【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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創世記21章

2021年10月17日 07時03分41秒 | 創世記
創世記21章 イサクの誕生(約束の実現)
1.イサクの誕生(21:1-7)
 アブラハムの人生を追いかけていくと、二度同じことが繰り返されていることに気づかされます。たとえば、妻サラが異国の王に召し抱えられた事件、そして、イシュマエルを巡る事件もそうです。ハガルは二度追い出されていますが、アブラハムは、いつも同じというわけではありません。問題に対処するアブラハムの人間性や信仰に進展があるのです。確かに、人はいつまでも同じであることはなく、信仰的に成長し、神との関係も深めていくものでしょう。真剣に神に向かい合って生きるなら、人はその限界を超えて成長した歩みをするものです。
 さて、サラは神が約束したとおりに、身籠って男の子を産みました。アブラハムは、その子をイサクと名付けました。それは、神に予め命じられたとおりのことで(17:19)、神に対する不信仰への戒めであり(18:12-15)、サラ自身、神の恵みを受けた喜びを確認するものでした(21:6)。神にとって不可能なことはない、という信仰の喜びがそこにあります。
2.追い出されたハガルとイシュマエル(21:8-21)
 9節、イサクは乳離れしたとあります。三歳ぐらいであったとされますが、この時、イシュマエルがまだ幼いイサクをからかうのです。既にイシュマエルは14歳になっていたと思われますが、彼は、自分が軽んじられている状況に反感を持ったのでしょう。サラはこの事態に感情的に応じ(10節)、アブラハムは悩みました。そのようなアブラハムに神は悩んではならない、サラの理不尽なことばを受け入れるように、と言うのです。人には理不尽に思えても、神は、それを良きに用いられる覚悟があったのでしょう。こうして、ハガルとイシュマエルは追い出されていきます。そして、自暴自棄になったこの親子に、神は、彼らもまた大いなる国民となることを約束されるのです(18節)。人の世においては、踏みにじられ、ぞんざいに扱われて終わりということもあるでしょうが、物事はそのような見かけでは終わらないものなのです。神のご計画は、はかり知ることができません。神の恵みとあわれみは豊かです。そしてその資源も無尽蔵です。
 ともあれ、もう一つ注目すべきことは、神が聞かれたのは、ハガルの泣き声ではなく、少年の声です。もとはと言えば、災いの源となった少年の声でした。そして自業自得の報いを受けて、死にかけていた少年の声です。神のあわれみは、もはや、神のあわれみを受け取る資格も力を失われた者に注がれていることに気づかされます。世にあって絶望してはならない、というのはこういうことでしょう。聖書の全能の神を信じるならば、いついかなる時も諦めてはなりません。
3.アビメレク(21:22-34)
22節、再びアビメレクが登場します。彼は、神がアブラハムと共におられて、神に祝されていることを確信せざるを得ませんでした。(22節)そこでアブラハムと契約を交わそうとします。不思議なことに、アビメレクとアブラハムの立場が逆転しているのです。アビメレクはかつて、アブラハムに対して、彼の妻を召し入れる力を見せつけることが出来ました。しかしここでアビメレクは、アブラハムの井戸の所有権をめぐる抗議を受け入れ、自分の身を守ろうとしているのです。神が共におられるというのは、いつしかこのような逆転が起こることを意味しているでしょう。
ベエルは「井戸」を、シェバは数字の「七」を意味する。イスラエルでは完全数と受け止められている数字です。また、その派生語であるシャーバは、「誓」を意味します。ですから契約を結んだ場所が、ベエル・シェバと呼ばれたのは、井戸を巡る誓いは完全であったことを意味しています。井戸はアブラハムのものであることがしっかり認められた、ことになります。33節、植樹は、契約のもう一つのあかしです。アブラハムは、ここで「永遠の神、主の御名によって祈った」と言います。アブラハムの神観がまた一つ前進しました。全能の神という点的な捉え方が、永遠の神という線的な捉え方になっていくのです。全能の神がここまで私を導いてくださった。しかしその神は、昔からおられた方、そして今も、これからも、永遠に私をその全能の力でもって助けてくださる、という信仰です。神を信頼するということは、私たちの未来を委ねることでもあるのです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に昨日のクイズです。「ゲラルは、ガリラヤ地方、サマリヤ地方、ユダヤ地方の内、どの地方にあった町でしょうか?」答えはユダヤ地方でした。では、今日の聖書クイズを一つ。日本の国全体を指す慣用表現として、北海道から沖縄まで、という言い方があります。イスラエルの国全体を指す同じような慣用表現として、どのような言い方があるでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

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