もっと知りたい!旭川

へー ほー なるほど!
写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「perfect days」と一期一会 & チャランケが足りない!

2024-03-09 17:11:24 | 雑記
久々の投稿です。

今回は短い雑記的な文章を2本載せます。
1本は映画の感想、もう1本は意見表明的なものです。

いつもの歴史ものではありませんので、あくまでお時間とご興味のある方のみ、続けてお読みください。




                   **********




「『PERFECT DAYS』と一期一会」


ヴィム・ヴェンダース監督の映画「PERFECT DAYS」を観ました。

役所広司さん演じる主人公は、東京の公衆トイレの清掃作業員です。
都会の片隅の古いアパートに住み、いわゆるルーティンのように規則正しく、つつましい行動を繰り返す日々を送っています。
ただ彼にとって、その毎日は決して同じものではないことが、映画が進むに連れて分かってきます。

「こんどはこんど、今は今」。
無口な主人公がそう言うシーンがあります。
10代で予備校に通っていた頃、授業の中で人生論を述べ出す一風変わった高齢の英語講師がいました。
ある日「不確実な世界のなかで唯一信じる事ができるものがある」と言ってその講師が教えてくれたのが「一期一会」という言葉でした。
「昨日起きたことは変えられない。明日どうなるかはわからない。ただ今この瞬間だけ自分が左右できる確かなもの。だから今を大切にしなさい」と、その時、老講師は言いました。

映画の主人公は、一日の始まりや昼の休憩時間、必ず空を見上げます。
それは祈りのようでもあり「一期一会」を生きている現れのように思えます。
映画の中でひんぱんに登場する木漏れ日のカットは、その象徴のように見えました。

一方、これも頻繁に登場するトイレの清掃作業のカットは、崇高さを感じさせるほど、やはり美しく描かれています。
そこには、コロナ禍でクローズアップされたいわゆるエッセンシャルワーカーへのリスペクトの思いが込められているようです。
同じく一言も台詞のない田中泯さん(50年近く前、彼の踊りを旭川で観ました)演じるホームレスや、主人公のボロアパートなど、通常はマイナスのイメージのあるものも美しく描かれているのが印象的でした。

映画のようなシンプルで規則正しい生活には憧れるものの、実際にはなかなか行うことはできません。
たださまざまな感謝の気持ちを持って、毎日を過ごすことだけは忘れないでいたい、改めてそう思わせてくれた映画体験でした。





「perfect days」チラシ




                   **********




「チャランケが足りない!」


パレスチナ、ガザ地区での死者が3万人を超えたそうです。
この世の地獄のような状態を、世界はいまだ止めることができていません。

あえて書きますが、今回のこの事態と言い、ロシアとウクライナの情勢と言い、つくづく国家などない方が良いとさえ思ってしまいます。
これら地域の大多数の人は、同じ「市民」「生活者」であるという意味において、「兄弟姉妹」のようなものです。
それが国や政府の間に対立が生まれ戦争が始まると、なぜ傷つけあい、殺しあいしなければならないのでしょうか。
歴史上、数え切れない人の命が奪われてきたのに、国家はいまだに戦争をやめようとしません。

同じく歴史を振り返れば、国や政府を持たなくても存続した社会の例は、世界中にあまたあります。
北海道の先住民、アイヌもそうです。
そうした社会では人々が「水平」につながり、生き物が本来持つ助け合う力=「相互扶助」によってコミュニティが継続的に維持されました。

かつて湾岸戦争のニュースを聞いたアイヌ文化伝承者の萱野茂さんが「チャランケが足りないなぁ」とつぶやいたという話が、最近読んだ本に載っていました。
チャランケはアイヌのもめ事の解決法です。
知恵と言葉を尽くし、相手が納得するまで徹底的に議論します。
チャランケの最中、怒って拳を振り上げでもしたら、それは即負けなのだそうです。

民主主義の考え方は、もともと北米の先住民族の社会にあり、それが西欧の思想家の間に伝わり広がったという説があります。
いまこそ世界は、驕りを捨て、国なき社会のありように学ばなければならないと思います。






筆者も参加したガザでの停戦を求めるスタンディングデモ(2023年12月・旭川駅前)



萱野茂(1926−2006・萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵)





「朝の食卓」2023

2024-01-03 14:04:34 | 郷土史エピソード
「朝の食卓」は、北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊で長年愛されているコラム欄です。
執筆者は、北海道各地で活躍するさまざまな立場の約40名。
ワタクシもその一人です。
執筆者となって2年目の2023年は、郷土史関連を中心に5本のコラムを書きました。
そこで去年に続き、このブログにも、2023年版「朝の食卓」コラムをまとめて掲載いたします。

なお「朝の食卓」は文章だけのコラムですが、このブログでは関連画像を加えています。




                   **********




(その1 2023年1月19日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「どちらいか」

「どちらいか」。
今ではほとんど聞かなくなりましたが、旭川や周辺で昔から使われている言葉です
(「どちらへか」という場合もあります。読みは「どちらえか」です)。
何かお礼を言われた時などに「いえいえ、どちらいか」と使います。
「どういたしまして」「こちらこそ」という意味ですね。
もともとは徳島で使われてきた方言だそうです。
徳島は、旭川の基盤となった二つの屯田兵村のうち、永山兵村への移住者が特に多かった土地です。
これが旭川で「どちらいか」が使われるようになった背景のようです。
実は、このことは旭川市の博物館に勤めていた知人から教わりました。
彼は道東の出身で、旭川生まれの先輩職員が電話口で聞き覚えのない言葉を使っているのを聞き、興味を持って調べたのだそうです。
「最初に聞いたときは、一瞬『ロシア語?』と思いました」。
知人が真顔で言うので、私は噴き出してしまいました。
確かに東欧圏の国の言葉にありそうな語感です。
と言っても、この「どちらいか」は、四国にルーツのある言葉です。
ただ、私には北海道にふさわしい言葉と思われます。
厳しい自然環境の中で、お互いに助け合って生きることが不可欠だった先人たちの心意気が伝わってくるからです。
大正生まれの旭川っ子だった亡き母は、よく何かのお礼を言われた時、「いいえ、なんもです。どちらいか」と頭を下げていました。
その姿が今も目に浮かびます。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像01 永山屯田兵村(明治30年代・旭川市中央図書館蔵)




                   **********




(その2 2023年3月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ヤマニの兄貴」

「ヤマニの女は人殺し女子 胸を突こうか首切りましょか イッソ! とどめを えェ刺しましょか」。
芝居のせりふではありません。
大正末期から昭和初期にかけて、旭川にあったカフェー「ヤマニ」の新聞広告のコピーです。
この刺激的な文章を考えたのは、オーナー店長だった速田弘です。
通称「ヤマニの兄貴」。
試験放送を始めたばかりのラジオを客集めに利用するなど新機軸を打ち出し、店を旭川一の人気店に育てました。
彼の特徴はマルチな能力です。
新聞広告ではカットも自ら描きました。旭川初の弦楽アンサンブルではチェロも弾きました。
そんな多才さを武器に当時の飲食業界に新風を吹かせた速田。
しかしその後は波乱の人生を過ごします。
まず1933年(昭和8年)。
満を持してレストランとカフェーを併設した新店舗を出しますが、戦時色の強まりにつれ、経営は悪化。
翌年、多額の負債を抱えた速田は自殺を図ります。
一命は取り留めたものの、旭川から姿を消した彼でしたが、戦後は銀座を代表する高級クラブ「シローチェーン」を創業し、大成功を収めます。
「花の東京」を舞台に実業家として鮮やかな復活を果たしたのです。
先日、旭川で開催している歴史講座で速田について紹介したところ、「そんな人が旭川にいたなんて勇気が出ます」と目を輝かして話してくれた方がいました。
地元生まれのこの魅力的な実業家がさらにどんな人生を歩んだのか、引き続き調べるつもりです。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像02 速田弘(1905−?・旭川新聞・昭和9年12月3日)


画像03 カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)


画像04 ヤマニの広告(昭和6年・旭川新聞)


画像05 シローチェーンの広告(昭和29年・日劇ミュージックホールパンフレットに掲載)





                   **********




(その3 2023年5月17日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「伝説のママ」

上京のたびに顔を出していた新宿ゴールデン街の小さな店が閉まると聞いたのは、2年前のことです。
店の主は、ゴールデン街の伝説のママと呼ばれていた根室出身の佐々木美智子さん(89)。
コロナ禍で社会が大きく動揺していた時期で、ソーシャルディスタンス(社会的距離)など取りようもない店だけに、やむを得ないと思ったことを覚えています。
その佐々木さんは、伝説のカメラマンでもあった人です。
先日、札幌で開かれた写真展を見に行きました。
会場には、1960年代の日大闘争で全共開の学生に同行して撮影した作品や、原田芳雄さんが主演し、74年に公開された映画「竜馬暗殺」で担当したスチール写真などが並んでいます。
見ていてあることに気付きました。
ほぼ全ての作品に人が写っているのです。
そういえは、今回の写真展のタイトルは「出逢い」。
彼女の生きざまを雄弁に物語っているように感じました。
会場で約3年ぶりにお会いした佐々木さんは、少女のように目を輝かせていました。
聞けば、コロナ禍によってできた時間を利用し、一時期暮らしたブラジルで撮りためた写真を竪理して写真集を出したとか。
表現者としての枯れることのないエネルギーに、大いに刺数を受けました。
写真展は20〜28日に道立函館美術館(22日休み)、6月7〜11日には佐々木さんの故郷、根室市の総合文化会館でも開かれる予定です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像06 佐々木美智子さんの写真展(2023年5月・札幌)


画像07 写真展会場でのトークショーの佐々木さん





                   **********




(その4 2023年7月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「賢治来訪と歴史探求」

8月2日は、1923年(大正12年)に宮澤賢治が旭川を訪れてから、ちょうど100年に当たります。
これに合わせて、出版社の未知谷から刊行されたのが、旭川市中央図書館の元館長、松田嗣敏さんの「宮澤賢治✕旭川 心象スケッチ『旭川。』を読む」です。
賢治の旭川訪問は、教え子の就職依頼と前年に病死した妹トシをしのぶ傷心旅行で、樺太に向かう途中の出来事です。
その体験は「旭川。」という28行の詩にされています。
この来訪についての私の知識は、賢治が農事試験場を見学しようと旭川に寄ったものの、郊外に移転していたため、再び汽車に乗って稚内に向かったという単純なものでした。
ところが、この本によると、賢治が旭川に着いたのは朝5時前、稚内行きの列車が出たのが正午前。
滞在時間は7時間もあったのです。
ならば時間的には移転した試験場に行くこともできたのではないか。
松田さんは、当時の時刻表に加え、同時代に書かれた手記などを参考に、移動に使った馬車の推定経路や速度まで割り出しながら可能性を探っていきます(結果はネタバレになるので香きません)。
さらに詩に香かれた一つ一つの事象や言葉も細かく分析し、考察を深めていきます。
それはまるで、探偵による謎解きのようです。
歴史研究では、なかなか実証できない事実がたくさんあります。
その際は明らかになっている事実から、一つ一つ推論を積み上げて実相に迫ります。
そうした歴史探求の醍謝味と面白さを存分に感じさせてくれた著者に感謝です。
(旭川郷土史ライター&語り部)




画像08 宮沢賢治(1896−1933・「宮澤賢治全集第2巻(詩 坤巻)(近代日本人の肖像より)」


画像09 松田さんの著書






                   **********




(その5 2023年10月14日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「漫画になった小熊秀雄」

「旭太郎」という名前を知っていますでしょうか。
詩人の小熊秀雄が、かつて住んだ旭川にちなんで付けたペンネームで、漫画の台本を書いた時に使っていました。
この台本のうち、1940年(昭和15年)刊行のSF漫画「火星探検」は、若き日の手塚治虫や小松左京に影響を与えたほどの出来栄えでした。
その傑作の刊行から80年余りたった今年、小熊の生涯を描いた初の漫画作品「漫画 詩人小熊秀雄物語」が刊行されました。
描いたのは旭川在住の漫画家、日野あかねさんです。
きっかけは、私が開いている歴史講座で旭川時代の小龍について詳しく知ったこと。
当時も評判だった小熊のイケメンぶりにも創作意欲が高まったそうです。
漫画は樺太で過ごした少年時代から始まり、新聞記者として活躍した旭川での20代、詩人として名をあげたものの病魔におかされた東京時代へと展開。
短い生涯を駆け抜けた詩人の姿が、史実をベースに、時に思い切り妄想を膨らませて描かれています。
旭川で知り合った妻のつね子や詩人仲間との絆にもスポットが当てられています。
優れた表現者の生きざまは、時代を超えて多くの人に刺激を与え、新たな作品や活動が生まれます。
この漫画で描かれている小熊の歩みもその一つだと感じました。
漫画は電子版(Amazon)で読めるほか、旭川の出版社「あいわプリント」に注文できます。
若い世代にも小熊のことを知ってもらうきっかけになるのでは、と期待しています。
(旭川郷土史ライター&語り部)





画像10 小熊秀雄(1901−1940・「新版小熊秀雄全集」)


画像11 日野さんの漫画の宣伝チラシ





「活劇工房」のこと

2023-10-24 10:43:17 | 個人史
 


久々のブログの更新です。
といっても今回は郷土史エピソードではありません。私が学生時代に在籍した劇団のことについて書いています。
「はじめに」にもありますが、自分の足跡を確かめる意味、今も続いている劇団の創生期のことを記録に残しておきたいという意味で書きました。
いつもの歴史ブログとは違いますので、あくまでそれでもいいやという方のみ読み進めてください。

なおほぼ同じ文章をnoteでも公開しています。
旧ツイッター「X」で周知したところ、現在の劇団の関係者である多くの若いみなさんがリポストしてくれました。
昔はこんな感じだったんだなと思っていただければ、私としてはうれしいです。

それでは、ここから本文です。




画像00 タイトルイメージ



(はじめに)


 東京杉並の明治大学和泉校舎を拠点に活動する「活劇工房(かつげきこうぼう)」という劇団があります。ネットを見ますと、大学公認の演劇サークルとあります。 
 実は、私は「活劇工房」のごく初期のメンバーです。一浪して文学部演劇学科(正確には文学部文学科演劇学専修)に進んだのが、1977(昭和52)年4月。すぐに「活劇工房」に参加しましたので、なんと46年前の話です。
 「活劇工房」の発足は、その前の年。ですから、劇団の歴史で言いますと、ことし(2023年)で47年目になります。
 半世紀近い歩みのなかで、劇団に在籍した人数はかなりの数に上ると想像できます。ただ創生期の「活劇工房」の活動については、ほとんど伝わっていないのではないでしょうか。
 と言いますか、自分たちがいた頃の「活劇工房」は、メンバーが数名に減るなど危機的な状況の時もありました(あとで詳しく書きます)。このため歴史うんぬんを言うよりも、今も劇団が残っていること自体が、私にとってかなりの驚きです。
 以下は昔話の部類になってしまいますが、自らの足跡を確かめておきたい、そして創生期の「活劇工房」の活動を記録としてネット上に残しておきたいという思いで書くものです。さらに関係者の目に止まって、後輩たちに引き継いでもらえるかも、という期待もあります。
 ただし記憶が不確かになっていることが多々あります。その点はご容赦ください。さらに人名については、一部を除き、本名は名字のイニシャルで、ペンネームや芸名についてはそのまま表記しました。これもご容赦ください。



画像01 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(当時の演劇学科と学内劇団)


 私が入学した当時の演劇学科には、スタニスラフスキーやガルシア・ロルカの翻訳で知られる山田肇先生を筆頭に、演劇科のOBでもある菅井幸雄先生、佐藤正紀先生らがいました。
 一方、学内劇団ですが、当時、明治には「演劇研究部」、「実験劇場」、そして「活劇工房」と3つありました。「劇研」「実験」「活劇」ですね。ネットで見ると、「活劇工房」だけでなく、「演劇研究部」も「実験劇場」も現役で活動しているようです。
 このうち「実験劇場」は、唐十郎ら大先輩の演劇科6期生によって作られた劇団です。「演劇研究部」はいつの発足か知りませんが、やはり「活劇工房」よりも歴史があるのは確かです。ということは、どちらも創設から半世紀を超えているはずですね。これもすごいことです。
 ちなみに演劇科の同期だった柴田理恵(現「ワハハ本舗」)は、「演劇研究部」に入って真面目なお芝居をしていました。ですので、後年、彼女が久本雅美とタモリの番組に出てきたときは、「あの柴田さんが」とたまげました。
 もう一つ、同じ演劇学科の原さんという方が立ち上げた「騒動舎イズミ・フォーリー」というコメディ志向の劇団もありました。彼らは映画を作ったり、コメディアンのポール牧さんと一緒に芝居をしたり、活発に活動していました。「騒動舎イズミ・フォーリー」は今はありませんが、ここもかなり長く続いたと聞いています(最近知ったのですが、「騒動舎イズミ・フォーリー」には、まだ高校生だった頃のケラリーノ・サンドロビッチも関わっていたそうです。これもびっくりです)。



画像02 第9回公演「櫛とヒコーセン」(1978年・シアターグリーン)


(ボックスを訪ねた日)


 私が演劇学科を目指したのは、高校3年生の夏、ふるさとである北海道旭川の伝説の劇団「河」の舞台を観たことがきっかけです。その舞台(奇しくも唐十郎の作品でした)にぶっ飛んだ私は、芝居の世界に関わって生きたいと熱を上げ、演劇科のある早稲田、明治などを受験。結果、明治大学に入ったのです(私と劇団「河」については、拙著「〝あの日たち〟へ〜旭川・劇団『河』と『河原館』の20年〜(2016年・中西出版)」に詳述しています)。
 大学では、演劇ではなく、演劇学を学ぶということは理解していました。このため最初から学内劇団に入ろうと考えていました。上記の3つの劇団はいずれも新入生の勧誘に来ていましたので、初日のオリエンテーションが終わった後、さっそくそれぞれの稽古場やボックス(居室)を訪ねました。
 その中でなぜ「活劇工房」に入ったかというと、一番ゆるーい感じだったんですね。「劇研」は若干堅そうな感じでしたし、「実験」はやや暗い印象を受けました。
 というか、私の場合、芝居をやると決めたものの、中学生のとき、有志でやった芝居に裏方で参加したことがあるのみで、高校演劇にも縁がありませんでした。このためどんな種類の人たちがいるか知らない劇団というものに若干の恐れもあり、一番フランクだった「活劇」に惹かれたのかもしれません。
 「下見」は「劇研」→「実験」→「活劇」の順でした。和泉校舎の奥、第2学生会館地下の「活劇」のボックスの扉を開けたのは、かなり遅い時間だったと思います。その日は、稽古はなかったのですが、一通りの説明を受けた時点で、もう気持ちは固まっていました。
 このとき、対応してくれたのは、当時の劇団の中心だった演劇学科3年のTさんでした。がっちりとした体躯で長身。旭川出身だと私が言うと、おれも北海道だよと返してくれました。彼は札幌西高の出身。同じ道産子がいることも安心材料の一つだったのかもしれません(ちなみにこの時の3年の演劇学科のクラスには、Tさんと同じ札幌西出身で、在学中の1978年から文学座での活動を始める田中裕子さんがいました)。
 「活劇」のボックスは地下でしたが、窓の外は掘り下げてあって陽が入る作りになっていました。その明るさもやはり良い印象を与えたと思います。ただ学生会館自体は、少し前まで活発だった学生運動のなごりなのか、壊れたドアや割れたガラスが放置されていて物々しい感じでした。3〜4階には、学生運動の残党であるセクトの人たちの拠点がありました。
 話が横道に行ってしまいましたね。戻しましょう。
 その日は、Tさんとあと2人の男子学生に新宿に連れて行かれ、シェーキーズで生ビールを飲みながらピザを食べました(まだ未成年でしたが)。大学生になったことを初めて実感した一日でした。
 以下、時代を追って、当時の「活劇工房」での活動について書きます(公演については、分かっている範囲で文末にリストを載せてあります)。



<1976(昭和51)年・創生期>


(創生期の「活劇」)


  結局、この年の新入生で「活劇」に入ったのは、私と、今も親交のある英文学科のM、そして演劇学科の女子学生と別の学科の男子学生の4人でした。
 上級生では、3年生が、作・演出を務めていたTさんと、照明担当のSさん。2年生が、お父さんが東宝に務めていて、子役経験もあるというОさん、それにハーフのような顔立ちだったKさん、広島出身のUさん、横浜から通っていたSさんの女性3人がいました。
 2〜3年生から聴いた話ですと、「活劇工房」ができたのは私たちが入学する前の年(1976年)。1975年演劇学科入学組の4〜5名が2年生のときに結成したのだそうです。ただ2回公演をしたあと、Tさん、Sさん以外のメンバーは脱退。その後、1年生だった4人が加わり、さらに新年度になって私たちが加わったという流れです。
 ちなみに「活劇工房」の旗揚げ公演の作品は「胸毛の生えた鉄腕アトム(1976年)」。オリジナル作品で、作・演出は初期の脱退メンバーの一人、上演場所は不明です(第2回公演の作・演出も同じ人と思われます。作品名、上演場所は不明です)。
 メンバー脱退後は、Tさんが作・演出を担うようになり、2本の作品を池袋のシアターグリーン(これも健在!)で上演しています。
 このうちの一本は、この年6月に上演された「無縁仏」という作品です(彼のペンネーム&芸名は烏山喧児です)。



<1976(昭和51)〜77(昭和52)年・第2期>


(始まった「活劇」の日々)



 当時の大学、特に文系では、かなり自由というか、学生が放任されていました。明治の文学部では、講義の出席も代返(友人のかわりに返事をする)可能な授業がたくさんありました。出席すらとらない講義もありました。リポートの提出などもほとんど求められませんでした。このため、私の場合、講義の半分以上は一度も授業に出ず、試験のみで単位を取りました。
 その試験も「○○について述べよ」などの設問が、事前に3つほど示されていて、そのうち一つないし二つに答えると言ったものがほとんどでした。あらかじめ回答を考えておき、試験ではそれを書くだけ。授業には出ていないので、出題者が求めるような回答は書けませんが、それでも「可」はくれました。
 ただこんなゆるい環境だったにも関わらず、私が1〜2年で取った単位は、一つも落とさなかった人の半分以下。周りからは、「留年コースと言うより中退コースだ」と言われましたが、なんとか1年の留年で卒業することができました。当時の寛容さに救われたようなものです。
 そんなダメ学生だった私も、ほぼ毎日、大学には出かけました。「活劇工房」の活動があったからです。
 当時の「活劇」は、午後4時から活動を行っていました。私は1年から4年まで、京王線の初台駅近くにあったさまざまな大学の学生が集まる男子寮にいました。寮の仲間と深夜遅くや明け方近くまで麻雀をして、昼前後まで寝て、遅い昼食を取り、それから支度をして稽古に行くという毎日。たまに午後からの授業に出ることもありましたが、ほとんど劇団中心の生活が続きました。


(「兄弟がいっぱい」)


 私たちが最初に参加したのは、烏山喧児ことTさん作・演出の第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年5月31〜6月1日・シアターグリーン)です。ある家族のもとに家出をしていた兄が帰ってくるというお話です。



画像03 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


 もともと役者をしたいと思ったことは一度もなく、その適性もまったくないと思っていた私は、大道具、小道具の裏方で関わりました。
 当時、ダダイズムやシュールレアリズムに関心を持っていた私は、装置制作のかたわら、余った木材で一点ものの立体ポスターを作りました。マグリット風の青空に鳥が飛ぶデザインの外観のもので、これは白黒の写真が残っています。
 立体ポスターは、この後の公演でも作りました。マルセル・デュシャンのレディ・メイド作品「フレッシュ・ウインドウ」を真似たもので、観音開きの窓を開けると、芝居のタイトルロゴが見えるという凝ったものです。実は、このデュシャン風の立体ポスターとは、20年後、思わぬ再開を果たすのですが、それはあとで書くこととします。



画像04 「兄弟がいっぱい」の立体ポスター(1977年・シアターグリーン)


 「兄弟がいっぱい」では、全てが新鮮な経験でした。稽古始めの肉練(肉体訓練のこと。明治系の劇団では肉練と言うが、早稲田系の劇団では、「身訓」=身体訓練と言うと、当時聞かされていました。本当がどうかは不明です)は、柔軟体操が中心で、裏方の私も一緒にやりました。劇団にはつきものの、「アエイウエオアオ」や「あめんぼあかいなアイウエオ」といった発声練習も毎回欠かさずやっていました。
 なによりも空き教室を使っての立ち稽古が始まりますと(その後の「活劇」にはアトリエがあったようですが、当時は居室=ボックスしかありませんでした)、芝居が少しずつ立ち上がっていく過程がたまらなく面白く、午後4時が待ち遠しい日々が続きました。
 このときの公演では、同期のMが新人ながら役者デビューを果たしています。家出した兄を探す家族が出演するワイドショーの司会者の役です。
 彼は僕と同じで、演劇経験のないまま「活劇」に入りました。Mの他、「兄弟がいっぱい」の主要キャストでは、「兄」をTさん(烏山喧児)、「弟」をОさん、「妹」をKさんが演じました。
 この3人は、劇団に入りたての私から見ても、かなり達者な役者でした。Mの演技も初めての役に挑む必死さが早口でまくしたてる司会者の役とよくマッチしていました。



画像05 第5回公演「兄弟がいっぱい」司会者を演じるМ(1977年・シアターグリーン)


画像06 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)



 実は当時「活劇工房」はかなり背伸びをしていた劇団で、公演は、基本、オリジナル作品を学外の劇場を借りて上演していました。さらに対外的には、「明治大学」の名前は出さず、フライヤー(当時は単にチラシと呼んでいました)や、「ぴあ(数年前に創刊したばかりでした)」などの情報誌に出す告知にも、明治の名前は出しませんでした。
 実態は、学生劇団以外の何物でもないのですが、やはり背伸びをしていたとしか言いようがありません(劇場の借り賃は、長期の休みにそれぞれがバイトをして持ち寄ったお金で賄っていました)。
 ちなみに、「劇研」や「実験」は、当時、駿河台校舎にあった教室を改造した共有アトリエ、551ホールで公演していました。



画像07 第5回公演「兄弟がいっぱい」(1977年・シアターグリーン)


(初舞台!)


 続いてこの年7月には、第6回公演、烏山喧児作・演出「メランコリック・スーパーマン」をシアターグリーンで上演します。明治期に滋賀県で起きた大津事件に着想を得た作品です。大津事件は、当時、来日中だったロシアの皇太子、ニコライが。警備中の巡査に切りつけられた事件ですね。
 この公演、役者には縁のないはずだった私がなんと初舞台を踏んでいます。役は沼の主。私に芝居センスのないことを分かったうえでの起用で、絡みは一切ありません。
 登場は3回。1回目は劇の冒頭、無言で花道から登場し、舞台を横切るだけです。ただし姿は赤フン一丁。まあ、若くて痩せていたからできたことです。
 そのあと2回、登場シーンがありましたが、いずれも白いシーツ状の衣装をまとい、そこそこの長台詞を独白で語るというものでした。
 冒頭のシーンは良いとして、一度目の台詞のシーンの登場前は、緊張のあまり吐き気がする始末。こんな状態で本当に台詞をしゃべることができるのかと思うと、さらに緊張が増しました。
 ただ舞台に上がると、あら不思議、すっと緊張が解けたのです。長台詞を語りながら、客席の様子を落ち着いて見ることができたことを覚えています。
 なおこの公演では、寅さん役で知られるあの渥美清が観劇に訪れ、皆をびっくりさせました。東宝にいたОさんの父親の関係で来てくれたと後で聞きました。



<1977〜80年・第3期>


(相次ぐ引退)



 「メランコリック・スーパーマン」の公演終了後、劇団に激震が走りました。太い柱だった3年生2人にОさんを加えた3人が引退を表明したのです。
 第7回公演は、同年11月、私が宮沢賢治の詩「永訣の朝」などをベースにして書いた作品「水中花」を演出して、高田馬場にあった東芸劇場で上演しました(ペンネームは岸田志基です)。それが終わると、残りの上級生も、Kさんを除いて全員引退してしまいました。
 その時点で、同級生で残っていたのは私とMの2人のみです。ですからKさんと合わせて3人。東京生まれの男子学生が照明をやってくれることになり、これで4人。さらに別の劇団(騒動舎?)にいたAさん(阿西亜里)という同学年の女子学生を口説き落として引き抜き、計5人。
 ただ1人は裏方専門なので、役者は自分を入れたとしても4人です。これで上演できる芝居を書こうと、冬休みに旭川に戻り、「砧(きぬた)ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」という能の作品に着想を得た脚本を書きました。
 このときが初期の「活劇工房」としては一番の危機的状況ではなかったかと思われます。次回公演まで半年以上かかったのが、そうした事情を物語っています。


(一転、大所帯に)


 5人でなんとか頑張ろうという思いで東京に戻った私。ただ新学期が始まって新入生の勧誘に当たりますと、なんと入団希望者がわらわらと現れるではありませんか。
 結局、10人ほどが新たに加わり、メンバー不足の状態はたちまち解消に至ります。さらにその中に、普段はぼやきキャラながら舞台に立たせるとキリッと変貌する新潟出身のSがいました。さっそく彼を主役に抜擢。私は演出に専念しました。
 4人が出演した第8回公演「砧ー思ひは身に残り昔は変り跡もなし」(岸田志基作・演出)は、1978(昭和53)年6月に上演されました。場所は、今はなき六本木の自由劇場。串田和美や吉田日出子らが躍動した劇団「オンシアター自由劇場」の本拠地です。
 六本木の交差点近くのガラス店の地下にあった自由劇場は、一杯に客を入れても100人が限度だったのではないでしょうか。夏のシーズンオフで、比較的安く借りることができたと記憶しています(ただし公演時はものすごい暑さで、役者も観客も汗だくになっていました)。
 手元の資料を見てみますと、「オンシアター自由劇場」が、斎藤憐作、串田和美演出の名作「上海バンスキング」を自由劇場で初演したのは、1979(昭和54)年1月。我々の公演の半年後です。
 そんな場所で、実質は学生劇団の我々が芝居をしていたわけです。若さゆえの大胆さ以外の何ものでもありません。


(「櫛とヒコーセン」)



画像08 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像09 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像10 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里(1978年・シアターグリーン)



 続く第9回公演の「櫛とヒコーセン」(岸田志基作・演出、1978年11月)は、役者希望者が大幅に増えたことを反映して、一転大人数が出演する作品になりました。場所は原点に戻って池袋のシアターグリーンです。
 この芝居は、昭和の時代を生きた一般的な一人の女性の誕生から臨終までの生涯を描いた作品です。当時の私は、ドラマとは、ごく限られた特別な境遇の人の中だけに存在するものではなく、ありふれた日常を生きる人の中にもあるのだ、という思いを強く持っていました。
 ただありのままの人生をフラットに描いても、ドラマを感じてもらうことはできません。詳しいことは省きますが、作品では、人の一生を、できるだけ演劇的な手法で描くことに挑戦しました。
 例えば、女性の夫は、太平洋戦争で戦闘機のパイロットとして出陣して戦死しますが、舞台に登場する夫は、自身が飛行機になったかのように「ぶーん」と唸り声を上げながら両手を横に一杯に広げた姿で登場します(画像08参照)。
 「活劇工房」で、私は5本の作品を作・演出しましたが、この作品に一番愛着がありますし、唯一、手応えも感じた作品です。
 ここで感じた手応えをうまく自分の中で消化することができていたら、もしかしたらもう少し長く芝居に関わっていることができたかもしれません。ただ実際はそうはなりませんでした。この後、作・演出としての私は大きく迷走することになります。



画像11 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里、岸田志基(1978年・シアターグリーン)


画像12 第9回公演「櫛とヒコーセン」阿西亜里ほか(1978年・シアターグリーン)


画像13 第9回公演「櫛とヒコーセン」終演後の集合写真。観劇に来てくれた私の友人らも含まれています。(1978年・シアターグリーン)



(当時の演劇界)


 ここで少し脇道にそれて、当時の私たちが観に行っていた東京の劇団や印象に残る舞台について書いておきたいと思います。
 手元にある演劇史家、大笹吉雄さんの「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(社団法人日本劇団協議会)を見ながら、記憶を遡って書いてみます(ちなみにこの本の1977年と1978年のページには、なんと第5回から9回までの「活劇工房」の公演の情報も載っています。光栄ですが、さすがに恥ずかしい……)。
 まず概況から言いますと、私が「活劇工房」に在籍していた1977〜80年は、状況劇場、黒テント(演劇センター68/71)、早稲田小劇場、天井桟敷などのアングラ・小劇場演劇の活動はまだまだ盛んでした。一方で、世代的に自分たちに近いつかこうへい事務所や、野田秀樹の夢の遊眠社、渡辺えり子の2○○などが活動を始めたり、本格化させたりしたころです。
 貧乏学生でしたので、そうひんぱんには観に行けませんでしたが、これぞと思う公演には、劇団の仲間と誘い合って出かけました。
 まず強烈に印象に残っているのは、まだ浪人生だった1977年1月に矢来能楽堂で見た転形劇場の「小町風伝」です。詳しいことは書きませんが、演劇の持つ深さ、凄みを感じさせてくれた舞台でした。この舞台には、旭川出身の品川徹や若き日の大杉漣が出演していました。
 その2か月後には、早稲田小劇場の「鏡と甘藍(きゃべつ)」を、早稲田銅鑼魔館で観ています。銅鑼魔館は早大近くの喫茶店の2階にあった早稲小のアトリエです。彼らはこの後、富山に拠点を移して活動します。ぎりぎりのところで東京拠点時代の舞台に接したことになります。
 唐十郎の状況劇場は、このころ根津甚八に加え、小林薫の人気が上がっていました。前も後ろも両脇も、とにかく詰めるだけぎゅうぎゅうに詰めて座らされ、身動きもできない状態でも舞台に釘付けになったあの迫力と熱気は何だったのでしょう。
 たしか渋谷の百軒店跡地での紅テント公演では、小林薫が主役をつとめていた記憶があります。
 劇団の仲間と観に行った芝居では、早稲田小劇場から脱退した俳優たちが作った眞空艦(しんくうかん)の旗揚げ公演「ゴトーさんの荒野での静かな日々」(1978年6月)が印象に残っています。
 明大前に近い京王線の代田橋にある廃業したメッキ工場を改造したアトリエでの公演。戦前からあるのではないかと思われる古びた建物と、一種独特な俳優たちの佇まいが奇妙にマッチした舞台でした。
 あとはやはり黒テントですね。高校生のときに、旭川で「キネマの怪人」を観てぶっとんだ記憶がありますが、東京では「ブランキ殺し上海の春」(1979年5月)を仲間と観ました。確か休憩を入れて、4時間近くあったのではないでしょうか。
 相変わらず、役者はとにかく達者で、演出もスピーディで仕掛けも盛りだくさん。とんでもない長時間にも関わらず、舞台に惹き込まれます。
 ただ作者が伝えたいところはまったくわからない。ものすごく面白いが、ものすごくわからない。私にとって黒テントの芝居はそんな芝居でした。
 このほか、風間杜夫、平田満、加藤健一が出演したつか事務所の代表作「熱海殺人事件」を、紀伊國屋ホールで観たのも印象に残っています。


(迷走の2作)



画像14 第10回公演終演後(1979年・シアターグリーン)


 さて「活劇工房」の話です。3年生になった私にとって、1979(昭和54)年は苦しい年でした。
この年は、前年ほどではないにしろ、春に4〜5人の新入生を迎えたと記憶しています(その中には、後に声優となってカウントダウンTVのキャラクターの声などで活躍するIがいました)。
この年は、春にシアターグリーンで1本、秋に同じ池袋の文芸坐ル・ピリエで1本、それぞれ私の作・演出で公演していますが、どちらも脚本を書くのに難儀しました。
 今から考えますと、手応えのあった「櫛とヒコーセン」の路線をさらに深化させることを目指すべきでしたが、ストーリーを書くことを目指してしまったのですね。
 背景には、なかなか物語を作ることのできない自分を変えたいという気持ちがありました。



画像15 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


 私は子供の頃から本好きでしたが、どちらかというと、小説など物語系より、伝記物などノンフィクション系が好きでした。このため東西の古典的な名作小説などはほとんど読んでおらず、そもそも自分の中の物語の蓄積が少なかったのです。それは創作者としての私の大きなコンプレックスでもありました。
 ただ物語作りはやはりうまく行きません。春は銀行強盗もの、秋はヤクザの一家ものという作品を書きましたが、最後までストーリーをうまく展開することはできませんでした。特に秋のヤクザものは、稽古に入った段階でもまだ終盤が書けておらず、劇団員のみんなに迷惑をかけました(一応最後まで書いて、上演することはできました)。
 2本続けてのつらい執筆となり、私はしばらく作・演出を離れることにしました。



画像16 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


画像17 第11回公演より(1979年・文芸坐ル・ピリエ)




<1980(昭和55)年〜?・第4期>


(引退へ)



 私の後の作・演出は、1学年下のHくん(和才秀)が担ってくれました。もともと小説を書いていた人で、劇団内で同人誌的な冊子作りにも励んでいました。
 第12回公演はその和才秀作・演出の「大地は一個のオレンジのように青い」(1980年6月・シアターグルーン)でした。
 そしてこの年秋、私は「活劇工房」での最後の活動、第13回公演「檸檬(れもん)」を演出しました。「檸檬」は、2年前の1978年、「斜光社」という劇団を主催していた竹内純一郎(のちに銃一郎)が発表した作品です。
 この公演では、思い切ってそれまでとは違うことをしました。初めてプロの劇作家の脚本を用い、公演場所も、「劇研」などが使っていた駿河台校舎内の551ホールに変えました。公演では、劇団員が手分けして集めた古新聞や古雑誌を、山のように舞台に積み上げて装置としました。



画像18 第13回公演「檸檬」終了後の集合写真。後ろに古新聞、古雑誌の一部が見える。(1979年・文芸坐ル・ピリエ)


振り返りますと、自分が書いた脚本を演出する際は、執筆段階でのイメージと役者が演じる際のイメージに常に差があり、そのギャップを受け入れることにとまどいがありました。ただ脚本のイメージに無理やり役者を合わせようとすると、役者の良さが消えてしまいます。
 作・演出の場合は、いつもその点で苦労しましたが、「檸檬」では、役者とともに一から脚本の世界を組み立てていく実感があり、楽しく作業することができました。
 ただその一方で、自身の才能に一つの限界を見た寂しさもありました。同時にそのことは、やはり自分はものを書いて生きる人間になりたいのだと、強く意識する結果にもなりました。
 公演終了後、私は「活劇工房」の活動から事実上引退しました。



<その後(1)>


(17年ぶりのボックス)



 大学を卒業した後、縁あってテレビの世界に入った私は、記者、ディレクターとしてキャリアを積みました。カメラマン、編集マンと共同作業をしながら、取材をし、構成を立て、映像に原稿を添え、伝える。生まれ故郷の北海道でそんな毎日を送っていた私は、1996(平成8)年になり、初めて東京勤務を命じられました。
 たしか東京に行って2年目だったと思います。私用で杉並を訪れていた私は、ふと母校に立ち寄ってみる気になり、明大前の駅に降りました。
 木造だった駅舎は見違えるようになっており、やはり木造の飲食店が両脇に並んでいた甲州街道に至る道も、ビルが建ち並ぶ広い通りに変わっていました。
 変わっていなかったのは、甲州街道にかかる歩道橋の手前にある小劇場「キッド・アイラック・ホール」が入った小さなビルです。このホールでは、最初の方で書いた明大の騒動舎イズミ・フォーリーがよく芝居を打っていて、何度か観に行った覚えがあります。ちなみにこのビルとホール、10年ほど前に、ある御縁で知り合った著作家で美術館「無言館」の館長、窪島誠一郎さんの所有と聞いて驚きました。 
 歩道橋を渡って和泉校舎の構内に入りますと、新しくなった校舎に並んで見覚えのある建物もありました。さすがにもうないのだろうと奥に進むと、なんとあの第2学生会館がそのままの姿で建っているのではありませんか。しかもタイムスリップしたかのように発声練習の声まで響いています。
 昔この地下に「活劇工房」という劇団があったのだがと、外にいたTシャツ、ジャージ姿の3人の女子学生に声をかけますと、「ああ今でもありますよ。私たちのサークルです」とびっくりするような言葉が返ってきました。聞けば、ボックスもそのままだと言います。中を見たいとお願いすると、どうぞどうぞと案内してくれました。
 1階のフロアから階段を降りると、かつて装置の制作などに使っていた小さなスペースがあり、少し進むと左手にトイレ、その向かいが「活劇」のボックスです。
 木製のドアを開けると、昔のままの部屋がそこにありました。中央に大きめのテーブル。3方を囲うように長椅子。さまざまな劇団のチラシやポスターがびっしりと貼られた壁。その中には、我々の時代の「活劇」のチラシもありました。そして陽が入るあの窓。
 その時間に居合わせた後輩たちは、10人ほどだったでしょうか。ボックスはそのまま居室として利用していて、僕らの頃は軽音楽部が練習場として使っていた奥の空間は、「活劇」のアトリエになっていると教えてくれました。メンバーは数10人いると聞きました。
 「卒業したら俺もこんな形でここを訪ねることがあるかもね」。
 一人の男子学生の言葉に皆で笑いあったとき、長椅子と長椅子の間の隅っこに見覚えのあるものを見つけました。そう、1年生のときに作ったあのデュシャン風の立体ポスターです。自分が作ったものだと話すと、後輩たちは目を丸くしていました。
 後日、彼らの公演があの551ホールであるというので、差し入れを持って出かけました。熱演する後輩たちの姿に、かつての仲間の姿がダブりました。



<その後(2)>


(その後の私と演劇)




画像19 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 予告編(プレ公演)」(2020年2月・旭川市民文化会館小ホール)


 2019(令和元)年7月、旭川では約30年ぶりとなる市民劇の稽古がスタートしました。上演作品は、大正末から昭和初期にかけての旭川を舞台に、架空の若者たちと実在の人物たちが織りなす群像劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。「活劇工房」時代以来、37年ぶりに私が書いた戯曲です。
 あるきっかけからこの戯曲が地元の演劇人の目に止まり、市民劇の形で上演を目合すことになったのが2017(平成29)年。私は脚本担当兼総合プロデューサーという立場で組織づくりから関わりました。
 2020(令和2)年2月に「予告編」と題したプレ公演を上演した直後、コロナ禍という予想もしない事態に遭遇。しかし関係者の努力と熱意で、なんとか2021(令和3)年3月に本公演を行うことができました(詳細は、拙著「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジーコロナ禍中の住民劇全記録―」(2021年・中西出版)に詳述しています)。



画像20 「旭川歴史市民劇 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ 本公演」(2021年3月・旭川市民文化会館小ホール)


 実はこの作品、10年あまり前からふるさと旭川の歴史について、ブログや講演、執筆などの形で発信する活動を続けている私の頭の中に、ある日、突然降りてきた物語がベースになっています。といっても全くのゼロから物語が生まれたわけではありません。
 舞台で起きるほとんどの出来事は、当時の旭川で実際にあったことです。詩人の小熊秀雄、画家の高橋北修、のちの歌人、齋藤史など、登場人物の約半数も、当時の旭川で活動した実在の人物です。
 物語は、架空の若者たちが、その実在の人物と出会い、実際にあった出来事と関わる中で生きる目標を見出していきます。
 物語を書けなかったことをきっかけに20代で演劇から離れた私。その後培った郷土史研究を含むさまざまな蓄積が物語を生み、30数年ぶりに演劇の現場に自分を導いたとでも言えるでしょうか。歴史市民劇の本公演には、「活劇工房」で同じ時間を過ごしたMも、東京から駆けつけてくれました



画像21 大学卒業の頃の筆者




<初期「活劇工房」公演リスト>


     作品名(作・演出  上演日 上演場所)
 
第1回 「胸毛の生えた鉄腕アトム」     不明   1976  不明
第2回  不明          不明   1976  不明
第3回 「無縁仏」        烏山喧児 1976 6.26~27  シアターグリーン
第4回  不明          烏山喧児 1976秋 シアターグリーン
第5回 「兄弟がいっぱい」     烏山喧児 1977  5.31~6.1 シアターグリーン                  
第6回 「メランコリックスーパーマン」   烏山喧児 1977・7 シアターグリーン
第7回 「水中花」        岸田志基 1977・11 東芸劇場
第8回 「砧〜思ひは身に残り昔は変り跡もなし」   岸田志基 1978・6 自由劇場
第9回 「櫛とヒコーセン」     岸田志基 1978 11.28〜29 シアターグリーン                    
第10回 不明           岸田志基 1979春 シアターグリーン
第11回 不明            岸田志基 1979秋 文芸坐ル・ピリエ
第12回「大地は一個のオレンジのように青い」  和才秀  1980 6.13~15 シアターグリーン                      
第13回「檸檬」 作竹内純一郎・演出岸田志基  1980秋  明大551ホール


(第5〜9回公演については、「戦後日本戯曲初演年表 第Ⅳ期(1976年〜1980年)」(大笹吉雄・社団法人日本劇団協議会)に記載のデータとすり合わせています。ほかは記憶のみが根拠ですので、必ずしも正確ではありません)





「朝の食卓」2022

2022-12-23 16:42:34 | 郷土史エピソード



北海道のブロック紙、北海道新聞の朝刊には、長年愛されている「朝の食卓」というコラム欄があります。
北海道各地で活躍するさまざまな立場の方々、約40名が執筆しています。
ワタクシもことし(2022年)から執筆陣の一人に加えていただきました。

コラムでの肩書は「旭川郷土史ライター&語り部」。
その郷土史関連の話を中心に、ことしは10回書かせていただきました。

ただこのコラム、伝えるのは文章だけで、写真など画像はなしです。
初回のコラムにも書いていますが、ワタクシはもともとテレビ畑の出身。
何かを伝えるには、まず画像や動画でと考える癖がついています。
このためどうなるものかと考えていましたが、文章だけで表現するのは普段とは違った感じで新鮮でした。

また新聞のコラムということで、「掲載する時期」を意識した内容のものを書く楽しみもありました。
例えば、3回目はその時期強いショックを受けていたウクライナ侵攻について、4回目はその月が没後20年だった齋藤史さんについて、5回目はその月にオープン50周年だった買物公園について、などです。

ということで、今月は1年の区切り。
今回、このブログにも、2022年に掲載した10回分のコラムを載せることにしました。

なおこのブログでは、一部、関連画像を加えています。
合わせてお楽しみいただけると幸いです。




                   **********




(その1 2022年1月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「文章だけで」

すでにリタイアしていますが、長年、テレビの世界で過ごしてきた人間です。
たたき込まれたのは、論より証拠。
ひと目でわかる映像の重要性です。
たとえば、何か社会的な問題があったとします。
記者やディレクターは、こういう弊害がありますと、ただ説くことはしません。
実際に問題が起きている現場にカメラを入れ、その生の実態を映像に記録します。
そうしないと説得力がないからです。
ただ映像には、わかりやすい反面、誤解を与えたり、ときには悪用されたりする欠点もあります。
そうしたことを踏まえても、何かを伝えるにはやはり有効な手段です。
私がふるさと旭川の歴史について、講座やブログ、著作等で情報発信を始めて、もう10年になります。
この活動でも、できる限り映像=写真や動画をお見せしながら話を進めるようにしています。
お伝えするのは、普段なじみのない昔の出来事や人々のこと。
なおさら受講者や読者の皆さんとイメージを共有することが必要だからです。
ただ実を申しますと、「お話」だけで理解してもらえるほど、自分の文章や語りに自信がないという事情もあるのです。
ということで、書かせていただくことになりました「朝の食卓」。
もちろん画像や動画は使えません。
文章だけでどこまで思いを伝えることができるのか、チャレンジのつもりで取り組みたいと思っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)




                   **********




(その2 2022年2月10日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「那須の村」

数年前から祖先について調べています。
まだ道半ばですが、いろいろなことが分かりました。
中でも驚いたのが、私が生まれる少し前に亡くなった祖父、那須半蔵についてです。
半蔵は、1873年(明治6年)、和歌山県西牟婁郡長野村(いまの田辺市長野)で生まれ、1904年(明治37年)に旭川に本籍を移しています。
そのことが書かれた戸籍を見ていて、あることに気付きました。
半蔵の2人の妹は同じ村内に嫁いでいますが、ともに嫁ぎ先の性は那須。
母親も同村出身で、旧姓はやはり那須。
さらに戸籍には、記載事項の末尾にその時点の首長の印が押されますが、それも多くが那須なのです。
つまりは、那須だらけです。
調べてみると、旧長野村には、弓の名手として知られる平安末の武将将、那須与一の伝説があることが分かりました。
地区には与一の墓とされる石塔や、子孫が建てたという寺社があります。
明治になって全国民が名字を持つことになった際、地元ゆかりの著名人の性を名乗った人は少なくありませんでした。
この地区でも那須を名乗った人が多かったと思われます。
実はわが家と同じ宗派である与一ゆかりの寺に問い合わせたところ、半蔵の父母(私の曽祖父母です)や兄の位牌が、永代供養のため寺に預けられていることが分かりました。
この位牌に手を合わせるため、熊野古道のお膝元である同地を訪ねたいと思っています。
その際には、いまも地区にいるたくさんの那須さんに会えるかもしれません。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像01 那須与一(「源平合戦図屏風)より)




                   **********




(その3 2022年3月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「ウクライナ侵攻に思う」

旭川は、戦前、旧陸軍第七師団の本拠地でした。
ですので、その歴史を振り返るとき、戦争との関わりを欠かすことはできません。
その第七師団の将兵が、初めて実際の戦場に立ったのが日露戦争です。    
1904(明治37)年2月に始まった戦争では、多くの死傷者を出しながらも日本軍が優勢を保ちます。
ただ大国ロシアの皇帝ニコライ2世は、戦局の巻き返しに自信を見せ、シベリア鉄道で戦場である南満州(いまの中国東北地方)に大量の兵を送るとともに、自慢のバルチック艦隊を極東に派遣していました。
そんな皇帝の態度を一変させたのが国内事情です。
戦争の長期化に伴う物価の上昇や労働環境の悪化で、民衆の不満が高まったのです。
開戦の翌年1月には、首都サンクトペテルブルグでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
一気に高まった革命の気運に押されるかのように、ニコライはルーズベルト米大統領の斡旋を受け入れ、日本との講和に同意します。
先月、こうした日露戦争の推移を、旭川との関わりを中心にブログに掲載し始めた直後、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
主導したプーチン大統領の姿は、権力を一身に集めたかつての皇帝と重なって見えます。
その蛮行を止めるには、日露戦争のときと同じく、ロシア国内での反戦の高まりが必要と多くの識者が指摘しています。
求められているのは、ウクライナの人たちに加え、侵攻に抗議するロシアの人々との連帯です。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像02 日露戦争に出征する第七師団の将兵(1904年・旭川市中央図書館蔵)


画像03 血の日曜日事件(1905・「図説 日露戦争」より)





                   **********




(その4 2022年4月28日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「齋藤史と旭川」

現代短歌を代表する歌人、齋藤史(ふみ)は、生前、2度旭川で暮らしました。
1度目は、1915年(大正4年)からの5年間。
父、瀏(りゅう)が、当時旭川にあった陸軍第七師団に異動したのに伴い、小学生時代を過ごしました。
瀏は、職業軍人であり、歌人でもありました。
2度目は、やはり父の旭川勤務に伴う1925年(大正14年)からの2年間です。
このとき、史は高等女学校を卒業して間もない多感な年頃でした。
この2度目の旭川暮らしの際、史は瀏を訪ねてきた歌人、若山牧水と出会います。
牧水は齋藤家に4泊し、感性の鋭さを見せる史に作歌を勧めます。
のちに史は、それが本格的に短歌の道に進むきっかけになったと繰り返し述べています。
一方、1度目の旭川滞在のとき、史の幼馴染に、のちの二・二六事件で決起し、処刑された栗原安秀、坂井直(なおし)の2人がいました。
事件では、彼ら青年将校を支援したとして、瀏も禁固刑を受けます。
きょうだいのように育った友人たちの刑死と父の収監。
事件は、生涯に渡り、史の創作上の大きなテーマとなりました。
「物語を持った最後の歌人」。
史はそう呼ばれています。
二・二六との関わりと牧水との交流、そのどちらにも旭川という土地が絡んでいることに感慨を覚えます。
2002年に93歳で亡くなった史。
4月26日は、それからちょうど20年の節目でした。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像04 齋藤史(1909−2002)


画像05 若山牧水(1885−1928)





                   **********




(その5 2022年6月6日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「買物公園50年」

旭川駅前から約1キロに渡って続く平和通買物公園。
今月1日で誕生から50年の節目を迎えました。
買物公園ができた時、私は中学2年生でした。
地元にできた全国初の恒久歩行者天国。
子供ながらも誇らしく思ったのを覚えています。
その買物公園、実は完成の3年前、実際に通りから車を締め出す大規模な社会実験がありました。
夏休みに合わせて行われた12日間の実験では、いつもは1日に1万5千台もの車が行き交う通りに、イスやテーブル、遊具や花壇などが並べられ、大勢の市民が繰り出しました。
日本の歩行者天国は、1970年、東京の4か所の繁華街で始まったことで知られるようになります。
この実験はその前の年の出来事。
歩行者天国に関しては、まさに旭川がトップランナーだったわけです。
ところで買物公園の誕生の背景には、事故の増加や排気ガスによる大気汚染の深刻化など、急速に進んでいたモータリゼーションへの深い懸念がありました。
そこで打ち出されたテーマが「人間性の回復」。
このためかつての買物公園では、愛らしい姿の原始人の家族がイメージキャラクターになっていました。
(旭川郷土史語り部&ライター)



画像06 買物公園の実験(1969年8月・旭川市中央図書館蔵)


像07 イメージキャラクターの原始人のイラスト





                   **********




(その6 2022年7月16日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「市制100年」

100年前にあたる1922(大正11)年8月1日、札幌、函館、小樽、旭川、室蘭、釧路の道内6都市は市になりました。
一斉に市になったのには訳があります。
明治政府は、1888(明治21)年に市制を定めた一方、開拓が始まってまもない北海道や沖縄県には適用しませんでした。
代わりに設けられたのが北海道区政です。
この制度のもと、1899(明治32)年に札幌区、函館区、小樽区が誕生し、大正時代に入ると、旭川、室蘭、釧路も区となりました。
その後の法律改正で、本州並みに市が誕生したのが1922年だったというわけです。
各自治体では、祝賀会やちょうちん行列、花電車の運行など祝賀行事が催されました。
区制時代は、区長が区議会議長も務めるなど、市に比べると自治権に制約があり、不満が溜まっていたことがうかがえます。
ただ、私の地元、旭川を見ますと、市制施行の8年前にあった町から区への移行の際の記念行事の方が、盛大でした。
不思議に思って調べますと、町時代の旭川は、先行して区となった札幌などに追いつきたいと、地域をあげて道や国に働きかけていたことが分かりました。
新旭川市史によると、中島遊郭をめぐり、設置を推進した道長官と、反対した旭川町長が対立し、町長が「道庁の横暴」を政党や報道機関に訴えたことで、道との関係が険悪になり、区制施行の要望まで道に拒否された時期もありました。
このような紆余曲折あって、努力が実ったのは、旭川で区制移行の運動を始めてから7年後。
市よりも区の誕生の方の喜びが大きかったのは、そうした事情が影響したものと考えています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像08 区制実施祝賀会当日の旭川区役所(1914年・「旭川区世実施祝賀会記念写真帖)より)


画像09 市政移行を伝える新聞記事(1922年・函館毎日新聞)


画像10 看板をかけ替えた旭川市役所(1922年・北海タイムス)





                   **********




(その7 2022年8月26日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「坂本直寛と旭川」

坂本龍馬のおいの坂本直寛(なおひろ)は、移民団体「北光社(ほっこうしゃ)」を作った北見開拓の先駆者であり、旭川ともゆかりの深い人物です。
直寛は故郷の高知でキリスト教の洗礼を受け、北海道移住後は布教活動に力を注ぎました。旭川には、1902年(明治35年)年に伝道師として赴任、6年余りを過ごしています。
当時、旭川には、米国人宣教師、ピアソン夫妻がいました。直寛は2人が取り組んでいた遊郭の設置反対や、遊郭で働く女性を救う廃娼運動にも協力します。
その直寛が、旭川の別の教会に通う2人の青年の訪問を受けたのは、赴任から3年余り後、すでに牧師となっていた頃のことです。2人の真剣なまなざしに胸を打たれた直寛は、教派を超えた特別な祈祷会を開くことを約束します。
この時の青年の一人は、鉄道員で、名前を長野政雄と言いました。直寛との出会いから3年後、彼は和寒町の塩狩峠で、客車の暴走を身を賭して食い止めます。この殉職は三浦綾子の小説「塩狩峠」で描かれ、多くの人の知るところとなりました。
直寛は坂本家の5代目の当主で、一家で北海道への移住を決断した人物です。このため蝦夷地の開拓に情熱を持っていた叔父、龍馬の夢を受け継いだと言われています。
旭川では、来月、全国各地にある龍馬を慕う団体 「龍馬会」の会員が集う「龍馬 world in 旭川」が開かれます。これを機会に、龍馬の子孫が地域に残した確かな足跡についても知っていただきたいと思っています。(旭川郷土史語り部&ライター)



画像11 坂本直寛(1853−1911・「坂本直寛の生涯」より)


画像12 三浦綾子著「塩狩峠」


画像13 塩狩峠の殉職碑





                   **********




(その8 2022年10月4日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「新旭川市史」 

旭川の宝と言えば何を思い浮かべるでしょうか。
実は私が密かに宝と思っているのが、郷土の歴史を綴った「新旭川市史」です。
「新旭川市史」は、開村100年の記念事業として1988年に編さんが始まりました。
これまでに通史と史料など8巻が刊行されています。
郷土史の情報発信をしている私は、道内各地の市町村史に当たることがよくあります。
その経験から言いますと、質、量ともに横綱級なのは札幌、函館、旭川の各市史。
なかでも「新旭川市史」は詳しいうえに一つ一つの史実の捉え方が深いといつも感心しています。
その旭川の市史、残念なのは、財政悪化等の理由で、2012年度以降、編さんが休止したままになっていることです。
このため道内の他の主要都市ではほぼ終えている戦後編の刊行の目処が立っていません。
ところが先日、うれしいニュースが入ってきました。
「戦後から平成の始まりまでは、残さなければならない責任が私たちの世代にはある」と、市長が編さんを再開する意向を明らかにしたのです。
マチの歴史は、そこで生きた先人たちの活動の集積です。
それを知ることは、地域の今を見つめ直し、将来を考えることにつながります。
市町村史は、いわばまちづくりの礎石のようなものです。
長いブランクによって編集担当者の高齢化が進むなど、再開には多くの課題があります。
ですが、市には、これまでの取り組みをしっかりと受け継ぎ、ぜひ「宝」にふさわしい戦後編を作ってほしいと願っています。
(旭川郷土史ライター&語り部)



画像14 新旭川市史




                   **********




(その9 2022年11月11日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「命根性」 

今年、生誕100年を迎えた三浦綾子さんの自伝小説を読んでいて、久々にある言葉に出会いました。
「命根性が汚い」。
生への執着心が強いという意味ですね。
子供の頃、大人たちがしばしば口にしていました。
「あいつは本当に命根性が汚い」と罵ったり、「私は命根性が汚いから」と卑下したり。
ただ話をよく聞くと、その汚さは、健康のために人より少し多くお金や気を使うといった程度なのです。
それなのに大人たちは、非常な罪であるように断ずるのです。
綾子さんも、子供時代に死について深く考えたことだけを理由に、「自分は命根性の汚い人間だと思う」と書いています。
では、なぜ生に執着することがそんなにも良しとされなかったのか。
背景には「時代」があったのではないでしょうか。
私の親世代が生まれ育ったのは、今よりも人の命が軽かった時代です。
特に自然環境が厳しく、命を守る社会インフラも乏しかった北海道は、その傾向が顕著だったと思います。
「命根性が汚い」と戒める言葉の底には、困難に立ち向かう、時には死をも恐れない気概、覚悟のようなものを持つべきだ、という考えがあるような気がします。
実は、大人たちの言葉で「命根性が汚いのは恥」と意識付けられた私は、命根性が人一倍汚いにもかかわらず若い頃から不摂生を続けました。
その結果、いま多くの生活習慣病を抱えて病院通いをしています。
「口ではああ言ってるが、実はみんな命根性が汚いんだよ」。
あの頃、誰かが耳打ちをしてくれていたら。
そう思わずにいられません。
(旭川郷土史ライター&語り部)




                   **********




(その10 2022年12月21日付北海道新聞「朝の食卓」掲載)

「老いと向き合う」

かつて放送されたNHKのドキュメンタリーに、落語家の故立川談志師匠に密着した秀作があります。
その中に、師匠が畳の上で胎児のように体を丸め、頭を抱え込んでいるシーンがあります。
この時、師匠71歳。老いに伴う心身の衰えに、苦悩の余り悶絶しているのです。
最初に番組を見た時、私は50歳でした。
その時は、なぜそこまで師匠が苦しむのか理解できませんでした。
でも15年経った今は違います。
年をとりできない事が増えてくるのはつらいものです。
それまでの人生が、できない事をできるようにする、何かを獲得する、それと同じ意味だったからです。
それは師匠のような天才でなくとも同じです。
このような人の衰えを、かつて「老人力」と言う言葉で救おうとしたのが、やはり故人の赤瀬川原平氏です。
つまり、物忘れが増えるのも体力や判断力が弱まるのも、すべて「老人力が増したから」というわけです。
私はまだ氏のように老いを笑い飛ばす境地にはなっていません。
むしろ恐れがかなり勝っています。  
実は先日、図書館に行く途中、返す本を忘れたのに気付き、「まあいいや借りるだけでも」とそのまま向かったら、熟知しているはずの休館日だったという出来事がありました。
こうしたことはたまにあって、いつもなら半日は落ち込みます。
ただこの日は「何やってんだオレ」と一瞬は癇癪を起こしましたが、じきに落ち着く事ができました。
「まあこんなこともあるさ」というわけです。
これは果たして良い傾向なのか、否なのか。
考えましたが、結論は出ていません。
(旭川郷土史ライター&語り部)


 

画像15 赤瀬川原平著「老人力」








小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第十章・第十一章

2022-09-09 09:34:30 | 郷土史エピソード
<はじめに>


「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。
今回はいよいよ最終回、第十章と第十一章です。

この2章は、後日譚を含む物語のエピローグです。
このうち最終十一章の舞台は、石狩川と大雪山を望む景勝地、嵐山(あらしやま)です。
嵐山とその周辺は、アイヌ民族にとっての聖地です。
また旭川という街の成り立ちを考えますと、その開発に向けた構想が立ち上がった、まさに一歩目が刻まれた場所でもあります。
先人たちがそこから望んだ大雪の山々の姿は、百数十年経った今も変わっていません。
最終章は、そんな思いで書きました。

今回、初めて小説に挑戦しました。
脚本のときも登場人物の動きなどを頭の中で描きながら書くのですが、小説では、表情や声のトーンなど、その作業をより細かくする必要がありました(脚本では、そこは役者さんに委ねられます)。
同じく、シーンが展開する場所=建物や部屋の様子などもより詳細に思い浮かべ、言葉に置き換えなければなりません。
なので、書きながら、「役者」としてそれぞれの登場人物を演じ、さらに「演出家(舞台美術や音効も含め)」として、物語の世界を具体化するのが、小説の作業という印象を持ちました(特に、今回は脚本を元にした小説でしたので)。
芝居作りは共同作業の積み重ねですが、小説はすべてを一人で完結させる。
チャレンジしたおかげで、どちらの作業にもそれぞれの魅力があると感じることができました。

それでは今回も最後までお付き合いください。




               **********





第十章 昭和二年九月 カフェー・ヤマニ



 平原のまん中に
 洋燈(らんぷ)のやうに
 輝いている街
 光を増し、光を増し、
 延びに延び、ひろごり、
 高くその燈火(あかり)をかかげて、
 陽(ひ)の御座(みくら)を占める街、
 光栄の町、
 この町に祝福あれ!                       

               (百田宗治「旭川」)




 旭川一の繁華街、四条師団道路にあるカフェー・ヤマニ。いつもなら昼営業でもそれなりに客が来る日曜日だが、きょうは「本日、昼営業は貸し切り」と書かれた紙が表に貼られている。

 店内では、店主の速田と女給たちに加え、義雄、武志、東二が宴会の準備に追われている。カウンターの前には、いつものツーピースを着た文子がいて、ハツヨ、栄治の兄妹と談笑している。奥のテーブルでは、なぜか碁を打っている二人。どうやら北修に市太郎が付き合わされているらしい。そこに武志がやってきた。

「北修さん、碁なんてやってないで、こっち来てくださいよ。もうじき始まるんだから」
「おれ、今回何もやってないしよ。部外者だべ」

 北修が拗ねたようにそう言うと、後ろから義雄も声をかけた。

「何言ってんですか。きょうはハツヨちゃんと栄治さんの就職を祝う会なんですから。北修さんがこっちにこないと、神田館の大将だって」
「……そうか? 大将、行きます?」
「行こうよ。あっちの方が絶対いい」

 やはり早く切り上げたかったようだ。

「んー、じゃ行くか」

 二人がメインテーブルに来ると、飲み物などを運んでいた女給たちが歓声を上げた。

「キャー、神田館の大将と北修さんだー」
「キャー、スケベ―」

 賑やかな声を聞いて、他の出席者もメインテーブルの近くに集まってきた。その一人一人に飲み物が入ったグラスが回される。
 様子を見て口火を切ったのは進行役を勤める速田である。いつもはショーなどを行うミニステージに上がると、こほんと一つ咳払いをした。

「……はい、皆さんご準備はよろしいでしょうか? ……改めまして、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。きょうは、江上栄治君とハツヨさんの就職がめでたく決まったことを祝しての集いであります」
「もう結構前から働き始めてますけどね」

 武志が茶々を入れると、速田が引き取って続けた。

「そうなんだけど、ま、見習い期間が終わって、正式に採用されたってことなのさ。……では、佐野先生、乾杯のご発声を」

 江上兄妹の隣りにいた文子が、えー、私聞いてないと声を上げる。

「いや、だって二人の就職世話したの、先生じゃないですか」
「それは、そうだけど」
「みんな、のど渇いてるんで、ちゃっちゃとお願いします」

 速田がそう言って促すと、幾分照れながら文子がステージに上がった。手にはジュースのグラスを持っている。

「それではご指名いただきましたので、ひとことだけ。栄治君、ハツヨちゃん、就職おめでとう。いろいろあったけどって言いたいところだけど、きっとこれからも二人の前にはたくさんの壁が立ちふさがると思う。だからちょっとずつでもいいから強くなって。で、その分、ほかのみんなが困った時は、助けてあげて。それだけ。じゃ、みんないい? 二人の前途を祈って」

 文子がグラスを掲げて乾杯と声を上げると、皆が唱和した。
 集いが始まると、さっそく江上兄妹のところに祝福に行くもの、テーブルに置かれたオードブルに手を伸ばすものなどさまざまである。女給からビールをついでもらい上機嫌の北修と市太郎のところに速田がやってきた。

「北修さん。瓶ビールで大丈夫ですか? 生の方が良かったですか?」
「いやいや、昼間っから飲めるだけで十分十分」
「……でも早いですね。あの騒動からもう三か月」

 自分も女給にビールをついでもらいながら速田が振り返る。

「そういや、極粋会と黒色の手打ちはここでやったんだって?」

 グラスのビールを飲み干すと、北修が言った。

「はい、そのとおりです。極粋会から辻川会長が来て、警察署長さんが仲介役で。黒色の方は、小樽から幹部が」
「小樽? なんで?」
「梅原があれ以来いなくなっちまったからですよ。奴さん、東京に戻ったようです」
「片岡は懲役三年だそうだね。その程度だったんだ」

 尋ねたのは市太郎である。

「はい。会長に付き添われて自首しましたし、栄治君も思ったより軽いけがで済みましたしね」
「……それはそうとよ。俺はまだ事情を呑み込めてないんだが、あの晩、東二はなんで事務所に行ったんだ? 関わりたくないって言ってたろ」

 ああそれはと速田が言いかけた時、三人の後ろにいた文子が話し始めた。横には東二もいる。

「それはね。私が頼んだのよ。東二はね、前から私の所に来ていたの。小学校出てからずっと働いてるんで、勉強したいって。ただこの子も、いろんなことに手を出す割には、腰が据わらなくてね。なんか人生相談みたいになってたの。だからまずは困ってる人のために動きなさいって。そしたら手助けしてくれたのよ。ね」

 言われた本人は、しきりに頭をかいている。

「……いや、まあ、そういうことかな」
「なんだ、やるときゃ、やるんだな、お前もよ」

 そう言って東二の脇を肘でつつくと、北修はテーブルの向こうにいた武志と義雄を指差した。

「でもあいつらとおんなじで、腰はすわってないとよ」
「えー、なにそれ。待ってくださいよ」

 武志がそう言うと、東二が下を見てくくっと笑った。

「あ、そういう態度が癇に障るんだよ。お前、俺らよりいっこ下なんだからさ」
「まあ悩み多き若者たちよ。しょっちゅう喧嘩をしている小熊と俺も、友達ちゃあ、友達だしな」
「そういや小熊さん、東京どうなんですかね?」

 速田にビールを勧めながら義雄が尋ねた。

「うーん、旭川を発ったのが、騒動の直後だからなあ。北修さんには便りはないの?」
「来ないことはないが……。ここにいない奴の事、話したって仕方ねえべ。それより主賓の話しようぜ。ねえ神田館の大将」
「そうだよね。わたしも聞きたいのよ。どこで働いているかとかさ」
「あー、私もそろそろと思ってました」

 速田はそう言うと、グラスを置いて再びステージに上がった。あちこちで談笑していた皆が気づいて視線を向ける。

「皆さん、それではここで、主賓である栄治君とハツヨさんからご挨拶をいただきたいと思います」

 え、俺らですかと戸惑う二人を、速田が促す。

「その通り。さ、こっちへ」

 栄治とハツヨの兄妹は、一連の騒動のあと、市内の借家で暮らしている。もちろん母親も一緒である。きょうはハツヨが青い縞のワンピース、栄治がグレーの背広姿。ともに新調したばかりだ。

 拍手に迎えられてステージに上った二人は、どちらから話すか迷ったが、まずハツヨが前に出てお辞儀をした。

「……皆さん、その節は本当にお世話になりました。……お話があったように、私は佐野先生の紹介で、洋服を扱う商社で働いています。まだ何もできませんが、そこで頑張って、いつか皆さんに恩返しができるようになりたいと思っています。なので、これからもよろしくお願いします」

 もう一度お辞儀をすると、大きな拍手が贈られた。

「じゃ。兄さん」

 落ち着いて挨拶したハツヨに比べ、栄治は傍目から見ても分かるほど緊張している。前に出たものの、なかなか話が始まらず、皆、ハラハラしながら見守っている。頑張れと声をかけられて、ようやく言葉が出た。

「……えーと、あの、俺も、あの佐野先生の紹介で、今、造り酒屋で働いてます。……それと、久しぶりに妹と暮らせて、お袋が喜んでるんです。……あの、俺も恩返しできるように頑張って、いつかは杜氏になりたいと思ってます。なので、これからもよろしくお願いします」

 二人が深々とお辞儀するといっそう大きな拍手が湧き上がった。その中にひときわ大きい北修のどら声が響く。

「よし! 二人とも良く言った! ……あれ、大将、泣いちゃってるよ」
「……だってさ。……年取ると、涙もろくなっちゃうんだよ」

 女給のなかにも、もらい泣きをしているものがいる。

「だから、しめっぽいのは止めようぜ。そうだ。お前ら、得意な奴あんだろ。あの歌、ヤマニのテーマ。やってくれよ」

 北修の言葉に、文子がすぐ反応した。

「え、それ私知らない。やってよ、聴きたい」

 女給たちは、顔を見合わせている。

「そうですか? やる?」
「いいじゃない。やろうよ」

 話が決まると、やはりショーの監督である速田が前に出てきて、指示を出す。

「じゃあ、みんなはステージに集まって。レコードはと、武志君、お願い」

 あっという間に準備が整った。

「それでは、ミュージック、スタート!」

 速田がそう告げると、女給たちが、リズム良く体を左右に振りながら歌い始めた。

  そこ行く兄さん いなせな兄さん
  素通りは許さないよ
  きれいな姉ちゃん 待っているよ
  お楽しみはこれからだ
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

 途中からは、その場にいた皆が声を合わせ始めた。中には肩を組んでいる者達もいる。

  2枚目兄さん こちらへどうぞ
  ビールにカクテル ウヰスキー
  素敵なステージ 楽しい会話
  コーヒーいっぱいでもかまわない
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はトチチリチン トチチリチン ツン
  歌はペロペロペン 歌はペロペロペン
  さァ ようこそヤマニへ

(原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)


 歌はなかなか終わりそうにない。






第十一章 昭和三年五月 嵐山(あらしやま)


  「銀の滴(しずく)降る降るまはりに、金の滴(しずく)
降る降るまはりに、」と云ふ歌を私は歌ひながら
流(ながれ)に沿って下り、人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になってゐて、昔のお金持が
今の貧乏人になってゐる様です。

                         (知里幸恵「アイヌ神謡集」より)




 
 北海道最大の盆地、上川盆地の南西の端は、大小様々な河川が石狩川にまとまり、遥か遠く海へと向かう出口に当たる場所である。

 その石狩川は盆地を出るとすぐ神居古潭(かむいこたん)の急峻な渓谷に差し掛かる。その手前には、北に嵐山丘陵、南に幌内(ほろない)山地の二つの山の連なりがある。川を神社の参道に見立てると、まるで狛犬のような鎮座ぶりだ。

 このうち北側、狛犬で言うと阿(あ)の位置にあるのが、丘陵の名前のもととなった嵐山である。標高は二百五十メートル余り。低山だが、カシワやカツラ、オニグルミやイチイなどの巨木が生い茂る森はうっそうとして深い。

 この盆地に長く暮らす上川アイヌは、この山を「チ・ノミ・シリ」、「我ら・祀(いの)る・山」と呼んできた。
 山は神々と人とをつなぐ聖地であり、それゆえこの地は彼らにとって「送り場」とされた。そこには、神の化身である動物の霊を神の国に送り出したあとの頭骨や、使えなくなった愛用の道具などが納められた。


 このアイヌの聖地を、参謀本部長を務める陸軍中将、小沢武雄(おざわたけお)が訪れたのは、明治二十一年の秋のことである。上川視察のため、札幌を発って石狩川を遡った小沢は、神居古潭の難所を越えると川の北側の山に登り、眼前に広がる景色に目を見張った。

「其の景観、西京(さいきょう)の嵐山(らんざん)に伯仲せり」

 嵐山の命名の由来である。

 小沢が京都の嵐山に比したその山中に、いま五人の若者がいる。先頭はアイヌの少年、東二、続いて栄治とハツヨの兄妹、義雄、少し遅れて武志。東二以外は手頃な太さの木の枝を杖代わりにしている。
 時折、チラチラと後ろを見ながら登っていた東二が足を止めた。

「武志さ、もう少し根性出したら」

「……おい、なんだよその言い方は。お前、俺らよりいっこ下だっていつも言ってんだろ」

 言い返しながら、息が切れかかっている。

「はー、しんどい」
「武志さん。しゃべりながら登ると余計きついわよ」

 ハツヨが吹き出すのをこらえながら言うと、義雄もちょっかいを出す。

「武志は普段から運動しなさすぎなんだよ。俺は頭脳派だとか言っちゃって。……でも東二はやっぱり山に入るといきいきするな」

 手ぬぐいで首のあたりを拭きながら同意したのは栄治である。

「まだ少し雪が残ってるってのに、ほっといたら、駆け上っていきそうな感じだもんな。……でも、やっぱり山は気持ちがいい」
「本当ね。たいへんだけど来てよかった」
「さ、あと少し」

 東二の声を合図に、五人は再び山道を登り始めた。

 この時期の嵐山は岩陰などを除けばほぼ雪も解けている。若葉を付け始めた樹々の間には、カタクリやエゾエンゴサクが咲き始めている。十五分ほど進んだところで、視界の開けた場所に出た。頂上付近では、この辺りが最も見晴らしが良いと東二が説明した。

 見ると、少し霞がかかっているが、眼前にはうねるように流れる石狩川があり、その先に旭川の街が広がっている。そしてさらにその向こうには、残雪をいただいた大雪山連峰の山々がそびえ立っている。

「……すごい。旭川の街が全部見えるのね」
「山が輝いているみたいだ。……そうか、こんなふうに見えるんだ」

 東二に促されて前に出たハツヨと栄治が感嘆の声を上げた。義雄と武志も魅了されている。

 しばらく噛みしめるように景色を眺めていたハツヨが、隣にいた義雄に顔を向けた。

「……義雄さんは、しばらくの見納めね」
「うん、そうだね」
「どうして師範学校やめて東京に行くことにしたの?」

 義雄はうーんと言って、少し考えると顔を上げた。

「……うまく言えないけど、そうするべきだって思ったんだ。向こうに行ってとりあえずは詩や小説を書く。たぶん大学への編入も認めてもらえると思うしね。……旭川は、ふるさとだけど、一度離れることが必要だって。で、武志に言ったら賛成してくれたんだ、なあ」
「うん、自分がそう思うんなら、いんじゃないって。けど俺は行かないよって。前だったら、東京かっこいいな、俺もって言い出したと思うんだけど。……ほら、俺、いっぱい挫折してるからさ。くじけそうな奴、励ましてやれるんじゃないかって。だから、このまま旭川で教師になろうって」
「……ということなんだわ。だからみんな、武志をよろしくね。誰かがネジ巻かないと、こいつ怠けるし」

 そう言って肩に手を置くと、武志が口を尖らせかけた。と、ハツヨがすぐに反応する。

「わかってます。頼まれないでも、怠けてたらお灸すえるから。ね、兄さん」
「うん。ハツヨはね、もともとものすごいおせっかい焼きなんだ。きっと、ちょくちょく様子を見に行くと思うよ」
「えー、ちょっとみんな勘弁してよ」

 そう言いながらも、武志はうれしそうだ。

 その四人のやり取りを、東二は少し離れたところで聞いている。義雄が声をかけた。

「で、東二はどうするの? 最近、顔を見ないって佐野先生が言ってたけど」
「ああ、今、木彫りの仕事でコタンにこもりっきりなんだ」

 家に作業場を設けて本格的に制作に取り組んでいるという。

「ということは、売れてるってことかい?」

 栄治が聞くと、白い歯を見せた。

「うん、まずまず評判がいいんで、仲間にもやり方を教えてるんだ。そしたら作りたいって奴が増えて。で、木彫りでみんなが飯食えるようになればいいなって」

 この熊の木彫りは、のちに北海道を代表する観光土産となり、アイヌの人々の貴重な収入源となる。

「そっか。私と兄さんは仕事があるし。じゃ、みんな進む道は決まったってわけね」

 ハツヨがそう言ったところで、武志が街の方向を指した。

「見ろよ。さっきより晴れてきた」

 目を向けると、先程までの霞は消え、太陽(ひ)の光に照らされて川面がキラキラと光っている。その様子に目を向けながら、義雄が武志に語りかけた。

「……この三年半、いろいろあったよな。美術展の手伝いがきっかけで、北修さんや小熊さん、東二と知り合ってさ。ヤマニにも行くようになって……」
「史さんや佐野先生と会って。アナキストと右翼の騒動に巻き込まれて。ハツヨちゃんと栄治さんにも会って……」
「本当にいろんなことがあって、その全部が混ざり合って……。自分はまだ何者なのかは分からないけど。そういうことがあったから、新しいところに飛び込んでゆく勇気を持てたのかのかもしれないなって……。そう思うんだよな」
「うん、そうかもな」

 その時、静かだった山に、聞き覚えのあるどら声が響いた。

「おお、いたいた、やっと追いついた」

 木立の中から現れたのは北修である。直ぐ後ろに、長身の北修をさらに上回る背丈の白人の少年。その少年はおかっぱ頭の女の子の手を引いている。

「え、北修さん、こんなところにどうしたんすか?」

 武志が目を丸くする。

「お前らが嵐山に行ったって聞いたから、追っかけたんだよ。あー、しんど」
「彼は?」
「あれ、知らないか? 八条通で喫茶店やってるスタルヒンの一人息子さ。俺、この子に絵教えてやってるのよ」

 紹介された青い瞳の少年は、小学校の制服を着ている。ただ丈はかなり短い。

「ヴィクトルです。十一歳です。日章小学校に通ってます」
「え、小学生! そんなに大きいのに?」

 ハツヨが口に手を当てた。

「はい。よくみんなに言われます」

 武志は少年の周りをぐるぐると回っている。

「すげえな。絵習ってるって言ってたけど、運動は?」
「はい、野球の投手やってます」

 と、横にいた少女が武志に向かって言った。

「あのね、おにいちゃん。あんまり人をジロジロ見るのは失礼なんだよ」
「あー、ごめんごめん。あんまりいい体なんでつい」

 武志は頭をかくと、尋ねた。

「この子は?」
「ああ、この子はな、綾子っていうんだ。嵐山に行くって言ったら、親から連れてってやってくれって言われてさ。ヴィクトルと交代でそこまでおんぶしてきたのよ」

 ハツヨは意志の強そうな面差しのその子を、ひと目見て気に入ったようだ。

「お嬢ちゃん、綾子ちゃんて言うの?」
「うん、綾子。堀田綾子」
「いくつ?」
「五歳」

 栄治もハツヨの隣にしゃがみこむ。

「綾子ちゃん、何をするのが好きなの?」
「ご本を読むことです」
「そうか。まだ小さいのにご本か。人にちゃんと意見するし、偉いね」

 少女がはにかみながらありがとうと言った時、北修がふところから一通の封書を出し、義雄に渡した。

「……おっと、これ、忘れるところだった。小熊から。お前に」
「え、小熊さん? 何ですか?」
「義雄が東京に出るって話聞いたみたいで、送って来たのさ。はなむけの詩だってよ。あいかわらず、やることが気障だな、あの菊頭はよ」
「ありがとうごいます。……ここで読んでもいいですか?」
「ああ、お前宛てなんだから、好きにしな」

 義雄が封を開けて読み始めると、武志ら四人が集まってきた。


             ***


 封書の中には、東京で待っている云々、と短く書かれた便箋が一枚と、原稿用紙三枚に渡って書かれた詩が入っていた。


  新しいものよ、
  あらゆる新しいものよ、
  正義のために生れた
  さまざまな形式を
  わたしは無条件に愛す、
  然も、君が青年としての
  情熱をもつて
  ふりまはす感情の武器であれば
  それが如何なるもので
  あらうとも私はそれを愛し、信頼す。
  私はおどろかない、
  君の顔に
  よし狡獪(こうかい)な表情が現れようとも
  私は悲しまない、
  君の行動に
  臆病さがあらうとも
  若し、それが君を守るものであるならば、
  ましてや君の若い厳粛さと
  青年の勇気は
  なんと新しい時代の
  蠱惑(こわく)的な美しさをもつて
  相手に肉迫してゐることだらう
  青年よ、
  我々は環視の只中にある、
  あらゆるものに見守られてゐる。
  熱心に祈りの叫びをあげなが
  ら現実のつらさに
  眼を掩(おお)つてゐる君の老いたる
              父や母にもー、
  吐息を立てゝゐる兄や妹にもー、
  これらの身近なものは君を守る
  だがとほくのものは
  ただおどおどとしてゐる許りだ。
  信じたらよい、
  君は夢の中の物語りをもー。
  君のみる夢のなんと喜びに
  みちた感動の彩りをもつものよ、
  我々は知ってゐる
  青年は青年の夢が
  どのやうな性質の
  ものであるかといふことを、
  ふるへよ、
  君の肉体を、
  護れ、
  君の感情を
  そして君は入つてゆけ
  もつとも旋律的な場所へ、
  老いたるものにとつては
  苦痛の世界であるが、
  我々青年にとつては
  感動の世界で、ある処へ。

     (小熊秀雄「青年の美しさ」)



 その詩は、長く義雄たちの宝物となった。 


                
           ***




(夢の続き、あるいはその後の物語・実在の人物その二) 



ヴィクトル・スタルヒン……

旭川中学に進み、野球部のエースとして活躍したが、昭和8年、父親が殺人事件を起こしたことが原因となり、中退して日米野球のため結成された職業野球団に加わる。その後、黎明期のプロ野球で活躍し、日本初の300勝投手となる。昭和32年、自動車事故を起こして死亡。まだ40歳の若さだった。


堀田綾子(三浦綾子)……

大成(たいせい)小学校から市立高等女学校に進み、小学校教員となる。戦後は、結核で長期療養を強いられる。同じクリスチャンの三浦光世(みうらみつよ)と結婚した綾子は、昭和39年、故郷旭川を舞台にした小説「氷点」が懸賞小説公募に入選、ベストセラー作家となる。その後も、平成11年に77歳で亡くなるまで、数々の名作を発表し続けた。


町井八郎……

昭和4年、北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうちたけお)とともに発案した第1回慰霊音楽大行進を実現させる。これを契機に旭川吹奏楽連盟を創設し、理事長に就任する。こうした活動から「旭川音楽界の父」と称された。昭和51年、76歳で死去。


田上義也……

札幌を拠点に活動を続け、独自の美意識に基づく多彩な住宅、店舗、公共施設を道内各地で設計した。音楽分野では、バイオリニストとして、ピアノとチェロとのアンサンブル、北光(ほっこう)トリオで活動したほか、昭和12年には札幌新交響楽団を創設し、初代指揮者を務めた。平成3年、92歳で没した。


竹内武雄……

昭和4年、町井八郎(まちいはちろう)とともに第1回慰霊音楽大行進の実現に尽力する。昭和7年から旭川市選出の道議会議員を1期務めたあと、富良野市に転出。富良野時代には、長年、国鉄富良野駅で自ら考案したまんじゅうの立ち売りを行い、「元道議さんのまんじゅう売り」として人気を集めた。


加藤顕清……

精力的に創作を続け、帝展や日展などに作品を発表する。戦後は日本彫塑会会長に就任するなど、日本の彫刻界を代表する存在となる。生涯に渡って北海道、旭川とのつながりは深く、昭和初期には熊の木彫りを学ぶアイヌの若者の指導に当たった。昭和41年、71歳で死去。


鈴木政輝……

9年間に及ぶ東京生活を打ち切って帰郷した政輝は、昭和9年に旭川で詩誌「國詩評林(こくしひょうりん)」を創刊する。さらに2年後には北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなる。その後は、文芸に加え、父母から受け継いだ茶華道の教授としても活躍した。昭和57年没、77歳だった。


今野大力……

東京では、プロレタリア文学運動に加わるとともに、左翼系文芸誌の編集に携わる。昭和7年、当局により検挙され、激しい拷問を受けて半年余りの療養を余儀なくされる。作家、壺井栄(つぼいさかえ)や宮本百合子(みやもとゆりこ)らの支援で回復したものの、再び結核のため病床につき、昭和10年に死去した。31歳だった。


小池栄寿……

長く教師を務めながら詩作を続ける。昭和38年、小熊秀雄らと交流した大正末から昭和初期にかけての日々を綴った手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。同手記は、郷土史の貴重な史料となっている。晩年は千葉県に住んだ。平成15年、97歳で死去。


酒井廣治……

歌人として活動のほか、北海道詩人協会の創設に参加するなど、幅広く旭川の文化活動の振興に努める。その一方で、昭和16年に旭川信用組合組合長、昭和26年に初代旭川信用金庫理事長に就任するなど、経済人としても地域を牽引した。昭和31年、61歳で死去。


佐藤市太郎……

経営した活動写真館は、最盛期の大正末には全道で10館以上を数える。しかしその後は押し寄せた不況の波や、相次ぐ経営館の火事が影響して事業は縮小を余儀なくされる。その一方、さまざまな社会事業に関わり、昭和17年の死去の直前まで市議会議員を務めるなど、地域の名士であり続けた。


佐野文子……

戦前は、廃娼運動に加え、苦学生への援助などの社会貢献を続ける。また国防婦人会旭川支部長としての精力的な活動により、軍の要請を受けて上京、東条首相の私邸で家庭教師を務める。戦後も、戦災孤児の救済などさまざまな社会活動に奉仕した。昭和53年、84歳で死去。


速田弘……

昭和8年、ヤマニの近くに、新機軸の店舗、パリジャンクラブを開店するが、戦時色が強まる中で経営は悪化。借金の返済に行き詰って自殺を企てる。一命を取り留めた速田は、旭川から姿を消すが、戦後、東京銀座で高級クラブの嚆矢「シローチェーン」を成功させ、実業家として華々しい復活を果たす。


高橋北修……

昭和6年、旭川の画家として初めて帝展に入選する。以来一貫して故郷で活動を続け、地元画壇を牽引した。大雪山を描いた油絵を数多く描き、「大雪山の北修」と呼ばれる。昭和37年、脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残ったが、左手に絵筆を持ちかえて創作を続けた。昭和53年、79歳で死去。


小熊秀雄……

上京後の小熊は、虐げられた人々への共感を表す長編詩などを精力的に発表する。昭和10年には、2冊の詩集を相次いで出版、詩人としての地位を確立する。しかし、プロレタリア文学運動に接近していた小熊は、戦時体制の強化に伴って次第に発表の場を失い、生活は困窮を極める。昭和15年、肺結核により39歳で死去した。




(夢の続き、あるいはその後の物語・架空の人物) 



片岡愛次郎……

模範囚であったため2年後に仮出所するも、生きる目標を失い、無益な日々を過ごす。そうしたなか、看護助手の女性と知り合い結婚。妻は片岡の内面を愛情で潤し、彼は劇的に生きる希望を蘇らせる。結婚後に勤めた老人福祉施設では、入居者や家族を献身的に支えた。昭和56年、80歳で死去。


梅原竜也……

常盤橋での乱闘事件により、特高警察に居所が知られた事から、旭川を脱出し、東京経由で関西方面に身を隠す。2年後、大阪に潜伏中、アジトを特高に急襲される。追い詰められた梅原は、アジト裏の川に飛び込んで逃亡を図るが、溺れて死亡。28年の生涯だった。


松井東二……

旭川のアイヌの間で盛んになった熊の木彫りは、その後の民族自立運動の資金源ともなった。戦後は、後進の指導に当たる一方、アートとしての木彫作品の制作にも幅を広げ、各地の公共モニュメントの作成にも携わった。昭和55年、70年の生涯を閉じた。


江上栄治……

造り酒屋で修業を積み将来を嘱望されたが、昭和13年、召集を受けて陸軍第七師団に入営する。翌年、勃発したノモンハン事件で現地に出動。ソビエト軍との交戦中、戦車による砲弾の直撃を受け死亡した。29歳の若さだった。


江上ハツヨ……

繊維商社で働いた後、独立し、旭川市内で洋品店を始める。戦時中は物資不足から苦しい経営を強いられるが、戦後、生活雑貨を扱う会社を立ち上げて成功。旭川を代表する女性経営者となる。一方、戦災孤児の兄妹を養子、養女とし、経営者からの引退後は彼らが事業を受け継いだ。平成6年、84歳で他界。


塚本武志……

師範学校卒業後、教師となり、旭川市内の小学校に勤める。多くの子供から慕われた武志は、25歳の時に同僚教師と結婚、しかしまもなく結核を発症し、入院生活に入る。手術を受けて、一時、職場復帰を果たしたが、再び病状が悪化。昭和15年に死去。31歳だった。


渡部義雄……

編入した大学を卒業後、東京の新聞社に勤め、戦時中は従軍記者も経験する。終戦後は軍国主義の強化に加担したとの思いから新聞社を退社。旭川に戻って市役所に勤めながら、詩や短歌、小説などの創作活動を続ける。昭和39年、旭川市立図書館長に就任。平成13年、91歳で死去した。




(終わり)





<注釈・第十章>


* 百田宗治・ももたそうじ
・ 「どこかで春が」などの同様で知られる大阪市出身の詩人、児童文学者。北海道への疎開経験がある他、一時、旭川の隣の愛別町安足間(あんたろま)に移住を決意するなど北海道と縁が深い。

* 旭川を発ったのが、騒動の直後
・ 実際の小熊の上京は、1928(昭和3)年6月のこと。




<注釈・第十一章>


* 嵐山
・ 旭川中心部から西に約5キロの景勝地。旭川八景の一つ。昭和40年には風致公園として整備され、野草園や遊歩道などがある。展望台からは夜景も楽しめる。

* 知里幸恵・ちりゆきえ
・ 登別生まれで、旭川に移り住んだ。1918(大正7)年、アイヌ語研究のために訪れた金田一京助(きんだいちきょうすけ)と出会い、民族に伝わる叙事詩、カムイユカラの日本語訳を始める。上京後、のちに「アイヌ神謡集」となる原稿を書き上げるが、持病の心臓病の悪化により19歳の若さで急逝した。


知里幸恵

* 「アイヌ神謡集」
・知里幸恵がまとめ、死の翌年発刊された。アイヌ語の原文(原音)をローマ字で表記、日本語訳をつけており、文字のないアイヌ語による文学をアイヌ民族自身が初めて紹介した画期的な業績と評価されている。

* 小沢武雄・おざわたけお
・ 元小倉藩藩士。明治になって陸軍に入り、1885(明治18)年、中将となる。陸軍士官学校長、参謀本部長などを歴任した。

* スタルヒン(ヴィクトル)
・ 帝政時代のロシアに生まれ、ロシア革命により国を追われ、両親とともに日本に亡命した白系ロシア人。旭川に来たのは1925(大正14)年、9歳のときだった。


ヴィクトル・スタルヒン

* 8条通で喫茶店
・ スタルヒン一家が8条通8丁目で経営していた喫茶「白(しろ)ロシア」のこと。この店について、新旭川市史は「1929(昭和4)年頃の開業であろう」としている。このため、実際にはこの時期には存在していない可能性が高い。


白ロシアの店内(昭和4年)

* 「この子に絵教えてやってるのよ」
・ 実際に北修は旭川時代のスタルヒンに絵を教えていた。スタルヒンが絵描きになりたいと言い出したときは、野球をやったほうが良いと諭したという。

* 日章(にっしょう)小学校
・ 1893(明治26)年、忠別小学校として開校した旭川で初の公立学校。漢字1字の学級名を伝統としていることでも知られる。


日章小学校(昭和2年)

* 堀田綾子・ほったあやこ
・ 堀田は、小説「氷点」で知られる旭川生まれの作家、三浦綾子の旧姓。

* (旧制)旭川中学
・ 現在の北海道立旭川東高等学校の前身。1903(明治36)年、北海道庁立上川中学校として創立。1915(大正4)年に旭川中学校と改称した。


旭川中学(昭和3年)

* 大成(たいせい)小学校
・ 1900(明治33)年に開校した旭川市中心部にあった小学校。

* (旭川)市立高等女学校
・ 1915(大正4)年の創設。名称は数回変更されているが、1951(昭和26)年に閉校した。


市立高等女学校(昭和8年)

* 三浦光世・みうらみつよ
・ 長く闘病生活を送った妻、綾子の作家活動を、口述筆記など献身的な姿勢で支えた。

* 「氷点」
・ 三浦綾子の出世作。1963(昭和38)年に朝日新聞社が公募した1000万円懸賞小説の入選作。新聞連載後に刊行され、ベストセラーとなった。映画のほか、数度に渡りテレビドラマ化されている。

* 旭川吹奏楽連盟
・ 町井八郎、竹内武雄らの尽力により、1929(昭和4)年6月、第1回慰霊音楽大行進が行われたのを契機に、同年発足した。全日本吹奏楽連盟の創設はその9年後であり、旭川の先駆性がわかる。

* 音楽大行進
・ 1929(昭和4)年に始まった音楽の街、旭川を代表するイベント。吹奏楽、マーチングバンドなど約4000人が参加し、全国屈指の規模を誇る。


第1回慰霊音楽大行進

* 北光(ほっこう)トリオ
・ 音楽家としても活躍した北海道建築の父、田上義也(たのうえよしや)が、大正から昭和にかけて参加していたバイオリン(田上)、チェロ、ピアノのアンサンブル。道内各地で演奏会を開き、旭川でも度々演奏している。

* 札幌新交響楽団
・ 戦前に、田上義也が中心となって設立したオーケストラ。

* 帝展(文展・日展)
・ 現在の日展(日本美術展覧会)につながる帝国美術院展主催の公募展。1907(明治40)年に始まった文展(文部省美術展覧会)のあとを受け、1919(大正8)年から毎年開かれた。

* 「國詩評林(こくしひょうりん)」
・ 故郷、旭川に戻った鈴木政輝が、1934(昭和9)年に創刊した詩誌。政輝が考案した「七行定形詩」という独自のスタイルの実験の場ともなった。

* 北海道詩人協会
・ かつての旭川は、北海道を代表する詩の街であった。1936(昭和11)年設立の北海道詩人協会は地元詩人を中心に旭川で発足している。協会は「北海道文学」と題した機関紙も発行していた。


北海道詩人協会総会(昭和11年)

* 壺井栄・つぼいさかえ
・ 香川県出身の小説家。夫はプロレタリア詩人の壺井繁治(つぼいしげじ)。代表作「二十四の瞳」は映画化され、ヒットした。

* 宮本百合子・みやもとゆりこ
・ 東京生まれの小説家、評論家。1932(昭和7)年、のちに日本共産党中央委員会幹部会委員長、議長となる宮本顕治(みやもとけんじ)と結婚。戦時中は執筆禁止や投獄などの弾圧を受けた。

* 「小熊秀雄との交友日記」
・ 大正末〜昭和初期の自身の日記を元に発表された手記。連日のように互いの家やカフェーなどに集まって芸術談義を繰り広げる当時の旭川の若き文化人の様子が詳述されている。

* 旭川信用金庫(旭川信用組合)
・ 凶作の影響により疲弊した地元商工業者の苦境打開を目的に、1914(大正3)年に発足した旭川信用組合が前身。1951(昭和26)年に信用金庫となった。


旭川信用組合(昭和2年)

* 国防婦人会
・ 正式には大日本国防婦人会。1932(昭和7)年に全国組織が発足し、出征兵士の慰問や家族の支援などを行った。白の割烹着にタスキ姿が会服。

* 東条首相
・ 太平洋戦争開戦時の首相の東条英機(とうじょうひでき)のこと。陸軍大将でもあり、当時は内相と陸相を兼ねた。

* パリジャンクラブ
・ カフェー・ヤマニの速田弘が4条通7丁目に開店した店舗。カフェー、レストラン、喫茶を合わせたような独自のコンセプトで、名建築家、田上義也による斬新なデザインが特徴だった。


パリジャンクラブ

* 特高警察
・ 特別高等警察の略。社会運動や思想活動の取締を目的に、戦前の警察組織に設けられた。

* ノモンハン事件
・ 1939(昭和14)年、旧満州とモンゴルの国境地帯で起きた日本軍とソ連軍との軍事衝突。機械化されたソ連軍の攻撃に、日本軍は大敗した。当時、満州派遣中だった旭川第七師団でも多くの死傷者が出た。

* 従軍記者
・ 軍隊について戦場に行き、戦況を報道する新聞社や放送局、雑誌などの記者のこと。