかったらという不安はほとんどなくて、プロレスラーにはなるものだと考えてました。その勘違いがいい方向に行ったのかもしれません。あと僕は人との出逢いには恵まれましたね。


──それはどういうことですか?


佐藤選手 当時のパンクラスは道場が船木誠勝さんの東京と鈴木みのるさんの横浜に分かれていて、試験の内容はダントツだったんですけど、船木さんが「俺、あいつの目が嫌い」と言ったらしいんですよ(笑)。


上野さん  ハハハ(笑)。


佐藤選手 船木さんは強そうな人間をピックアップして鍛えたらパンクラスは強くなるという考えだったんですけど、鈴木さんは面白い人間を揃えないと商売として成立しないという考え方でした。船木さんから外された僕は鈴木さんから「俺が面倒見るよ」と拾われてからパンクラスには入れたんです。それがなかったら僕は、今プロレスをやってないですよ。その時点からその後も漫画みたいな出逢いがたくさんあるので。人との出逢いの運だけは僕は尋常じゃないですよ。


──パンクラスの道場も東京と横浜に分かれている時代だったからこそ、入門できたわけですからね。


佐藤選手 そうですね。練習生がみんな使えないヤツばかりで辞めていって僕一人だけになって、他の先輩が「大変だね。俺も手伝うから頑張って」と励ましてくれる中で鈴木さんだけ「よかったな、使えないヤツがいなくなって。これでお前に好きにできるな」と言うんですよ。こんな発想の人、いないじゃないですか(笑)。


上野さん スゲェっすね(笑)。


──鈴木選手「プロレスをやりたい」と相談した時に偶然、DDTの高木三四郎社長から鈴木選手に電話があったんですよね。


佐藤選手 「プロレスに参戦するならどこに電話しようかな」と車の中で鈴木さんと話していたら鈴木さんの携帯に高木さんから「今度、ハードヒットというUWFっぽいブランドを立ち上がるのですが、鈴木さんのところにいたメイド服を着た選手いましたよね。その選手、プロレスやりませんかね?」と電話があって、二人でサブイボが立ちましたよ。これは超常現象レベルですよ。


──そこからのご縁からプロレスラーとしての佐藤選手の活躍に繋がっているわけですね。


佐藤選手 全日本に出るときも、ジュニアリーグ戦をやっていて、ジミー・ヤンを呼んだんですけど、結構ギャラが高かったので予算がなかったそうなんです。「新顔で誰を呼ぶのか」という話になって、武藤敬司さん(当時全日本社長)が「あいつでいいじゃん、鈴木の横にいるヤツ」と言ったらしいんですよ。そこから全日本に参戦することになって、リーグ戦は決勝には行けませんでしたが、たまたま用事がなかった大和ヒロシがいて、あいつとお互いに顔面から血が出るほど殴りあってウケたんです。それが当時のマッチメーカーにツボにハマって二人の抗争を続けることになったんですよ。




「プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました」(上野さん)




──そこからずっと佐藤選手は全日本に参戦を続けているわけですよね。では上野さん、よろしくお願いいたします。


上野さん 俺の兄貴2人がプロレスファンで幼稚園の頃からテレビの前に座らさせられてプロレスを見てましたよ。最初は「これが面白いんだぞ」と完全に言わされている感じで、「お前はプロレスを好きになるんだぞ」という洗脳を受けている感じでした。親はあまりプロレスを好きじゃなかったけど、兄貴2人の影響をモロに受けてずっとプロレスを見続けています。


──佐藤選手も上野さんも幼少期からずっとプロレスを見ているということですね。


上野さん 佐藤選手と完全に同じとこを見ているんですよ。2代目タイガーマスクの試合も見てますし、土曜夕方4時に放送していた新日本も見ていて、蝶野正洋選手のCM(日本文化センターのテレフォンショッピングでパワートレーナーというトレーニング機器を蝶野選手が紹介する内容)を流れていて「俺も鍛えなきゃいけない」と思ったりとか(笑)。あと兄貴の英才教育で、週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツはずっと読んでました。



──おおお!それは猛者ですね!


上野さん プロレスというよくわからなくて自分の中で嚙み砕くことができない魑魅魍魎な世界の動向を東京スポーツを読んで味わってました。


佐藤さん 東京スポーツでは余裕でネッシーとか捕まってましたもんね(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


──東京スポーツのネッシーネタをワイドナショーが取り上げるんですよ(笑)。


上野さん UMAとネッシーの第一報は大体、東京スポーツなんですよ(笑)。


佐藤さん ハハハ(笑)。


上野さん これはプロレス絡みのインタビューで話してもなかなか乗せてくれないんですけど、亡くなった真ん中の兄貴が俺に寝床でやっていたのが「ハル薗田」というずっとゴロゴロ転がりながらやる謎の技をかけられたりとか(笑)。ヒップホップで言うディグ(ラッパー・DJなどが、過去のレコードを堀り探すことを意味するヒップホップ用語)みたいな感じで、オールドスクールなプロレスも掘っていかないといけないなと思って、兄貴たちが持っていたプロレス本や雑誌を読み漁ってましたよ。


──週刊プロレス、週刊ゴング、東京スポーツを買い揃えているのは相当なマニアですよ。


上野さん あと週刊ファイトも買ってましたよ(笑)。中学になって街に出ると誰よりも早く読みたいから自分で週刊ファイトを買うと、兄貴も週刊ファイトを買っていて、親父に「なんで同じ本が3冊もあるんだよ!」と怒られたりとか(笑)。プロレスを好きな友達には出逢わなかったんですけど、兄貴2人が凄すぎたので、この2人に勝たないという想いでプロレスを深く掘るようになりましたね。





──10代で週刊ファイトのI編集長の洗礼を受けたのは凄いですよ。


上野さん 戸塚のローソンで週刊ファイトを買って「やっぱりプロレスは底が丸見えの底なし沼」と思いながら読んでました。


佐藤選手 週刊ファイトはたまに本当のことがスクープであるんですよ。


上野さん そうなんですよ。さすがに大阪の新聞社はヤバいな、違うなと思ってましたよ!本当に絶妙なんですよね。


佐藤選手 カート・アングルのプロレス転向を日本で最初に報じたのは週刊ファイトだったと思いますよ。


上野さん えええ!そうなんですね!


佐藤選手 鈴木さんは「ファイトだもんな」と言ってましたね(笑)。


──ハハハ(笑)。


上野さん 全部飛ばし記事みたいな新聞がコンビニや駅で買えたのですから凄い時代ですよ(笑)。




「インディー団体の選手も『誰だよ、これ』と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)」(佐藤選手)




──確かに!佐藤選手も上野さんも思春期に見たプロレスは1990年代のプロレスだったと思います。この時代のプロレスについてお二人の想いをお聞かせください。まずは佐藤選手、お願いいたします。


佐藤選手 『G1 CLIMAX』が始まったりとか色々とあった1990年代ですが、僕も上野さんもジャストさんも『三年B組金八先生』世代じゃなくて、アントニオ猪木さんもセミリタイアしていた頃からプロレスにどハマりしているはずなんですよ。ジャイアント馬場さんは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』に出ている印象が強いですし、アブドーラ・ザ・ブッチャーは本当に実在しているんだとか、闘魂三銃士が台頭して、ジャンボ鶴田さんはギリギリ全盛期は見れたかなという時代の変革期で、新しいことを始めていてプロレスに入りやすかったような気がします。


──同感です!


佐藤選手 これは漫画でもそうなんですけど、さっき上野さんがおっしゃった魑魅魍魎という言葉は、悪の四天王の下にいる雑魚キャラの中にもドラマがあるんだということを当時の泡沫インディー団体が教えてくれたんですよ。これが今の僕の人生に凄く大きな影響を受けているなと。生まれた時から実家がお金持ちでいい体験をたくさん積ませてもらっている人がいたとして、その人はいいものを10知っている。でも僕はいいものを5までしか知らないけど、0から下のマイナスを10知っている。そうなると僕の知識量は15なんですよ。悪いものを知っていても知識に含まれるわけで、いいものだけを知っているだけでは他には勝てない。これはインディー団体を見ていたからこそたどり着いた僕の結論なんですよ。プロレスそのものがまだ「なんでこんなものを見ているんだ」と世間から偏見の目で見られている時代にインディー団体が無限増殖していくわけですから(笑)。


上野さん 確かにそうですよね!


佐藤選手 「俺はこんなプロレスを知っているんだぞ」と。新しいレンタルビデオができたら、必ずプロレスコーナーに行って、まだ誰も見ていないドインク・ザ・クラウンが特集されているアメリカのビデオを借りたりとか(笑)。インディー団体の選手も「誰だよ、これ」と言いたくなる方が多くて、幸村ケンシロウという選手がいるんですけど。ここで話してお二人が頷いているのが本当に怖いですけど(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 誰も知らないですよ(笑)。幸村ケンシロウが1998年に静岡で開催された柔術の大会に出ていて、僕も高校レスリングを卒業して、まだ実戦を積みたかったので親に許可を取って新幹線で移動してその大会に出たんですよ。この大会は北岡悟も出てたらしいんですよ。大会の出場選手名簿を見ると幸村ケンシロウがいるんですよ。あの幸村ケンシロウ

なのかと(笑)。恐らく自分がプロレスをやっていることを知っている人はいないと思ってエントリーしたはずなんですよ。でも幸村ケンシロウにやたらと熱視線を送る高校生がいたんですよ、それが僕ですよ(笑)。


──最高じゃないですか(笑)。


佐藤選手 地元に帰って「柔術の大会に幸村ケンシロウが出てたよ」と言っても誰も知らない(笑)。それが快感でした。


上野さん それはヤバい(笑)。


──幸村ケンシロウさんは西日本プロレスの印象が強いですね!


上野さん 確かに!


──当時の週刊プロレスや週刊ゴングが末端のインディー団体でも取り上げてくれたから知識量として幸村ケンシロウさんを知っている人はいるかもです。今のファンは幸村ケンシロウさんは確実に知らない人がほどんどでしょうね(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 知らないでしょう!多分日本だけじゃなくて世界で、今の時代に幸村ケンシロウの話をしているのはこの対談の場だけですよ(笑)。俺も何十年ぶりにその名前を聞きましたよ(笑)。


佐藤選手 1990年代だとメジャーでは長野さんがG1優勝したり、nWoTシャツが流行ってみんなで着てたりとか。でもメジャーだけを知っていてもプロレスファンを名乗っちゃいけないんだというある種の義務感はありましたね。


上野さん その気持ち、よく分かります!




「俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで『プロレス知っているよ』とか言われると『お前に何が分かるんだよ』という反骨心を抱いてました」(上野さん)




──メジャーもインディーの双方を知っておくのは大事ですよね。佐藤選手から幸村ケンシロウさんという衝撃のパワーワードが飛び出しました(笑)。あとクラッシャー高橋さんとかもあの時代のインディーらしい選手ですよね。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 クラッシャー高橋さんは一回、試合をしたことがありますよ。館山の自衛隊がやるお祭りでNOSAWA論外さんが「佐藤君、リングを運んでくれない?」と言われて、メインイベントの6人タッグに出ると対戦相手のひとりがクラッシャー高橋さんでした。凄いおとなしくて、クラシックなアメリカンプロレスをやる人で全然クラッシャーじゃなかったですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。では上野さん、1990年代のプロレスについて語ってください。


上野さん 佐藤選手とは恐らく通っている道が一緒なのでインディーの話をすると尽きないと思うんですよ。


佐藤選手 マジですか!


上野さん 先ほど佐藤選手が話題にしましたけど、nWoが大ブームだった頃に、初めて組んだラップグループで「みんなでnWoTシャツを着てライブしよう」と提案して、六本木の闘魂ショップに買いにいったのをよく覚えていますよ。地図も読めなくてどこにあるのかも分からなくて、しかも真夏でめちゃくちゃ暑くて「コンクリートジャングルってこういうことだな」とか言いながら彷徨ってなんとか買えたんですよ。nWoTシャツは買えてライブに挑んだんですけど、それが散々な内容で終わって、最終的にライブ後にみんなで喧嘩になりました(笑)。


佐藤選手 ハハハ(笑)。


上野さん 俺はメジャーもインディーも大好きで、学校とかで「プロレス知っているよ」とか言われると「お前に何が分かるんだよ」という反骨心を抱いてました。ちょうどその頃は日本語ラップのUSヒップホップでもメジャーシーンに対してアンダーグラウンドヒップホップには対抗心があって、アンダーグラウンドにいるヤツらのレコードを持っている人間はヤバいという風潮があったので、プロレスと似ていて凄く居心地がよかったんですよ。インディープロレスもアンダーグラウンドヒップホップも好きだったので。プロレスもヒップホップも「お前らが知らない世界を俺は知っている!」と自分の酔っているところはありました(笑)。




「上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)」(佐藤選手)



──プロレスとヒップホップも親和性があったんですね!


上野さん 高校を卒業してラッパーを目指そうと考えたのですが、なぜか大道塾の門を叩いていたんですよ。修斗と『THE WARS』で対抗戦をやっていた時で、修斗はメロコアのバンドとか例えばBRAHMANとかは佐藤ルミナ選手と仲が良かったんですけど、俺たちはそうじゃない。市原海樹という偉大な先輩がいるし、俺はこっちで喧嘩空手をやるしかないだろうと。でも大道塾で黒帯とかWARSに出場されていた強い方に当たってボコボコにされて、「これはもう無理だ。おとなしくラップやろう」と思いましたよ(笑)。


佐藤選手 全然、おとなしくないじゃないですか(笑)。


上野さん もうラップと格闘技の両立は無理だと(笑)。


佐藤選手 上野さんが自分に酔うという話をされていましたが、僕だったら冴夢来プロジェクトの岡山大会でミノワマンさんの試合を見たことがあって(笑)。


上野さん それはヤバい!


佐藤選手 そのメインイベントが剛竜馬&タイガー・ジェット・シンVSザ・グレート・センセイ&忌神だったんですよ(笑)。


上野さん ハハハ(笑)。


佐藤選手 岡山は新日本と全日本が年2回来て、全日本女子プロレスやFMWがたまに来る所なんですよ。冴夢来プロジェクトの興行はかなりガラガラだったんですけど、第1試合が菅沼修VS美濃輪育久(現・ミノワマンZ)だったんです。この試合で美濃輪さんに惚れちゃって、ファンになりました。ちなみに美濃輪さんがファンにした初めてのサインが僕なんですよ。


──ええええ!


佐藤選手 冴夢来プロジェクトのパンフレットを買うじゃないですか。それが半年前のもので、掲載している選手が出ていないとか。ダフ屋が束のようにチケットを持ってて、「有り金を全部出したら、入れてやるよ」って言われて、「高校生なんて500円しか持ってないです」と反社会勢力に僕は嘘ついたんすよ(笑)。向こうも気づいていたと思いますけど、入れてくれましたね。反社会勢力の人の優しさがなかったら僕はパンクラスに入ってないですから。


──確かにそうですよね。


佐藤選手 週刊プロレスで熱戦譜というプロレス興行の試合結果を伝えるコーナーがあって、そこで冴夢来プロジェクト岡山大会で出ていた美濃輪さんの名前を確認しました。格闘技通信と週刊プロレスを読むと、美濃輪さんはパンクラス・ネオブラッドトーナメントに出てその後パンクラスに入団しているので、僕もパンクラスに入りたいと思ったんですよ。


──冴夢来プロジェクトの存在は佐藤選手のレスラー人生において大きな分岐点になりましたか?


佐藤選手 そうですね。今いろんなところで菅沼修さんと会う度に周りに「僕がパンクラス入るきっかけとなった人です」と言うんですけど、「どういうこと?」と頭にくえっしょんマークがたくさん浮かぶわけです(笑)。



──ハハハ(笑)。


上野さん 話が変わりますけど、プロレスTシャツの作り方とかは非常に勉強になったんですよ。今の時代、プロレスも音楽のグッズもしっかりしたものを作って売らないとかなり文句を言われるじゃないですか。昔のTシャツはプエルトリコとかで作っているような代物なので、結構シワシワで(笑)。FREEDOMSとか来るメキシカンのレスラーが売っているTシャツを買うとあの頃に戻れて涙が出そうになるんです。「こんな粗末なもので、くるくる巻いても持ってきて売っているのか」と。俺もツアーとかに出るから気持ちが分かるし…。


佐藤選手 分かりますよ。


上野さん 特に後楽園ホールで買った剛竜馬選手のTシャツがあまりにもひどすぎて、後年自分だけのリメイクで作り直しましたよ(笑)。


佐藤選手 スゲェ!!


上野さん 本当にTシャツの素材がペラペラで、なんて言えばいいんだろう…。




──100均レベルですか?


上野さん 余裕で100均レベルです(笑)。


佐藤選手  ハハハ(笑)。


──今のTシャツの話は剛さんらしいですね(笑)。お金の汚さとか。


上野さん ハハハ(笑)。本当に現物を見せたいほどひどいんですよ(笑)。でも、あの時にプロレス界にしごいてもらったような気がしていて、Tシャツやグッズのクオリティーはどんどんよくなっていったのは嬉しかったのですよ。パンクラスとか凄いオシャレなグッズが出たりとか、あとW★INGのTシャツはマニアックでオシャレなヤツには響くアイテムが多

かったですね。ただプリントがどこの国でしているのか分からなくて匂いがヤバい(笑)。


──ハハハ(笑)。


佐藤選手 今は配信の時代でなんでも見れてしまうんですよ。簡単に見れて、見たらすぐに帰って「プロレスは面白い」だけで終わっている。それが案外、「このジャンルは大丈夫なのか⁈」と思う瞬間だったりするんです。グッズも粗雑なものを売るとSNSで批判されて、謝罪することになって「ちゃんとします」と交換商品が送られたりするじゃないですか。剛さんのTシャツのようなひどいものが今の時代に売られると「こんなものを買わせやがって!!」と批判の嵐になるでしょう。でもこのひどいTシャツをいいものにするにはどうすればいいのだろうという発想が今の時代では生まれにくいですよ。


上野さん 俺はそっちのほうに頭を使うのがプロレスだと思うんですよ。プロレスの受け身とか練習はしたことはないですけど、「今回は裏切られても次のTシャツの質はいいんじゃないか」とポジティブに考えたりしましたよ(笑)。


佐藤選手 僕はジャイアントサービスには恨みしかないですよ(笑)。


上野さん 馬場さんのTシャツもかなり素材が悪かったですから(笑)。


佐藤選手 どんなグッズを売店で買っても馬場さんがサインを入れちゃう(笑)。今振り返ると経験っていい経験ばかりが自分を強くするわけじゃないんですよね。「悔しい」「腹が立つ」といった経験の方が発見が多くて学べたりするんですよ。当時のプロレスに携わったときはいろんな経験をさせてもらって成長したなと思いますよね。


──あの時代にXとかSNSがあったらヤバかったでしょうね。


佐藤選手 もうアウトですよ(笑)。


上野さん 絶対アウトです(笑)。


(前編終了)













 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「第1回 三沢さんが生きる目標だった」
 
 
 
連れ1000さんがプロレスを好きになったきっかけ
 

 
──連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
連れ1000さん こちらこそよろしくお願いします!
 
──まずは連れ1000さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
 
連れ1000さん 最初は新日本プロレスですね。1981年頃だと記憶しています。毎週金曜夜8時にテレビ朝日系で放送されていた『ワールドプロレスリング』を見てまして、アントニオ猪木さん、長州力さん、初代タイガーマスクがいる中で藤波辰巳(現・辰爾)さんのファンになったんですよ。
 
──そうだったんですね!
 
連れ1000さん 当時、すごいムキムキでかっこよかったんです。過去を遡ってジュニア・ヘビー級時代の藤波さんのドラゴン・ロケットとドラゴン・スープレックスで完全に魅了されました。プロレスの入口は新日本だったんですけど、毎週土曜の夕方に日本テレビ系で『全日本プロレス中継』が放送されていて、最初に見た試合がテリー・ファンクVSスタン・ハンセンで、テリーが絞首刑されたんですよ。
 
──1982年4月14日の大阪府立体育会館大会ですね。
 
連れ1000さん 残酷なシーンが当時の全日本ではあったので、母親からは「全日本は見たらあかん」と言われましたけど、ダメと言われると見たくなるじゃないですか。だから親の目を盗んで全日本をちょこちょこ見てました。


初めてのプロレス会場観戦
 
──ちなみに初めてのプロレス会場観戦はいつ頃ですか?
 
連れ1000さん テリー・ファンクが引退する1983年8月26日・全日本『スーパーパワーシリーズ』後楽園ホール大会だったと記憶していて、初来日のテリー・ゴディがパワーボムを初公開した試合を見ているんですよ。(1983年8月26日後楽園ホール大会でスタン・ハンセン&テリー・ゴディVSジャンボ鶴田&天龍源一郎で、ゴディが天龍を相手にパワーボムを日本初公開している)
 
──そうだったんですね。天龍さんはその時期、パワーボムのような技ができないかなと試行錯誤していたんですよ。パイルドライバーの態勢からフェースバスターとかも使っていました。
 
連れ1000さん 確かにフェースバスターを使ってましたね。あと京都府立体育館に全日本が来たときはよく観戦しました。
 
──京都府立体育館は今の大阪府立体育会館よりも大箱という印象があります。
 
連れ1000さん デカいです。京都府立体育館は満員で1万人くらいは入りますよ。今はプロレス団体は京都ではKBSホールでしかやらないんですけど。



海外に対する憧れを植え付けてくれた全日本プロレスとハーリー・レイス


 
──ありがとうございます。ここからは連れ1000さんの好きなプロレス団体について語ってください。まずは全日本プロレスです。
 
連れ1000さん 当時(1980年代)の全日本を好きだった人の多くが語るかもしれませんが、全日本は外国人レスラーが魅力的だったんです。ジャイアント馬場さんのルートから来日してくる外国人レスラーが豪華で強豪が多くて好きでした。あとNWA世界ヘビー級王座に憧れましたね。ハーリー・レイスが巻いていた「レイスモデル」が特に好きで、ダンボールで作ったほどです(笑)。
 
──「レイスモデル」はいいですね。1994年に復活したNWA世界ヘビー級王座のデザインは「レイスモデル」だったんですよ。
 
連れ1000さん リック・フレアーが巻いていた「フレアーモデル」が日本では人気がありますが、僕は「レイスモデル」が好きなんです。中央に地球儀が描かれていて、NWAと赤文字で彫られていて、あの時代の権威そのものなんですよ。
 
──確かに!
 
連れ1000さん あと全日本プロレス中継の音楽センスがすごく良くて、「スターウォーズのテーマ曲」や「カクトウギのテーマ」とか。テレビ中継も含めて全日本はパッケージとして子供の頃に自分が世界に触れる体験ができたんですよ。最初に海外に対する憧れを植え付けてくれたのが全日本であり、ハーリー・レイスなんです。
 
──私もレイス、大好きです。
 
連れ1000さん 僕が見出した頃のレイスはベテランで、ニックネームが「ハンサム」「美獣」だったので、なんでやろうなと思ってました(笑)。
 
──レイスもフレアーも世界王者として世界各地でどんな対戦相手でも良さを引き出して、防衛戦を行って防衛をしてきた「負けないチャンピオン」ですね。
 
連れ1000さん 今はチャンピオンがコロコロと変わるじゃないですか。でもレイスやフレアーのような難攻不落なチャンピオンは必要ですよね。強さではなくうまさで、馬場さんしか勝てない、鶴田さんは何回挑戦しても勝てないとか。僕は鶴田さんのファンだったのでNWA世界王座に何度も挑戦して、追いつめても取れなくてめちゃくちゃ悔しかったですから。馬場さんは勝てる、鶴田さんはいい勝負をする、天龍さんだと敗退するという昔の全日本はすごく分かりやすく見れました。


一度プロレスから離れた僕を引き戻してくれた三沢光晴さん
 

──1990年代の全日本はどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん あの時代は一番熱かったですね。最初、新日本を好きになってから全日本を見るようになって、ジャンボ鶴田さんのスケールの大きいプロレスにハマってファンになったんですが…一回途切れているんです。
 
──それはどういうことですか?
 
連れ1000さん 当時の鶴田さんを僕はヒーローだと思ってました。でも世間では結構、辛辣に言われていて、あのオーバーリアクションも揶揄されることが多かったんです。新日本はストロングスタイル、全日本はショーマンという風潮もあって、また全日本の場合は一般の人にちょっと説明しづらい部分もあったんです。鶴田さんの痙攣とか。そこがなかなか受け入れらないのもあって挫折してしまって、次第に「プロレスを見ることはカッコ悪い」と思うようになって、プロレスを見なくなったんです。
 
──そうだったんですね。
 
連れ1000さん そこから思春期になって学校ですごくいじめられたんです。父が凄く厳格で、ちゃぶ台をひっくり返すような昔の頑固親父で、僕も精神のバランスが崩れて、学校でもチックが酷くなって、いじめられました。学校では毎日、全員から追いかけられたり、着ている服を脱がされたり、通りすがりにパンチをされるとか…。本当に毎日死にたいなと思っていたある日、深夜に『全日本プロレス中継』で三沢光晴さんが闘っていたんですよ。
 
──それはいつ頃ですか?
 
連れ1000さん 1990年で三沢さんがタイガーマスクの仮面を脱いだ試合を見ましたね(1990年5月14日東京体育館 タイガーマスク&川田利明VS谷津嘉章&サムソン冬木)。後日、三沢さんの6人タッグマッチを見た時に痺れて、僕の暗黒時代の苦しい状況と重ね合わせて見てしまって、そこから三沢さんのファンになりました。
 
──プロレスから離れていた連れ1000さんを引き戻してくれたのは三沢さんだったんですね。
 
連れ1000さん はい。鶴田さんは好きでも世間や外に説明できないというもどかしさを三沢さんが全部解決してくれたんです。誰に見せてもおかしくないプロレスの凄さが伝わる試合を三沢さんは見せ続けてくれた。プロレス的なるものに対する理屈とかじゃなくても命懸けで身体を張っている三沢さんのプロレスに当時の自分に勇気づけてくれました。僕は超世代軍が特に好きでした。学校でも友達と三沢さんの話になるぐらい当時の全日は流行ったんですよ。
 
──三沢さん、川田利明さん、小橋健太さん、菊地毅さんの超世代軍は絶大な人気がありましたよね。
 
連れ1000さん 毎日辛くて死にたい気持ちになっても、三沢さんの試合に出逢ってからは「来週は三沢VSゴディやな」となると続きが気になって死ねないんですよ。
 
──「三沢VSゴディが放送される日まで生きよう」という目標になるんですね。
 
連れ1000さん そうなんですよ。それを繰り返していくに連れて、いろんなことがクリアになっていったんです。生きるためにずっと夢中になって三沢さんの試合を追ってました。
 
──やっぱり三沢さんは凄いですね。
 
連れ1000さん 僕は三沢さんが全日本を退団してプロレスリングノアを旗揚げしてからも三沢さんとノアを応援しています。三沢さんがいなかったら僕はどうなっていたのだろうと思ってるので、未だにあの時の恩返しと言いますか、三沢さんへの感謝の想いはありますね。


闘龍門は衝撃だった
 
──ありがとうございます。では続いて好きなプロレス団体・闘龍門について語ってください。
 
連れ1000さん 闘龍門は衝撃でした。神戸が拠点で、僕が京都に住んでいるので行きやすいんですよ。特にCIMAさんは痺れました。
 
──やっぱり華がありますからね。
 
連れ1000さん クレイジーMAXとかカッコよかったですよ。チキンジョージで定期戦をやっていくよく観戦してました。チキンジョージに行ってから、リングソウルで飲みに行くのが闘龍門観戦の定番でしたね。闘龍門がプロレスの時代を変えたんじゃないかと思いますね。
 
──3ウェイの6人タッグとか革新的な試合も多かったですよね。
 
連れ1000さん チキンジョージという会場はライブハウスじゃないですか。今でこそ色々な会場で興行を行いますけど、ライブハウスでプロレスというのは新鮮な印象を受けました。全日本を中心に見ていた僕からするとプロレスを見る幅を広げてくれて、足りないものを埋めてくれたような気がします。
 

プロレスリング・ノアは天命として見届けている


──ありがとうございます。そして連れ1000さんの好きなプロレス団体であるプロレスリングノアについて語ってください。
 
連れ1000さん ノアは三沢さんの流れなので追い続けなければならない団体です。ここは理屈じゃないですね。これは持論ですけど、全日本時代からの三沢さんファンがそのままノアに移ってファンであり続けた人と、ノアになってからファンになった人とはまた違うんですよ。一概にノアファンといっても好きになった時代によってノアに対する感じ方が随分違うように思います。
 
──おっしゃっていることはよく分かります。
 
連れ1000さん ノアになってから三沢さんが神格化され過ぎてるなと感じる時があります。全日本だと三沢さんや小橋さんが駆け上がっていくところを見れたんですけど、ノアになると三沢さんと小橋さんは神になってしまったというか。
 
──団体のシンボルになった感じはしますよね。
 
連れ1000さん プロレスリングノアは今でも一番好きなプロレス団体です。今はそうでもないですけど、一時期「三沢さんや小橋さんを神格化するノアファンは怖い」と思われたりする時代もあって、よりノアを広めるためにもそういう認識は変えたいなと思ってて。そういうのも含めて天命として見届けているような感じですよ。
 
──2000年に三沢さんがノアを旗揚げしてから、2004年と2005年に東京ドーム大会を進出する頃は特に全盛期だったのかなと思います。この時期のノアについてどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん ぼくの中でノアの前期は小橋さんと秋山準さん、後期は潮崎豪さんなんです。最近だと拳王さんも好きですね。東京ドーム大会をやった頃がノアの絶頂時代ですけど、全日本の延長線のような感じがありました。三沢さん、小橋さん、秋山さんがバチバチやってもやっぱり全日本なんですよ。2007年の小橋さんが腎臓ガンから帰ってきた頃がノアにとって分岐点になっているような気がしていて、丸藤正道さんがノアの舵取りをしていた頃からが全日本ではなく、今に続くノアらしさなのかなと思います。
 
──その時期になると全日本の影はあまり見えなくなるんですね。
 
連れ1000さん 三沢さんが亡くなってから丸藤さん、杉浦貴さんがノアの中心に立って、そして潮崎さんや鈴木鼓太郎さんは完全なるノア生まれで、特に潮崎さんは三沢さんの最後のパートナーであり、三沢さんの事故が起こった最後の試合にも立ち会ってました。潮崎さんのファイトスタイルから三沢さんや小橋さんの技や息吹を感じますし、ずっと追い続けていきたいと思える存在ですね。
 
(第1回終了)