後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「思い出の旅(8)哀愁漂う小樽への旅」

2022年08月03日 | 日記・エッセイ・コラム
全国のあちこちに旅をしました。いろいろな町に行きました。その中で特に感動的で印象深かった町の一つに小樽があります。
何故か哀愁が漂う町です。明治時代の古い建物が憂鬱な印象をあたえています。暗い運河や石造りの倉庫が町の雰囲気を暗鬱にしています。明治への郷愁を感じる町です。その暗さが小樽の魅力です。他の観光地には無い魅力です。
今日はそんな哀愁漂う小樽への旅をご紹介したいと思います。
まず小樽の歴史です。小樽の町は江戸時代には松前藩の商業港として栄えた古い町です。札幌の海の玄関口でした。小樽港は北海道の開拓民の上陸や物資陸揚げの港だったのです。
しかし青函トンネルが出来、函館と札幌間の鉄道が完成すると忘れられた町になったのです。北海道経済の中心都市として発展していた小樽は忘れられてしまったのです。そして明治時代の建物だけが残ったのです。
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方にささやかな赤い火がポッと灯ります。
まず暗い運河の写真を示します。2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮りまた。
1番目の写真は暗い運河と石造りの倉庫です。この倉庫の中は土産物屋になっています。

2番目の写真は土産物屋になっている倉庫の外壁です。蔦や雑草に覆われていますが内部には明るい照明が輝き綺麗な商品が並んでいるのです。倉庫群がそのまま商業施設になっています。
小樽のその他の商店の風景を示します。
3番目の写真は石造りの倉庫がそのまま菓子店になっている風景です。内部は明るい色彩に溢れています。
4番目の写真は海運業者のビルをそのままガラス細工の土産物屋に使っている風景です。内部にはベネチアから運んで来たゴンドラが飾ってあり華やかな雰囲気です。

5番目の写真は明治時代の役所のような建物です。中の1階部分は公開してありました。
小樽の暗い印象の原因の一つは1933年に特高に殺された小林多喜二を思い出すからです。享年29歳でした。小林多喜二の『蟹工船』を思い出すのです。
そんなことを思い出したので、小樽では小林多喜二がよく行った店で食事をしました。
私は共産主義は嫌いです。しかし以下は日本の歴史の一つの裏面としてご紹介したいと思います。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。

以上のような暗い歴史を暗示するような小樽の冬景色を示します。

6番目の写真は塔のある古い建物です。雪を被って寒々としています。
写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

7番目の写真は雪のある明治時代の役所のような建物です。冬でも観光客が沢山います。小樽は独特な魅力があるので四季折々観光客が絶えないのです。写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

さて小林多喜二は死の間際まで執筆活動を続け作品の中に込めた弱者救済の思想は現代社会においても通じるものがあります。そして日本の暗い時代の歴史の裏面を知ることが出来るのです。小林多喜二の資料の常設展示は小樽文学館にあります。(http://otarubungakusha.com/past/200302398  )

今日は哀愁漂う小樽への旅をご紹介しました。そして『蟹工船』という小説で有名な小林多喜二をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

===『蟹工船』のあらすじです===================(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9 )
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用された船です
漁獲したカニの加工設備を備えた大型船です。搭載して行った小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに蟹工船で蟹を缶詰に加工するのです。その一隻の「博光丸」が小説の舞台です。
蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船を改造して投入されたのです。また工場でもないので、労働法規も適用されなかったのです。
蟹工船は法規の真空地帯であり、船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者が過酷な条件で働いていました。資本者側の非人道的酷使がまかり通っていたのです。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本者側と結託して事態を黙認する姿勢でした。
情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中で酷使します。労働者は暴力、虐待、過労や病気で次々と倒れてしまいます。
転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで日本人労働者は異国の人も同じ人間と感じるのでした。そしてロシア人から「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と教わるのです。しかし日本人の船長がそれを「赤化」とみなします。
当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切ります。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、派遣されてきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕されます。こうして最初のストライキは失敗に終わったのです。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切るのでした。以下省略。

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