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『高等科 國史』(復刻版) NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 小栗旬 皇国史観 承久の変 

2022-12-04 10:31:40 | Weblog

「安倍元総理のご遺志」という言葉が勝手に解釈されながら独り歩きしている。これはアベ亡きあと力を持った政治家が不在であることの表れなのだろう。水戸黄門の印籠でもあるまいし。そのうちに統一教会の創立者文鮮明の「お言葉集」のような『安倍晋三語録』が刊行せれるのではないか?

 

『高等科 國史』(復刻版 三浦小太郎解説 ハート出版 2021年刊) NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 小栗旬 皇国史観 承久の変    

今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も終盤になってきた。今回の脚本を手掛けた三谷幸喜のシナリオも楽しい。特に、今の言葉を使っての会話場面は新鮮だ。

戦前の教科書『高等科 國史』を読んだ。本書は、日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観、いわゆる皇国史観の視点から書かれている。放送中のドラマのストーリーとは随分違うことに驚く。

関係部分を以下に引用する。元々は漢字カタカナ交じり文、旧字、旧仮名遣いだが、復刻にあたって漢字ひらがな交じり文、新字、新仮名遣いに改められている。それでも言い回しや漢字が難しく随分と読みにくい。戦前の中学1,2年生はレベルの高い教育を受けていたのだと思った。以下、(*)印は僕の補足。

 

「第六 京かまくら ニ 承久前後」(P88~P93)

㊀後鳥羽上皇(*尾上松也)

頼朝(*大泉洋)薨(こう)じて、長子頼家(*金子大地)が後を継いだが、まだ年少であったため、母政子(*小池栄子)と外祖父時政(*坂東彌十郎)が政治を輔(たす)けた。この間、朝廷は、鎌倉の形勢を憂えさせられ、幕府が頼家に対する将軍宣下を奏請した際にも、容易にこれを聴許あらせられなかった。(*朝廷=天皇家の方が上位にあることを示している。)

やがて頼家は廃せられて、弟実朝(*柿澤勇人)がこれに代り、次いで、頼家が時政に弑(しい)せられた頃から、幕府の実権は、全く北条氏に移った。時政は、執権として幕府の機務を統べ、その没後、子の義時(*小栗旬)が執権職を継いだ。義時は、更に和田義盛(*横田栄司)を滅して、侍所の別当を兼ね、兵馬の権をも掌中に収めた。やがて、頼家の子公暁(*寛一郎)が、実朝を父の仇と思い謝り、承久元年(一八七九)(*年代は皇紀で表されている。)、これを鶴岡八幡宮の境内に弑(しい)するに及び、源氏は、鎌倉の主たること僅かに三代二十八年で亡びた。(*最近放映された箇所だ!)

源氏の正統が絶えたにもかかわらず、北条氏は、なお武家政治の継続を策し、僭上の沙汰に及んだ。義時は、幕府存続の根拠を得るため、使節を上洛せしめ、後鳥羽上皇(*尾上松也)の皇子を将軍に奉戴しようとしたが、朝廷では、もとより聴許あらせられなかった。かくて義時は、窮余の策として、頼朝の遠縁に当る年僅か二歳の九条頼経を迎え、上を軽んじ奉り世をあざむいて、武家政治の全権を握るに至った。

かかる情勢の推移を痛憤し給うたのは、後鳥羽上皇であらせられる。(*北条氏が朝廷を重んじていないことを批判、評価が非常に低いことがわかる。)

 

㊁承久の変

上皇は、鎌倉の不信をみそなわし、頼経に対する将軍宣下を差し控え給うたが、なおも義時の専横が募るに及んで、順徳天皇と御共に、いよいよ朝権回復の御素志の実現を図らせられ、断乎倒幕の御計画に出でさせ給うた。順徳天皇が、俄に仲恭天皇に御位を譲り給うたのも、倒幕に専念あらせられるためであった。かくて、承久三年(一八八一)五月、流鏑馬揃えに託して諸国の兵を徴され、先ず京都の守護を攻めてこれを誅し、次いで、義時追放の院宣を下し給うた。(*朝廷VS幕府=北条氏)

この計画が鎌倉に伝わると、義時は政子と共に、直ちに家人を集めて去就を促し、泰時らをして、大軍を率い西上せしめた。かくて賊軍京都に入るや、泰時は、勤皇の公卿を捕らえ、鎌倉へ護送すると称して、途上にこれを殺した。又、幕府恩顧の家人で、官軍に馳せ参じた武士を、弓馬の道にもとる者とし、これを京都の山中で斬った。(*朝廷に逆らう北条泰時は賊軍、非道の人物として記述される。)

しかも北条氏は、恐れ多くも後鳥羽上皇・順徳天皇の遷幸を奏請し、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ御幸あらせられた。土御門上皇は、倒幕の御事に御関係なく、幕府も何ら奏請しなかったが、御孝心厚くまします上皇は、独り都に留るに忍びずとて、御心のまにまに土佐に御幸あらせられ、やがて阿波に遷らせ給うた。三上皇遷御の御事は、実に史上空前の異変で、北条氏の僭上無道は、憎みてなお余りある。

三上皇のその後の御生活は、申すのも恐れ多いことながら、土御門上皇は十一年、後鳥羽上皇は十九年、順徳上皇は二十二年、天さかなる鄙、煙波遥かな孤島に憂き歳月を過し給い、還御の御望みも空しく、遂にその地に崩御あらせられたのである。(*三上皇を島流しにした北条氏は朝廷に憎まれ、恨みを持たれる。)

変後、北条氏は、更に勤皇の朝臣・武士の所領三千余箇所を没収して、これを論功行賞の具に供し、賊軍に参加した家人を、新たに地頭として配置した。かくて、地頭の力は著しく拡大され、武家政治の基礎は、一段と強化された。又、京都に六波羅探題を設け、京都の警備を命ずるとともに、三河以西の政務を掌らしめた。(*承久の変の勝者北条氏の独断的な政治を批判する。)

幕府の開設に参画した三善康信(小林隆)・北条義時・大江広元(栗原英雄)・政子らは、変後数年の間に、相次いで没した。しかし、既に家人の懐柔に成功した幕府は、いささかの動揺をも示さなかった。泰時がやがて執権になると、貞永式目を制定して(一八九二)、武家の統制をいよいよ強固ならしめ、次いで執権時頼は、幕府の威厳を増すため、摂家将軍を廃して、親王将軍を迎える先例を開いた(一九一二)。しかも、その後、歴代執権の親王に対し奉る態度は、とかく不遜に亘ったのである。(*北条氏の執権政治は朝廷にとっては不遜そのもの。)

 

(参考)『高等科国史』について。

1941(昭和16年)3月の国民学校令の施行により、尋常小学校・高等小学校は国民学校初等科・高等科に改組され、1944(昭和19年)4月から義務教育が高等科(今の中学1,2年に相当)まで延長されることとなった。国史については、『初等科国史』を平易な物語調の文体とした。『高等科国史』では、文語体が混用された高度な文章となった。

しかし、戦況の悪化により高等科の義務教育かは延期となり、1944(昭和19)年4月から高等科生徒の勤労動員が本格化した。1945(昭和20)年4月には高等科の授業も停止された。そのため、『高等科国史』上巻はほとんど授業で使用されず、下巻は発行されないままだった。本書は、この幻の教科書の復刻版である。

 

 

 


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