後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦争の悲劇を忘れない(1)戦没画学生の遺作を見に行く」

2021年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代には第二次世界大戦と日中戦争などがありました。日本人の犠牲者は310万人以上と言われています。はかり知れない数多くの悲しい出来事がありました。どんなに平和な時代が続いても戦争の悲劇を忘れないことが大切と思います。二度と戦争をしないで平和を守るためにも時々戦争の悲劇を思い出すのが良いと信じています。

そこで今日は戦没画学生の遺作を見るために遥々信州の記念館へ行った私の体験をご紹介致します。
10年以上前のことでした。東京駅のギャラリーで戦没学生の油彩画と日本画の展覧会がありました。信州の記念館、無言館から借り出した絵です。召集され出征前の何日間に画学生が今生の想いを込めて描いた絵画です。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山の中にあります。
感動した私はさっそく別所温泉に泊まって、翌日山の中の道を迷いながら無言館にやっと辿り着きました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長の窪島誠一郎さんが全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。集めた絵画は数百点あると言います。

1番目の写真は無言館です。私と家内は展示してある画学生の遺作の絵画を一枚一枚を丁寧に見て行きました。ガランとした館内に我々の足音だけが響きます。その足音は鎮魂の音楽のように響いたのです。
帰宅後、私は戦没画学生の作品を複写、掲載している画集を探しました。
そうしたら多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館に遺された絵画」2005年版に掲載されていることが判りました。すぐにこの写真集を購入しました。

今日はこの写真集から8枚の戦没画学生の作品をご紹介いたします。

2番目の写真は杉原基司さんの「神戸東亜ロード」です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
戦死した後で妹が書いています。
・・・水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命を散らしました。・・・

3番目の写真は金子孝信さんの「子供たち」です。
大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとおりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。
4番目の写真は岩田良二さんの「故郷風景」です。
東京美術学校卒、入隊後病気になり除隊、昭和24年11月24日病没。享年31歳。
飲まず食わずの行軍が病弱だった良二の体を壊したのです。息絶え絶えで復員。そんな彼を優しく迎えてくれたのが阿波、池田ののどかな風景でした。病床から見える光る吉野川、段々畑の広がりを何枚も、何枚も描いたのです。病気が治ったら東京へ行って絵の勉強をもっとしたいと言いつつ死んで行きました。しかし故郷の風景を再び見ることが出来た幸運に私の心も少しなぐさめられます。

5番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

6番目の写真は山之井龍朗さんの「少女」です。
大正9年、横濱生まれ、絵画は洋画家だった父から習う。昭和16年出征。1945年5月9日、フィリッピン、ルソン島バギオにて戦死。享年24歳。
尚、龍朗さんの弟、俊朗さんも後から出征し、龍朗さんの戦死よりも前に戦死してしまったのです。俊朗さんは昭和18年4月26日南洋の海に沈む。享年21歳。
この絵はきっと妹の百合子さんを描いたものと思います。

7番目の写真は日高安典さんの「無題」です。
大正10年、名古屋生まれ。絵画は独学。昭和18年出征。昭和20年4月15日、フィリピン、セブ島にて戦死。享年24歳。
弟さんの話、「戦死の知らせは安典の名を書いた紙切れが一枚入っている白木の箱が一つ届いただけなんです。いつも剛気で涙などみせることのなかった母が、あの時だけは空の箱を抱いて肩を震わせて泣いていたのをおぼえています。」

8番目の写真は蜂谷 清さんの「祖母の像」です。
大正12年、千葉県、佐倉に生まれる。絵画は独学。昭和18年出征。
昭和20年7月1日、フィリッピン、レイテ島にて戦死。 享年22歳。
「ばあやん。わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる」と言いつつ丁寧に、丁寧に描きあげた祖母の像です。ばあやんの「なつ」は清を特にかわいがったのでした。
戦争がはじまってしばらくした日 清は慈愛の祖母なつの肖像画を描く。なつの眼、口もと、鼻、頬、顎、手・・・・  その皺一本一本を、けっして見逃すまいとするように清は精魂込めて画布にきざみこんだのです。

9番目の写真は芳賀準録さんの「風景」です。
大正10年、山形県に生まれる。昭和15年、東京美術学校入学。昭和18年出征。昭和20年2月2日、フィリッピン、ルソン島にて戦死。享年23歳。
兄弟姉妹は準録の幼い頃からの画才に期待しやさしく見守っていたのです。

私は何度も戦没画学生のこと、無言館のことを思い出します。20歳30歳台で亡くなった画学生達、若すぎます。嗚呼。そして絵画も何も残さず命の灯を消されてしまった2百万人余の兵士達の無念を想います。
戦前の昭和11年に生まれた私は折にふれて太平洋戦争のことをいろいろと思い出すのです。

そんな想いの中から今日は信州の無言館訪問の思い出と戦没画学生の油彩画と日本画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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