後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我々の先祖の縄文の人の暮し方と食べ物」

2020年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって異なります。
縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていました。
簡単な農業も行っていました。
青森県の縄文時代の三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅がありましたした。

1番目の写真は青森県の三内丸山遺跡の復元展示場です。(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
ここには食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。
それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたのです。
三内丸山遺跡からは実に多彩な出土品も出ているのです。
そして他にも青森県の全域には数多くの縄文遺跡が発見されています。しかしこの青森県の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えられます。この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。
そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。そして墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。

それでは彼等はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
資料は幾つもありましたが、玉川学園の多賀 譲治先生の描いた、ゲンボー先生の「縄文人のくらし」というHPが圧倒的に優れていました。そのURLは、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/jomon/index.htmlです。
多賀先生のHPは神奈川県にある羽根尾遺跡から出土した多数の土器、食料にした魚やイルカ、そして鹿や猪の骨から当時の生活の様子を学問的に推定しているのです。
多賀先生の研究の誠実な様子は、縄文時代のタイムカプセル・羽根尾遺跡、http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/haneo/ をご覧頂くと納得がいきます。
このHPでは縄文人の生活を、(1)海浜に近い場所に住んでいる場合、と (2)八ヶ岳山麓のように海から遠い内陸部に住んでいる場合の2つに分類して縄文人の暮らし方を説明しています。
この2つの場所の食べ物の違いは海の魚貝類とイルカやクジラが有るか無いかの違いだけです。そこで以下に内陸部の縄文人の暮らしぶりを示す絵画をご紹介します。

2番目の写真は縄文人が土器を作っている様子です。八ヶ岳山麓では非常に多数の土器が出てきます。その数は自分たちで使う数以上の多量な土器なのです。
土器の生産を仕事にしていた人々がこの2番目の写真のように多量の土器を生産していたに違いありません。土器を焼く燃料の樹木が山麓には豊富だったのしょう。

3番目の写真は縄文人がイノシシを仕留めた様子です。
現在でも八ヶ岳山麓には猪は多すぎるくらい棲んでいます。
山で追い詰めて、弓矢や槍で仕留めた猪はその場で解体し、肉と内臓と毛皮を背負って帰りました。毛皮は後でゆっくりなめして、敷物にしたり服に仕立てます。

4番目の写真は生活用具の木工品に漆を塗っている場面です。
漆塗りの跡のついた生活用具は全国の縄文遺跡から出土します。八ヶ岳山麓には現在も漆の木が沢山茂っています。漆にする樹脂が簡単に採れたはずです。

5番目の写真の絵は秋の終わり頃冬越しの食料を加工、貯蔵している様子です。
この絵の後の方に吊るしてある大きな魚は河川を登ってきた鮭です。塩漬けにして乾しています。手前の人々は何やら木の実のようなものの皮を剥いでいるようです。
肌着としては麻や柔らかい植物の繊維で織った着物を身につけます。その上に鹿や猪のよくなめした毛皮の外套を着ます。
足には毛皮製の靴を履いています。
野獣を獲る棍棒か槍を持って山野を走り回って鹿や猪を獲っていたのでしょう。鹿や猪は一度落とし穴に落としてから仕留めていたようです。

具体的に食べていたものは内陸部の縄文人の食物の一覧表は次のとうりです。
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・えごま・緑豆
「野菜類」 ごぼう・のびる・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・みょうが・しょうが・うど・たら・ふき
「果実類」くり・やまぶどう・きいちご・あけび・さるなし・またたび
(平野・山村の部)
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな・沢ガニ・川ガニ,などの魚類・甲殻類
しじみ・たにし,などの淡水の貝類
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・すずめ・つぐみ,などの獣や野鳥
「調味料・他」 醤(ひしお)・塩・甘草(かんぞう)・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび

それにしても意外に豊かな食生活をしていたものです。当時は日本全国の縄文人の人口は26万人しか居なかった事実がこの豊かな食糧の最大の原因だったのかも知れません。

このような縄文人の生活の様子を見ると親しみを感じます。いろいろ想像してみると彼らの家族生活の感情は現在と変わらないようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。