晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 兼 北海道日本ハムファイターズボールパーク構想 その9 東日本学園大学 音別町 糸山栄太郎 東郷重興 冬季五輪招致 新幹線延伸 

2023-10-12 09:58:08 | Weblog

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 兼 北海道日本ハムファイターズボールパーク構想 その9 東日本学園大学 音別町 糸山栄太郎 東郷重興 冬季五輪招致 新幹線延伸      

冬季五輪に大きな動きがあった。前回(その8)に「事実上の冬季五輪招致断念と捉えていいだろう。」と書いたが、冬季五輪招致の断念(昨日10.11)が正式に発表され、新幹線延伸も延期が確実になった。札幌市の描いているまちづくりの骨格が崩れた。これから様々な影響が出てくるだろう。だが、市民が望んでいるのは、福祉や除雪など生活の安定だろうから市民の間には深刻なダメージ感はないだろう。

秋元札幌市長は、東京五輪汚職が明らかになった昨秋の段階で、遅くても今春の市長選挙で得票率が落ちた段階で断念の決断をしていればキズは浅かったのではないか。そうしていればその後、エスタ、パセオの閉店、バスターミナルの分散移転などを遅らせることができたのではないか。今回は、秋元市政におけるファイターズの市外流出に並ぶ大失政だ。

 

では、北海道医療大学の当別町から日ハムBP内への移転を考えてみたい。

北海道医療大学を運営する学校法人東日本学園大学の歴史には興味深いことがある。

Wikipediaで北海道医療大学を調べると「1974年2月に佐々木真太郎が中心となり、当時の北海道知事・堂垣内尚弘が協力して、東日本学園大学として設立された。当初は佐々木の息子糸山英太郎が所有する音別町(現・釧路市)の土地に学園都市を構想し、雄別炭鉱尺別鉱業所が閉山された事による国から音別町への交付金より一部の支援を受け、音別校舎(教養部)を設置した。」とある。

確かに道医療大の前身である東日本学園大学が音別で開学した記憶がある。釧路へ帰省する際、国鉄の車内から同時期にできた大塚製薬の音別工場とともに校舎を見ることができた。1970年代のことである。

さて設立に尽力した佐々木真太郎(1902~1985)とはどういう人物なのか。埼玉県川越市の石炭商の子に生まれ、東京高等主計学校を卒業後、ガラス会社勤務を経て1928年に照明器具製造販売の佐々木商会を設立し、戦後GHQの受注により巨利を得、それを元手に各地に2000万坪(6700㌶)の土地を購入しゴルフ場を経営、1969年には長者番付全国一位となった。そして新日本観光興業創業者(現:新日本観光株式会社)。東日本学園大学会頭とある。

その佐々木真太郎の息子が、かの有名な暴れん坊の糸山英太郎(1942~ )だ。佐々木と妾の糸山道子との間に出来た子だ。父の新日本観光に入社しゴルフ場の運営で実績を上げる。1970年、父の友人である笹川良一の姪で笹川の弟笹川了平(大阪日日新聞社社主)の娘である桃子(1948~ )と見合い結婚して資金的にも恵まれるようになり、政界、投資にも進出した。

糸山英太郎が、音別町(現・釧路市)の土地を所有していたのかが見えてくる。1960年代から70年代という時代からもここがゴルフ場開発候補地だったと推測される。

糸山英太郎は、政治家として参議院議員(1期)、衆議院議員(3期)の当選を果たしている。政界引退後は、新日本観光株式会社等の会長職に就き、東京都港区のザ・イトヤマタワーに居住する。最近の話題では、2021年5月、参議院議員蓮舫の長男である村田琳と養子縁組し、養父となったことが報じられた。また、親戚・井口良二 (異母姉の舅)娘婿に岸田文武、その子に岸田文雄がいる。

以上が、東日本学園大学の創設に関わった佐々木真太郎、糸山英太郎親子の人脈、金脈だ。ただし、彼らの影響が現在まで続いているのは調べきれていない。

その後、「大学機能の大半が当別町に置かれていたことから、1985年に音別校舎を廃止し当別町へ移転・統合した。1994年(平成年)には現校名(北海道医療大学)へ改名した。」とある。

最近における学校法人東日本学園の動きでは、2021年9月末に理事長が東郷重興から鈴木英二に代わっている。

前理事長の東郷重興も興味深い大物だ。

東郷重興(1943~  )は、東京都出身。父は北海道拓殖銀行の行員であり、小学生の頃は函館市や八雲町に暮らした。東京大学法学部を出て1966年に日本銀行に入行し国際局局長を務めた。1996年請われて日本債券信用銀行に転じ、翌年に頭取に就任した。しかし、1998年12月日債銀は経営破綻、日債銀粉飾決算事件(不良債権約1600億円の未記載)で逮捕、後に無罪。その後、大阪造船所社長、ダイゾー社長、日本ラッド社長などを歴任した。そして、2012年より北海道医療大学を経営する学校法人東日本学園理事長に就任した。

以上のことから、ファイターズBPに移転する北海道医療大学は、その華麗なる人脈、経営の基盤となる金脈において侮れないものがあると思う。

 

次回は、僕の切望する「北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想」を実現する起死回生策を提起してみたい。

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (再開)北海道コンサドーレ... | トップ | 北海道コンサドーレ札幌サッ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事