北野進の活動日記

志賀原発の廃炉に向けた取り組みや珠洲の情報、ときにはうちの庭の様子も紹介。

ニャゴへ ~17年間ありがとう~

2020-11-13 | ニャゴ
今月4日午前10時20分、17年5カ月の生涯を終えて旅だったニャゴへ、家族みんなのありがとうの思いを込めて。

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2003年6月30日、突然、ニャゴはうちにやってくることになった。 
この日は、4月の県議選(落選)で応援してもらった内浦町(当時)の皆さんとの慰労会。この場で親戚のMさんから「うちの子猫いらない?」ってことでもらったのがニャゴだった。


生後約1カ月。チンチラが混じった雑種の雌ネコだ。


すぐに当時中2だった息子の遊び相手になった。


ニャゴという名前も、本当はもっとハイカラな名前にしたいなぁと思っていたのだが、息子は「絶対『ニャゴニャゴ』だ!」と言い張り、そのうち「ニャゴニャゴ」は長いので「ニャゴ」に落ち着いた。

当時小6だった娘は、チョコチョコと素早く動き回るニャゴを怖がり、しばらくは抱き上げるどころか触ることもできず、逃げ回るだけだった。


ようやく慣れて遊べるようになったのは数か月後。

しばらくして私は金沢の石川県平和運動センターの事務局に勤めることになり、いわゆる単身赴任ということで、ニャゴには週末しか会えなくなったが、私不在の家の中でニャゴは家族の一員となっていった。というか家族の中で一番エライ地位を確立していった。

餌がほしくなれば、餌の皿の前に座って小さく「にゃん!」と鳴く。テレビのボリュームが大きいと聞き逃すような上品な声だ。
無視をすると、その愛らしい目でじっと見つめる。餌を入れるまでじっと見つめる。


テレビを観ていて今がいいところ、と無視しているとテレビの前に座って実力行使。
結局、求められれば餌をやらざるをえない。


ちなみにニャゴが食べるキャットフードは、小さい時からずっとホームセンターで売ってる一番安いもの。


カツオ味がときどきマグロ味に変わる程度の変化しかなかった。
食に関してはかわいそうな人生だったかなと思わないでもないが、これで病気もなく健康な人生(猫生?)を過ごせたんだと勝手に納得している。

水は餌の横の容器に大概絶やさずに入れてあるが、それでも水道の蛇口から出た新鮮な水が欲しいときは洗面台の前に座る。蛇口をひねって水を出すと、ひょいと飛び乗って飲み始める。

外へ行きたくなると玄関の方に向かい、「さあ、ついてこい」と振り向いてこちらを見る。鍵がかかっているときは開けてやらなければならない。

ちなみにニャゴの行動範囲は、ほとんどがうちの庭や畑まで。家の前には県道が走り、それなりの交通量があるが、滅多に出たことはない。裏山にはたまに入っていたようだが、そんなに奥まではいかない。

それでもうちの周りにはニャゴの遊び場所、お気に入りの場所がたくさんあった。


コンクリートの場所もあるが、多くは土で、畑や草むらもあり、柿やクリなどの木もあれば、裏山に行けば雑木林がある。


急な勾配を駆け上がったり、跳び下りたり、地形の起伏も多い。積み上げた薪の上に登って日向ぼっこをしていることもあった。
縁の下もお気に入りだった。薪割りをしているとそばにやってくる。畑を起こしていても近くで眺めている。


雪が積もったら、薪ストーブで暖まったからだで飛び出していく。


一度、何日も帰ってこないことがあった。行方不明になったのだ。遠出をして迷子になったのか、キツネにでも襲われたのか、そういえば時々野良猫とケンカもしてたなと、次々と不安が頭の中をよぎった。1週間後、ダニ防止の首輪に前足が引っ掛かった状態で、ようするに3本足でよたよたと歩いて帰ってきた。首輪が緩かったため、そこに前足が入ったようだが、なぜそんなところに足が入ったのか、1週間どこでどうやって生き延びたのかは、ニャゴは語らず、いまもってわからない。

ニャゴは狩猟も得意だった。


ときどき野生の本性を発揮し、小鳥やヘビ、トカゲ、カエル、バッタ、コオロギやチョウなどを咥えて家の中に戻ってきた。自慢しているんだから叱るわけにいかず「ニャゴ、えらい!」と褒めて、後片付けをする。

若い頃は木登りも得意だった。柿の木は幹の肌に爪を立てやすく、少し登ると枝が横にも張っているので、ちょうどいい遊び場所だった。ただ、降りるのは苦手。後ろ向きに少しずつバックバックだ。
一度降りられなくなって助けを呼んで鳴いていたこともあった。


外遊びが終わって、家に入りたくなったら窓の向こうに現れる。

窓から入ることが癖になったらドロボーネコと一緒なので、窓は開けてやらない。勝手口を開けて呼び寄せる。
しばらく無視していると網戸をガリガリと爪でひっかき、まだ気付かないのかと怒り出す。それでも無視すると網戸によじ登って暴れ出す。


寒くなると定位置は薪ストーブの前だ。


「そんな恰好で寝るのははしたない」と言いたくなるほど無防備な姿のニャゴだった。


もっとも最初からこの場所が快適だと知っていたわけではない。
ニャゴが来て最初の冬、心配していたことが起こった。火がついている薪ストーブの上に跳び乗ったのだ。夏はインテリア替わりの薪ストーブだから上で寝っ転がろうと何をしていても構わないが、火をつけた後はそんなわけにはいかない。当然のこと、「ギャッ!」短い声を発して反射的に跳び下りた。これに懲りてもう乗らないと思ったが、しばらくするとまたまた飛び乗って、同じように跳び下りた。もしかしてニャゴには学習能力がない???と心配になったが、さすがに3度目はなく、ストーブの前が一番快適だと認知していったようだ。


意外なお気に入りの場所もあった。風呂(うちはボイラー兼用の薪風呂)の煙突が据えられているコンクリートの土台の上だ。ここも風呂を沸かした後は温かい。夜、外に出たと思ったらここに座っていることがよくあった。


家の中では薪ストーブの前だけでなく、夏は縁側も押し入れの布団の上もお気に入り。もう一つ、というか一番のお気に入りだった(と思いたい)のが私の膝の上。パソコンを打っているとき、ご飯を食べてるとき、すうーと膝の上に乗ってくる。
気がつけばいつもニャゴがいた。

時は流れ、娘に二人の子が生まれた。まもなく4歳になるこうちゃんは家に来るたび、真っ先に「ニャゴは?」と聞く。
最初はこわがって逃げていたが、少しずつコミュニケーションがとれるようになると楽しく、かわいくなっていくようだ。後ろを追いかけたり、そっと背中を撫でられるようになってきた。


2歳になったみーちゃんはこわいもの知らずで、ニャゴが大好き。撫でるどころか尻尾をつかもうとする。


そんなニャゴだが、15歳になったあたりからか、少しずつ老化を感じる場面がちらほら垣間見えるようになってきた。

まず洗面台に上がれなくなった。ジャンプ力はまだ十分にあったが、洗面台は滑りやすいのでうまく着地できず、滑って落ちてしまった。その後、飛ぼうか、どうしようかと迷ってあきらめるシーンに何度も巡り合った。本人が一番ショックだろうなと思いつつ、抱えて洗面台にあげてやるようになった。

少しずつ耳も遠くなってきたようだ。
窓の外で入れてくれと合図し待っているとき、今までなら迎えに出て「ニャゴ」と声をかけるとすぐにやってきたが、声をかけても反応しないことが多くなってきた。

餌をくれとねだる時は、子どもの頃からずっと上品な「にゃん」という小さな声だったが、いつしか「にゃあー!にゃあー!」と声を張り上げるようになってきた。年を重ね、態度がでっかくなってきたなぁって笑っていたが、大声を出すのは耳が遠くなってきたことが原因のようだ。

小さい時から食べ続けてきたキャットフードもからだが受け付けなくなってきた。食べてもすぐに戻してしまう。「18歳からの・・・」といった柔らかいキャットフードに代えると食べてくれたのでしばらくは安心していたが、それもそのうち時々戻すようになってしまった。


老化を感じつつも、それでも元気に庭先を走り回っていたのでこんな感じでまだまだ一緒に暮らしていけるものと思っていた。

17歳になったあたりからトイレの場所を間違えるようになってきた。
ニャゴは生後1カ月で譲り受けたときにはすでにトイレの躾はできていた。時々外に行って用を足すこともあったが、家の中ではちゃんと玄関の隅に置いたトイレを使っていた。例外はトイレの尿取りパッドが濡れたままのときで、その時はトイレの中に入らず、トイレの横でしていたが、それ以外で粗相をすることはなかった。
ところが最近、風呂の焚き付けの場所が汚れていることが多くなった。それどころか台所の隅を汚すこともあった。床のマットを洗いながら、さすがにこんなことがこれから2年、3年と続いたら大変だ、もしかしてパンパースが必要?と思案を巡らす日々が訪れた。あとで知ったが、確実におしっこの量も増えており、すでに腎臓の機能がかなり低下していたようだ。

パンパースの心配をする日々は長くは続かなかった。
食欲がなくなり、一日、ほとんど餌を口にすることもなくなり、みるみるやせ細ってきた。背中をなでると背骨や肋骨がすぐにわかる。

それでも11月1日日曜日の朝、チュールを一本食べてくれた。
この日は久々のいい天気。午前10時頃、ふらふらしながらも立ち上がり、勝手口の方へと歩き出した。戸を開けてやると、ゆっくり、ゆっくり外へ出て座り込んだ。外の空気を吸ったら家に入るのかなと思ったが、しばらく目を離すとニャゴの姿がない。5mほど離れた場所で休憩している。その後も休憩しながら少しずつ、少しずつ、家の周りを歩いている。玄関先に戻ってくるまで約4時間、幸い天気がよかったので日向ぼっこと運動を兼ねた散歩だった。


結果的にはこの日チュールが最後の食事、そしてこの日の散歩がニャゴにとって最後の散歩、外遊びとなった。自分の残された命を見据えて、がんばって栄養を補給し、長年遊び回った家の周りをこれが見納めと、思い出をかみしめながらゆっくりゆっくりと歩いていたのかもしれない。

その晩、ニャゴは散歩の疲れが出たのかほとんど横になり寝たきりの状態となった。「ニャゴぉ・・・」と声をかけると、「聞こえてるよ」と尻尾を振ってくれる。
いままでも眠い時は呼びかけても頭を起こさず、眼も開けず、尻尾だけ振って、手抜きの返事やなぁと呆れながら見ていることはあったが、今回は手抜きではなく頭を起こす元気も、声を出す元気もなさそう。
なんとか尻尾の先だけ振って、「大丈夫だよ・・・」と答えてくれてるようだった。

翌2日は朝から寝たきり。何とか食欲が回復してくれればと期待したが、食べ物だけでなく、水も飲まなくなっていった。体力が落ち、ときどき頭を少し起こすだけとなった。


ニャゴは17年と5カ月、避妊の手術以外は病院へかかったことはなかったが、もう自力で体力回復は望めそうもない。
覚悟を決めつつも、一縷の望みもかけながら病院へ連れていくことにした。
市内の動物病院は木曜日しか開設しておらず、ネットで検索し、穴水の動物病院まで走る。
小さい頃、小木まで車に乗せて行ったことがあったが、ものすごく怖がり暴れたので、それ以来、ニャゴを車に乗せたことはない。最初にうちに連れてきたとき、そして飯田まで避妊手術に出かけたときを入れても、ニャゴは生まれてこの方3回しか車に乗ったことがない。
今回が4度目で、しかも一番の遠出のドライブである。
ペット用のキャリーバックに入ってのドライブだが、暴れる元気はもうなかった。

みやの動物病院能登診療所では、獣医さんがとてもやさしくニャゴを診てくれた。17年間、病気になることになく元気にいたニャゴをなでながら「えらかったね」と褒めてくれた。
やはり腎臓がかなり弱っていて、厳しい見通しを告げられ、点滴だけしてもらうことにした。

その晩、ニャゴは少しだけ元気を取り戻した。よろけながらも何度も立ち上がろうとした。「まだまだ大丈夫!心配するな」と言ってるようだ。今までとはちょっと違う声だったが、何度も呼びかけるように声も出してくれた。これが最後の会話になってしまったが、ニャゴにとっても、私たちにとっても貴重な時間となった。

翌3日、薪ストーブの前に寝ていたはずのニャゴの位置が少し変わっている。それ以上に寝ている姿勢が違っている。


薪ストーブの足に背中を押し付けるような寝方だ。窮屈そうだが、おそらく背中に位置する腎臓を温めているのではないか。痛みを和らげる効果があるのかわからないが、時々位置を少しずらしながらお昼頃までこの姿勢だった。

午後からは寝たきりでほとんど動きもない。お腹を見ると心臓が動き、呼吸をしていることも確認でき、ホッとする。

翌4日の朝も同じ状態が続く。
このまま1日が過ぎていんだろうと思った。思いたかった。

午前10時過ぎ、突然後足が痙攣したように伸びておしっこをし、まもなく口からも嘔吐があった。からだをきれいに拭いてあげて見守っている中、10時20分、ニャゴは静かに息を引き取った。

老化は進みつつも、まだまだ大丈夫、なんだかんだと20歳になっても生きてるだろうと思っていたのに、最後の5日間、信じられないほどあっという間の容態の変化だった。

ニャゴが家族の仲間入りをして17年と5カ月、ニャゴのポジションは変わらないが、家族の形はその時々で変化していた。私が金沢へ単身赴任、娘も高校進学で金沢へ、さらに息子が大学進学で金沢へ、その後、娘と私が家に戻って、さらにまた娘が転職・結婚で出て行って・・・つまり、この17年と5カ月、ずっとニャゴと暮らしたのはつれあいの和美だった。ニャゴの世話があるから珠洲を出られなかった、というかニャゴがいたから珠洲に居られたというべきか。
ニャゴがなくなったこの日は仕事で出勤。すぐラインで連絡し、電話も入れたがすぐには通じない。お昼前にようやく通じて、亡くなったことを伝えたが、その後、過呼吸で体調を崩し早退。ニャゴが早く帰って来いと呼び寄せたのかもしれない。
帰宅するなりタオルケットの上に横たわるニャゴの遺体にすがりついて泣き崩れてしまった。いつもは「行ってきま~す」と言って出かけるのに、この日に限って「ニャゴ、ばいばい!」と言ってしまったことを悔いていた。わからなくもないが、別れの言葉を聞けてニャゴも心安らかに旅立つことができたのではないか。

火葬は珠洲ペット斎場紫苑で、諸般の事情から2日後の6日午前9時からとなった。


遺体に感謝の言葉を書いた手紙と私たち家族の写真、ニャゴの子どものときの写真、そして庭の花を添えて見送った。


1時間余りでお骨に対面。
お骨上げをさせてもらい、家に連れて帰る。


年末年始、子どもたちや孫たちと別れを告げて、来春には桜の木の下に眠らせてあげようと思う。



1 コメント

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Unknown (夏季)
2020-11-13 22:33:25
家族との別れは、避けられないとわかっているのに、どうしてもつらい気持ちを抑えられません。

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