後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(10)彗星のように突然輝き消え去った奥州藤原氏」

2023年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム
この「日本の歴史」と題する連載記事では中央の権力者ではなく地方、地方の人々の歴史を中心にして書きすすめてます。
今日は彗星のように突然輝き、そして消え去った奥州の藤原氏4代の話を書きたいと思います。
豪族の藤原氏は平安末期、鎌倉初期に現在の東北地方のほぼ全体を平定し領有しました。
正確に言うと藤原氏は寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの102年間、岩手県の平泉を中心に現在の東北地方一帯に勢力を張った豪族だったのです。
初代の藤原清衡(きよひら)から始まり、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代続きましたが、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝に攻められて滅亡しました。源義経をかくまったのが征伐の口実になったのでした。
藤原氏の支配の確立は下記に詳しく説明されています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。そのため朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認したのです。その上、奥州藤原氏は中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかったです。
奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立していたのです。
この奥州藤原氏が平泉文化を隆盛させたのです。
その結果、中尊寺を中心にして平泉文化は、「平泉の文化遺産」として2011年に世界遺産に登録されました。 「中尊寺金色堂」も国宝建造物第1号と1951年に認定されています。
平泉には17院により構成される天台宗の寺院があります。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、奥州藤原氏が再建し平泉文化を華やかなものにしたのです。
それでは写真で平泉文化をご紹介したいと思います。写真の出典は、
https://www.viewtabi.jp/articles/17122101 です。

1番目の写真は国宝の「中尊寺金色堂」 の全体写真です。私は1958年に初めて見た時はみすぼらしいお堂だなとガッカリしました。しかしこれは鞘堂で、中に入ると燦然と輝く阿弥陀堂があったのです。

2番目の写真は1124年に藤原清衡が建立した阿弥陀堂 です。「五月雨の降り残してや光堂(ひかりどう)」松尾芭蕉 。光堂は文字通りまばやく輝いていました。成程、国宝だと思いました。中尊寺には金色堂をはじめとして約3,000点もの文化財があり讃衡蔵(さんこうぞう)と呼ばれる宝物館に一部が展示されています。

3番目の写真はは重要文化財に指定されている平泉の白山神社の能舞台 です。近世能舞台遺構としては東日本で唯一の能舞台です。

4番目の写真は平泉の毛越寺庭園 です。「毛越寺庭園」は奥州藤原氏が仏の浄土をこの世に再現しようとして造ったものです。 私は1958年にこの広い池の回りをゆっくり歩きながら無常感をおぼえていました。荒れた庭園以外何も無いのです。豪華な毛越寺が跡形も無く消え失せているのです。

5番目の写真は801年に征夷大将軍の坂上田村麿が創建したと伝えられる平泉の達谷窟毘沙門堂 です。自然の洞窟を覆うように建てられた懸崖造りの御堂で す。

6番目の写真は平泉の近くにある厳美渓(げんびけい)です。 この渓谷は後に家内と一緒に行きました。

7番目の写真は厳美渓の遊覧船です。12月~2月末はこたつ舟が出ているので寒い時期でも舟下りを楽しめます。藤原一族らもこの景観を楽しんだのでしょう。

さて東北地方は弥生時代以降も続縄文文化や擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどりました。中央政権の支配も関東以南ほど強くは及んでいなかったのです。律令制の時代には陸奥国と出羽国が置かれ、蝦夷(えみし)系の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していたのです。
そんな東北地方で11世紀半ば有力な豪族は陸奥国の安倍氏と、出羽国の清原氏でした。そして両者の間で複雑な合戦が続きます。
その結末として両豪族が滅亡し藤原清衡だけが生き残ったのです。清衡の突然の幸運です。藤原清衡はあっという間に残存兵を撃ち負かせ全奥州の支配者になったのです。それは彗星の現れと耀きのようでした。
しかしその輝きも102年だけで消えてしまったのです。僅かに4代続いただけで藤原氏は完全に滅亡したのです。その平泉文化は102年間の儚い夢でした。

今日は「日本の歴史」の(10)として、彗星のように突然輝き、そして消え去った奥州藤原氏のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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