一旦の終わりが見え始めると、「せっかくやからもうちょい詰めたろ」という思考が働きがちです。
今WLBがイイ感じなので、より一層卓球しとこうと模索しているわけですが、それでも限界があります。
フルタイムで働くという選択をしてしまっている時点で、どれだけ仕事を効率化し、あらゆる有休を消化し、時間を捻出したとて、年間平均で週4日の出勤が確定。つまり週32時間は確実に拘束されます。
リモートワークでも無いので往復の時間や準備時間も考慮すると週40時間弱。贅沢かも知れませんが、週40時間弱といえど労働などという生きていくための種銭を稼ぐ以外に価値を見出せない行為に拘束されている時点で、WLBを大きく押し下げる要因となっています。
もうこの思考は人生中で何十周もしているので、こんなこと言いながら じゃあ独立して… などと今のWLBを度外視して思い切るような行動を取る勇気もないことは承知しています。 離脱するための行動を取っているわけでもないし。 何なら結局恵まれてるから贅沢言っちゃイカンなとすら思っています。
奥さんには、僕が隙あらばなんとか仕事を辞めようと思索を巡らしていることを見透かされ、定期的に釘を刺されます。
一方この時期、少し前なら年齢限界と言われていた一つのハードルである35を過ぎてなお、同期・同年代がパラパラと転職していったり思い切った決断をするのを傍目に見ては、スゲーな、えらいなと思わずにはいられません。
さて、年1ぐらいのペースで定期的に書いている気がしますが、自分なりに卓球に̪しがみ続けている理由を言語化するに、大きなモノが「自分の最高到達点を見ておきたい」というのがあります。
おそらく自分の性格的に、自分の最高到達点が分かったら、今やと思えたら、もしくは「もうちょっとこの先あるかも知れんけど言うてコレぐらいやな」と感じたら、辞めるか関わり方を変えるんやろうと思います。それでお金稼げたりするなら別ですが。
ただこれを書いている一方、「自分の最高到達点が分かったと思える日は来ない」ことも肌感覚で理解しています。
過去「自分の最高到達点はせいぜいこの辺りであるし、これと同じぐらいの密度で継続したいとも思えない」と思えた原体験は、別分野ならありますが、今振り返って、卓球においてそれと同等の環境を最低限得ようと思うと、退職するしか道がありません😇
今の生き方を続けていて、その延長線上にそんな何年間かを過ごせる時が来るかと言えば、まぁ絶対に来ないことが分かります。
もうそんな環境に身を投じれるような時期は、とうに過ぎ去ってしまった…後悔先に立たずです。
そのせいか、大学に再入学し、最後の最後で単位ギリギリで卒業する夢を未だに半年に1回ペースで見続けます。
こうして半永久機関のように自作自演で卓球にまとわりついていくスタイル。
さて、ほとんどの物事において、上達・向上していくステップというのは、筋トレとほぼほぼ同じと理解してきました。
- どれだけの強度で行うか
- どれだけの時間で行うか
- どれだけの意識で行うか
例外ないんちゃうやろか、と思えるぐらい共通しています。
必要な強度は力量に応じて様々ですが、向上させるだけの強度が無いと、どれだけ時間かけても一緒です。
生き方や向き合い方は人それぞれですが、いつ見ても同じぐらいのおっちゃんは、必要な強度が足りていない。
時間はいたずらに長くすればいいというものではなく、一定ラインを超え始めると休息や持続性とのバランスを意識する必要があろうかと思いますが、フルタイム労働社会人に許される少ない自由時間を考えれば、そんなライン気にするまでもないため、基本的に長く確保できりゃ長い程良いと考えられます。
意識とは「当たり前」と変換できる気がします。
意識をやる気・モチベーションと捉えてしまうと、相関はあると思いますが、少し本質からズレてしまう気がします。
肉体的な要素が強い分野は、サボると力量が結構すぐに落ちますが、知的要素が強い分野は、多少サボっても力量がなかなか落ちません。
ただどちらにせよ、過去の到達点が高いと言語化されている・されていないは抜きにして「当たり前」の意識水準が高いため、ボーっと呼吸しているだけでも差ができます。
カメが自分なりに頑張っていると感じていても、
ウサギがちょっと自分的にサボっていると感じていても、
客観的に見るとウサギの当たり前水準が高いために、カメの頑張りなど矮小過ぎて何の足しにもなっていない、ということも往々にしてあります。
カメはカメのままでは、ウサギが圧倒的にサボっていないと勝てません。大して抜いてくれないウサギに勝つには、カメはどこかでウサギ並の身体能力を獲得するだけの強度・時間・意識でトレーニングすることが必須です。
これら強度・時間・意識を高水準でバランスとろうと思うと、それ即ち環境を整えるということで、つまり環境を整えるために行動することが非常に大事だという帰結になります。
自分の場合は本質的に性根が怠惰なので、周りの意識に引っ張られやすいところがあります。そのため周りの人間は、できるだけ当たり前の水準が高い方が良い。
「その程度のことしかしてないから弱いねん」と思えるぐらい(とはいえ自己肯定感が完全に破壊されない程度)。
自分がコントロール可能な範囲内ではできる限りのことをする。コントロールが難しい要素でも、できる限り期待値の高そうな選択する、というのが大事やなと思うところです。