【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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民数記7章

2022年01月28日 03時00分03秒 | 民数記
民数記7章 奉献(各部族ごと)
1.自発的にささげる(7:1-3)
民数記の書き出しは、「エジプトの国を出て二年目の第二月の一日(1:1)でした。しかし7章は、「モーセは幕屋を設営し終えた日に」とあり、どうやら時間的には、この7章の出来事の方が1章よりも先に起こっています。実際ここから9章までの出来事は、民数記1章に描かれた人口調査よりも前に起こっているものです。つまり民数記は時間順に物事を記録していません。なぜ著者はこのような書き方をしたのか、考えてみると、おそらく、著者は、読者に、献げ物は、神の恵みに対する応答であるという信仰的な考え方を理解させようとしていたのではないでしょうか。少し流れを振り返ると、5章は一般信徒の献身、6章は、さらに優れたナジル人的献身について語り、アロンの祝福の祈りが続いた後に、この7章、主の恵みに応答して民を代表する族長たちのささげ物の記録が描かれる、というわけです。事実各部族は 、幕屋が建て上げられた後、ただちにささげ物をしています。しかもそのささげ物は、命じられて行われたものではなく、自発的なものでした。神へのささげ物として大事にすべきことは、それが、私たちの神に対する愛の応答としてなされることでしょう。
2.神の働きを完成させる(7:4-11)
そうであればこそ自発的なささげ物は、神の働きを完成していくように正しく用いられていくのです。それは、教会に献げられて終わりにはなりません。あるいは、いずこに消え去る使途不明物になることもないのです。それは神に仕える信徒の働きを強めるために正しく用いられていきます。実際、ここで彼らが献げた車6両と雄牛12頭は、神殿の宮に奉納され、彼らの奉仕を助ける神殿の用具とされました。民数記4章で、幕屋の解体と移動についての説明がありましたが、そこではそれら重い物をどのように運ぶかは語られていませんでした。しかし、こここで、幕屋の幕を運ぶゲルション族には二両の牛車が、柱や板など重い物を運ぶメラリ族には、四両の牛車が与えられ、肩に担いで調度類を運ぶケハテ族には何も与えられなかったと説明されています。こうして彼らはささげ物をすることによって、自分たちの奉仕を進めやすく結果を得ているのです。
今日信徒が教会にささげる物も、同じで、それは、教会の働きをさらに強化し完成するように、正しく用いられていくことが大切なのでしょう。実際、人間がいかなるものを差し出したとしても、神はそれを必要とはされません。ささげ物は、神に対する愛の応答でありながら、それが受納された時には、神の御心に沿って、また献げた人の誠実さに応答するように正しく用いられる必要があるということです。
3.各部族のささげ物(7:12-89)
12節以降、各部族のささげ物が記録される。つまり奉納目録になっています。彼らは12日間にわたり、全く同じものを献げました。それは、部族間の平等性を示すよりも、各部族が全く平等に、主の祭壇に責任があることを示そうとしています。つまり、私たちは、一人一人皆平等に神の祝福に与る者ですが、同時に、神に対する責任も皆平等なのです。私たちが皆等しく礼拝をささげることに責任があり、またその奉仕と、祭司の働きを支えることに責任があるのです。教会にあって恩恵を受けながら、その働きを支えることについては全く意識が足りないということがあってはなりません。誰かに負担を負わせて、自分は良いどころ取りというのはありえないのです。そして、責任を自覚する人々が集まった心遣いのある教会は強いと言うべきでしょう。
また奉納目録それ自体は、非常に事務的な記録ですが、実際には、心遣いが求められていたことは言うまでもありません。創世記にカインとアベルの物語が出てきます。神はアベルのささげ物には目を留められたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。そこで神は、「正しく行った」かどうかを問題にされましたが、後に新約聖書のヘブル人の著者は、その正しさが、信仰による、心のあるささげ物であったかどうかにあったことを明らかにしています(ヘブル11:4)。神は献げる者の心をご覧になっているのです。大切なのは、教会でなされる一つ一つの事柄、神に対する奉仕であっても、そこに真の心遣いがあるかどうかでしょう。モーセが山で示されたとおりに造られた幕屋やその調度類は完全で、何一つ不足するものはなかったと思われます。しかし後で追加された金のひしゃくにしても、また、車と荷を運ぶ牛にしても、心遣いがあれば追加的なささげ物として献げられるものでした。そのような細やかな事柄についての自発的な気づき、心遣いは、教会を大事にする思いがあればこそ出てくるものです。
そのような意味では、教会に対する責任感があり、心遣いや気遣いのある教会は力強いというべきでしょう。教会を前進させるために必要なのは、新しいイベントでも、奇抜なアイデアでもなく、ただ、皆が奉仕しやすいように物事を整理することであったりするものです。あるいは、皆が使いやすいようにちゃんと使ったものを元に戻しておく、という当たり前の心遣いであったりします。教会を大事にし、心遣いのある奉仕をさせていただきたいものです。では今日もよき一日となるように祈ります。

<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。ナジル人が神に聖別し、身を献げていることを示す三つのしるしとして間違っているものはどれでしょうか?①断酒、②髪納め、③死体に近づかない、答えは、②髪納めでした。ナジル人が神を剃らないのは、髪を切ってこれを奉納する異教の習慣に倣わないようにするためであったと言われています。では今日の聖書クイズを一つ。イスラエルの重さの単位として使われたもので、最小のものは何であったでしょうか?①ゲラ、②ベカ、③シェケル、答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。

<天草さんのフォローアップ>
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