【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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マタイの福音書17章

2021年01月26日 09時26分16秒 | 福音書
マタイの福音書17章 解き放たれた神の子、十字架の合意
おはようございます。パスターまことの聖書通読一日一章です。継続は力なり。聖書を日々手に取り、心の糧とするなら、自然に養われてくるものがあるものです。今日もぜひ聖書を開きながら聞いてください。今日はマタイの福音書17章からです。
1. 変貌山の出来事(17:1-13)
マタイの頭の中では、どうも、前の16章のペテロの告白とこの変貌山の出来事は続き物になっているのでしょう。つまり、かつてイエスが、ヨハネからバプテスマを受けた時に「わたしの愛する子」(3:17)と天からの神の反応があったように、ここでもイエスに対するペテロの信仰告白を確証するかのように、天からの神の反応(17:5)があった、とマタイは書いているようです。
そしてこの出来事は、ペテロにとって非常に大きな信仰体験となりました。というのも、それは単に奇跡的な体験をしたという以上に、イエスがまことの神であることを認め、体感する出来事であったのです。イエスは、神であるのに、神の在り方を捨てた。賎しい人の子の姿を取られているけれども、まことの神であった、ということです。ペテロの通訳者として働いたマルコは、後に自分の福音書の中に「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」と(9:3)この時、ペテロの心の中に残った印象を伝えています。そしてペテロ自身は、彼が書いた手紙の中に、この変貌山の体験に触れて、いよいよ神にお会いするにふさわしい歩みをするように勧めています(2ペテロ1:17)。確かに神は生きておられる、その神にお会いする日も近づいているのです!信仰を持つということは、まさに、神が生きておられることを知ることであり、この神に心を向けて人生を生きる決断をすることです。
2.薄い信仰(17:14-23)
さてマタイは、この後に、一挙に現実的な、不信仰の世界の出来事を取り上げます。あたかも、旧約聖書の時代に、かのモーセが山から下りてきた時に、イスラエルの背教に直面した(出エジプト32章)ごとく、山から下りて来たイエスは、弟子たちの不信仰に直面するのです(17節)。弟子たちは悪霊によって苦しんでいた子どもを救い出すことができないでいました。イエスは、信仰を活かすように、働かせるように教えられます。確かに、信仰を持つということは神の力に生きることです。人々が不可能であると断言しても、一人神の可能性によって物事を考え行動することです。ただその信仰は深められなくてはなりません。研ぎ澄まされ、強くされなくてはならないのです。
3.神殿税を納める(17:24-27)
最後に、神殿税を納めるエピソードが記録されます。神殿税は神殿での活動を維持するために収められるもので、ローマの税金とは区別され、愛国心からささげられるものでした。これも変貌山での霊的に高い次元のお話に比べると、一挙に、世俗的な下々のお話になっています。しかし、大事な点です。つまり、神を信じる人生はしばしば超常識であることを求められますが、非常識にはならないのです。この世を超越した価値観を持っていても、この世において社会常識として求められるところがあれば、きっちりそれに応えていくのが、キリスト教徒だからです。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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