後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「興味深い地方の歴史(3)岩手県の南部鉄瓶の歴史」

2022年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はどの家にも鉄瓶がありました。鋳鉄で出来ているので重く使いにくいので次第に無くなりました。しかし茶道では今でも鋳鉄の風炉と釜を使っています。夏になると炉と釜の代わりに風炉釜を使うのです。この鉄瓶や風炉釜の大部分は岩手県、南部藩で作られて来ました。ですから南部鉄瓶と言います。
今日はこの南部鉄瓶の歴史をご紹介したいと思います。
南部鉄瓶は江戸時代の南部藩の各地で作らていました。現在の奥州市の水沢地区でも盛んに作られていました。そこで水沢南部鉄器の歴史を見て見ましょう。
( https://kitchengoods-yanagiya.com/nanbutekki/history/mizusawa.html )
現在の岩手県水沢地方で作られていた鋳物の歴史は南部鉄器よりも古く、910年近くさかのぼります。
平安末期の「後三年の役」が終ると、勝者の藤原清衡は現在の岩手県奥州市に居を構えました。そして近江国から鋳物師を招き、鍋や釜などを主に鋳造させました。
そして1090年代になると寺社、仏閣の様々な装飾鋳物を作り、”平泉文化”の発展に貢献したのです。これらの鋳物を”水沢鋳物”と言います。
それでは水沢鋳物の「おいげん」社に関連した写真を示します。写真の出典は、 https://oigen.jp/aboutoigen/creation です。 








1番目の写真は「おいげん」社の南部鉄瓶です。使い易いように軽く作ってあります。

2番目の写真は鋳鉄製の風炉釜です。茶道のため家内が使っている風炉釜はこの型です。
3番目の写真は「おいげん」社の店先の戦前の出荷の風景です。鋳鉄の製品は重いので牛で運んでいたのです。

4番目の写真は水沢を流れている北上川です。鋳鉄の製品は重いので舟でも運んでいました。

5番目の写真は「おいげん」社の店の中の様子です。鋳鉄の鉄瓶がいろいろ展示してあります。

6番目の写真は岩手県の奥州市水沢区の見分森集落の風景写真です。

なお盛岡南部鉄器の詳しい歴史は下記にあります。
さて「おいげん」社の社名について説明します。この会社は代々、及川源右衛門というように源の字がつく名前の人が経営しているのです。
私の大学時代の同級生に及川源悦郎さんという友人がいました。ふくよかな体格で、いかにも優しい父親のような感じの男でした。他人の面倒見の良い人で彼のお世話で奥州市の水沢で大学の同級会をしたこともありました。
ある時は私の家に泊ってくれたこともありました。まだ新婚だった我々に気を使い朝早く出て行きました。朝食も食べないで布団をキチンと畳んで出ていきました。なるほど他人の家に泊った時は「朝食を食べてず出て行く」のが礼儀作法だと教わりました。そんなこまやかに気を使う優しさのある男でした。現在も「おいげん」社の社長でしょうか。あるいは息子に社長をゆずり自分は悠々自適の境地でしょうか。懐かしいです。

今日は南部鉄瓶をご紹介し、その歴史を説明しました。そして南部鉄瓶を作ってた友人の及川源悦郎さんの思い出を少し書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。