8月19日、午前0時48分。
静まり返った駅構内には、朝の忙しない喧噪はなく、バチバチと蛍光灯に集まる虫たちの自滅の音だけが聞こえてくる。
ぼんやりとした空間と静寂を打ち破るように、最終便の電車がやってきた。
眼は虚ろ、シワのよったスーツに身を包み、酒とタバコの臭いをこびり付かせた人たちがぞろぞろと降りてくる。
ドアが閉まる瞬間、一人の恰幅のいい女が飛び降りた。
「ふぅ!危ない危ない…」
寝ぼけ眼をこすりながら、重い足取りで階段を昇っていく。
改札を抜けるときに、見慣れた中年の駅員が女に声をかけた。
「おつかれさーん。今日も最終電車だねぇ。毎日遅くまでご苦労さん」
「それはお互い様でしょー。まぁでも、朝早くに家出て、最終電車で返ってくる。こんな生活を20年も続けてるからねぇ。自分でもよくやってると思うわね」
「そのガタイの良さは伊達じゃないね」
「やかましいわ!」
「でひゃひゃひゃ!まぁ、家でゆっくり休んでくださいよ。おやすみなさい」
「はいはーい、おやすみ~」
女は気だるそうに駅を歩いていく。
「はぁ。変わらない改札、変わらない駅員、変わらない壁、変わらない深夜作業員、変わらないわたし…」
独り言を呟きながら女は足取り重く歩いていく。
駅を抜けると空を見上げ、ぼうっと立ち尽くしている。
虚ろな目で隣のスーパーのショーウインドウに映る自分の姿を見た。
「…いや、変わったのはわたしだけか。時間って残酷ね」
自動販売機で缶ビールを3本買って、自宅へと帰った。
「変わらないテーブル、変わらない窓、変わらない冷蔵庫、変わらない壁。変わっていくわたし…」
鏡に映る中年女をつまみに缶ビールを飲みほして、さっさと布団にもぐりこんだ。
いつもの時間に目を覚まし、いつもの時間に歯を磨き、いつもの時間に家を出る。
そして数時間前までいた、同じ駅に戻ってきた。
いつものように駅に入っていくと、ピタリと足をとめた。
目線の先には警官が5人集まっている。
歩きながら警官の集まりを見ていると、一人の警察官が走り寄って女に声をかけてきた。
「すんません。少し、お話いいですか?」
射貫くような目と深い眉間のシワがベテランの風格を出していた。
「はい、なんです?今、急いでるんですけど」
「すぐに終わります。普段この駅を利用されてます?」
「ええ、もう20年くらい毎日使ってます」
「20年!ちなみに時間帯は?」
「えっと、朝の8時30分ごろと深夜遅く。最終電車」
「深夜ですか!?それはぜひ協力お願いしたいですね!」
「なにがあったんです?」
「20年もご利用だと、ご存じだとは思いますが、絵画が一枚、そこの壁に飾ってあったんです。その絵画が昨晩盗まれたんですよ」
「絵画?そんなものありました?」
「え?ええ…。評価額5000万円になる立派な絵画です」
「5000万!?ひゃー!」
「今までご存じなかったんですか?」
「存じてたら私が取ってるわよ」
「……」
「…冗談よ!そんな怖い目で見ないでよ」
「ああ、失礼。それにしても、不思議なことに誰に聞いても絵画の存在すら知らないんですよね…」
「そんなもんじゃないんですか?むしろそんな高価な絵画を、こんな普通の駅に飾ってる方が不思議でしょ」
「まぁ、確かにそうかもしれませんが。ちなみに昨晩、駅に不審な人物は見かけませんでしたか?」
「誰も見かけないけど。いつも通り、クタクタのスーツの男、酔っ払い、深夜作業員…そんなもんよ」
「そうですか…。うーん…。どうしたものか。駅員さんに聞いても何も変わらないっていうしなぁ…」
進展のない聞き込み調査の最中、他の若い警官が走ってきた。
「先輩!一台の防犯カメラに犯行時の映像が残ってました!!」
「ほんとうか!?」
二人の警官は急いで駅長室に入り、防犯時の映像を見た。
そこには作業着を着た男が三人、堂々と絵画を運んでいる映像が映っていた。
「よし!これは決定的な証拠だな!」
「はい!」
「ん?ちょっと待て、さっきのところをもう一度再生してくれ」
作業着の三人組が堂々と絵画を盗むそのすぐ10メートルほど先、恰幅のいい女と中年の駅員が気だるそうにヘラヘラと笑っていた。
駅員の目線の向こう側には、ちょうど犯行途中の犯人たちがいる。
そして女はのそのそと犯行途中の犯人たちの横を通りすぎていた。
「え、駅員さん!あなたの目線の先に犯人がいるじゃないですか!」
「いや、これは、えへへ。気がつかなくて…」
「それにあの女性もバッチリ犯人の横を通り過ぎてるじゃないか!まったく。駅利用者の誰に聞いても絵の存在すら知らないし…」
「まぁまぁ、みんな自分のことで精いっぱいですから…」
「そうはいっても駅員さん!高価な絵画が盗まれたんですよ!なんとも思わんのですか?」
「まぁねぇ。誰も気がつかなかったんだから、初めからなかったようなもんでしょ?ないもの盗まれても、元からないんだから何の問題もないですよ」
朝の駅構内は今日も人で溢れている。
恰幅のいい女は、今日も変わらず8時45分発の電車を待っている。
静まり返った駅構内には、朝の忙しない喧噪はなく、バチバチと蛍光灯に集まる虫たちの自滅の音だけが聞こえてくる。
ぼんやりとした空間と静寂を打ち破るように、最終便の電車がやってきた。
眼は虚ろ、シワのよったスーツに身を包み、酒とタバコの臭いをこびり付かせた人たちがぞろぞろと降りてくる。
ドアが閉まる瞬間、一人の恰幅のいい女が飛び降りた。
「ふぅ!危ない危ない…」
寝ぼけ眼をこすりながら、重い足取りで階段を昇っていく。
改札を抜けるときに、見慣れた中年の駅員が女に声をかけた。
「おつかれさーん。今日も最終電車だねぇ。毎日遅くまでご苦労さん」
「それはお互い様でしょー。まぁでも、朝早くに家出て、最終電車で返ってくる。こんな生活を20年も続けてるからねぇ。自分でもよくやってると思うわね」
「そのガタイの良さは伊達じゃないね」
「やかましいわ!」
「でひゃひゃひゃ!まぁ、家でゆっくり休んでくださいよ。おやすみなさい」
「はいはーい、おやすみ~」
女は気だるそうに駅を歩いていく。
「はぁ。変わらない改札、変わらない駅員、変わらない壁、変わらない深夜作業員、変わらないわたし…」
独り言を呟きながら女は足取り重く歩いていく。
駅を抜けると空を見上げ、ぼうっと立ち尽くしている。
虚ろな目で隣のスーパーのショーウインドウに映る自分の姿を見た。
「…いや、変わったのはわたしだけか。時間って残酷ね」
自動販売機で缶ビールを3本買って、自宅へと帰った。
「変わらないテーブル、変わらない窓、変わらない冷蔵庫、変わらない壁。変わっていくわたし…」
鏡に映る中年女をつまみに缶ビールを飲みほして、さっさと布団にもぐりこんだ。
いつもの時間に目を覚まし、いつもの時間に歯を磨き、いつもの時間に家を出る。
そして数時間前までいた、同じ駅に戻ってきた。
いつものように駅に入っていくと、ピタリと足をとめた。
目線の先には警官が5人集まっている。
歩きながら警官の集まりを見ていると、一人の警察官が走り寄って女に声をかけてきた。
「すんません。少し、お話いいですか?」
射貫くような目と深い眉間のシワがベテランの風格を出していた。
「はい、なんです?今、急いでるんですけど」
「すぐに終わります。普段この駅を利用されてます?」
「ええ、もう20年くらい毎日使ってます」
「20年!ちなみに時間帯は?」
「えっと、朝の8時30分ごろと深夜遅く。最終電車」
「深夜ですか!?それはぜひ協力お願いしたいですね!」
「なにがあったんです?」
「20年もご利用だと、ご存じだとは思いますが、絵画が一枚、そこの壁に飾ってあったんです。その絵画が昨晩盗まれたんですよ」
「絵画?そんなものありました?」
「え?ええ…。評価額5000万円になる立派な絵画です」
「5000万!?ひゃー!」
「今までご存じなかったんですか?」
「存じてたら私が取ってるわよ」
「……」
「…冗談よ!そんな怖い目で見ないでよ」
「ああ、失礼。それにしても、不思議なことに誰に聞いても絵画の存在すら知らないんですよね…」
「そんなもんじゃないんですか?むしろそんな高価な絵画を、こんな普通の駅に飾ってる方が不思議でしょ」
「まぁ、確かにそうかもしれませんが。ちなみに昨晩、駅に不審な人物は見かけませんでしたか?」
「誰も見かけないけど。いつも通り、クタクタのスーツの男、酔っ払い、深夜作業員…そんなもんよ」
「そうですか…。うーん…。どうしたものか。駅員さんに聞いても何も変わらないっていうしなぁ…」
進展のない聞き込み調査の最中、他の若い警官が走ってきた。
「先輩!一台の防犯カメラに犯行時の映像が残ってました!!」
「ほんとうか!?」
二人の警官は急いで駅長室に入り、防犯時の映像を見た。
そこには作業着を着た男が三人、堂々と絵画を運んでいる映像が映っていた。
「よし!これは決定的な証拠だな!」
「はい!」
「ん?ちょっと待て、さっきのところをもう一度再生してくれ」
作業着の三人組が堂々と絵画を盗むそのすぐ10メートルほど先、恰幅のいい女と中年の駅員が気だるそうにヘラヘラと笑っていた。
駅員の目線の向こう側には、ちょうど犯行途中の犯人たちがいる。
そして女はのそのそと犯行途中の犯人たちの横を通りすぎていた。
「え、駅員さん!あなたの目線の先に犯人がいるじゃないですか!」
「いや、これは、えへへ。気がつかなくて…」
「それにあの女性もバッチリ犯人の横を通り過ぎてるじゃないか!まったく。駅利用者の誰に聞いても絵の存在すら知らないし…」
「まぁまぁ、みんな自分のことで精いっぱいですから…」
「そうはいっても駅員さん!高価な絵画が盗まれたんですよ!なんとも思わんのですか?」
「まぁねぇ。誰も気がつかなかったんだから、初めからなかったようなもんでしょ?ないもの盗まれても、元からないんだから何の問題もないですよ」
朝の駅構内は今日も人で溢れている。
恰幅のいい女は、今日も変わらず8時45分発の電車を待っている。
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