日々平穏 

日々の雑多な話題と管理人の趣味中心の見聞記を紹介

【伝承】富士「徐福」渡来伝説史跡探訪 2⃣

2021-10-23 | 縄文・古墳・遺跡・史跡
徐福一行が目指した蓬莱山は果たして日本の富士山だったのだろうか!?

 富士「徐福」渡来伝説史跡探訪のその2です。
本日まず初めに訪れたのは、河口湖畔北東から1.5キロほど行った場所に鎮座する河口浅間(あさま)神社です。他の浅間神社は“せんげん”と読ませるのに、ここでは“あさま”と読ませます。
浅間神社の多くは、祭神にコノハナサクヤヒメを祀っていますが、別名は浅間(あさま)の大神といいます。そもそも 富士山の噴火を鎮めるためにお祀りした神様ですから、本来はあさまと読むのが正しいはずなのですが、今は(せんげん)と読ませています。
静岡側の浅間大社があえて(せんげん)と読ませたのが広まったという説があるようですが 定かではない様です。

河口浅間神社大鳥居 富士周辺の浅間神社の大鳥居は、殆どが両部鳥居なのですがここでは、あえて明神鳥居なのも何か曰くありげです。
 ここの神社で特筆すべきものは、参道中央に鎮座している“波多志(はたし)神社”の存在です。

波多志神社 鳥居を潜りすぐ参道の中央に鎮座しています。嫌がおうにもまず初めにこちらを参拝する形となります。

祠の中には、石棒らしきものも。
 神社の案内によれば、波多志神社は「本社の創祀者である“伴直真貞公”の霊を祀る」とありますが、やはり神社名から“波多志=秦氏”を連想させ、秦氏一族を祀る神社であるものと思われます。
これを裏付ける記録として「甲斐国志」第七一巻神社部に次のような一文が書かれています。

秦大明神相伝秦徐福ヲ祭ルト云フ 因テ徐福ノ社トモ称ス…中略…至今子孫秦氏…中略…今川口、吉田両村神職ノ者トモニ秦氏ヲ称スル者多シ 蓋シ是徐福ガ子孫カ 但今改秦為羽田之二字
秦大明神は秦の徐福を祀ると言い伝えられる。よって徐福の社とも称す。今に至り子孫は秦氏称す。今川口、吉田両村の神職は秦氏を称するものが多い。思うにこれは徐福の子孫と言うことか。但し、今は秦を改め羽田の二字となる。

以上から「波多志神社=秦氏神社=徐福の子孫を祀る社」と、考えられます。
創祀者とその秦氏一族を祀る重要な社であるため参道中央に置いているのもこれで合点が行きます。


参道の両側には、樹齢1200年を超える杉並木
隋神門

河口浅間神社拝殿

本殿
祭祀:木花咲耶姫 命
由緒: 人皇第五十六代清和天皇の御宇、貞観(じょうがん)六年(八六四年)五月に富士山大噴火の火の事あり、富士山北面に在った大湖、剗ノ海(現:青木ヶ原流域)埋没す。この様な大噴火の為、時の住民は甚大な被害を被く。
此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観七年十二月月九日丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を弧の地に奉斎、擬の大領-無位伴直真貞公を祝に、同郡の人伴秋吉公を禰宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。」
これ当神社の御創祀である。
延喜の制により名神大社に列せられる。
河口浅間神社HPより)

由緒には触れられていませんが、富士山の大噴火で北麓側(甲斐国側)に甚大な被害が生じたのは、南麓側(駿河国側)の浅間神社が祭祀を怠ったためと朝廷に抗議を申し立て甲斐国側にも初めてここ河口浅間神社が創建されたとの逸話もあるようです。

さて、続いて訪れたのは徐福がこの地に移り住み晩年まで暮らしていたと伝わる山中湖湖畔長池地区です。
長池親水公園は、山中湖の北中央にあります。

今朝まで富士山の全容が綺麗に見えていたのですが(TOP写真)午後からはすっかり雲に隠れてしまいました。
長池親水公園は、山中湖畔の中でもベストビューポイント天気予報のライブカメラで有名です。
この地区に残る徐福伝承は、以下の通りです。

長池はその昔、長命村ともいい、秦の徐福が不老長生の薬草を求めてこの地に来たり、子孫が住み着いたという。また、徐福は始皇帝の三年六月二十目に中国を出発し、海上を漂うこと百日余り、紀伊国へ上陸し、造船、捕鯨その他当時の最新技術を教え広めたのち、不二蓬來山こそ目的の地であることを知り、海路をとって駿河湾島原に上陸した。こちらより引用)

また、ここでは偶然発見された三国志時代の将軍名と思われる「金印」が出土されています。大陸からのかかわりを裏付ける確たる証拠ともなっています。(写真出典:徐福王国相模(前田豊著)より)
こちらにあった「長池地区 デザインノート(PDF)」のマップを頼りに周辺を散策して見ることにしました。

 村の笠付き双体道祖神 宝暦11年8月(1761)かなり立派な道祖神です。
長池地区集落 かつて徐福もこの丘から富士山を眺めていたのでしょうか。
かつての羽田家の墓と思われる墓碑群 一族の祝神だと思われます。
無残にも破壊されていて残念です。合掌
最奥にあった山の神様
かやぶき屋根のお宅 後からこちらの情報によればこのお宅の敷地内にある屋敷神が「徐福の墓」ではないかとの事でした。
羽田姓が多いのもこの地区の特徴です。

 さて、最後は、お隣の平野地区にある老舗旅館「平野屋」さんに伝わる徐福伝承を確認しに行きました。(出所はこちら(PDF)
杉浦忠睦氏の資料によると山中湖村平野の平野屋の屋敷内には徐福を祀った魔王様神社が残されている。蚕が祀られている。この種の神社は、富士吉田市の明美、鳴沢村明 美、下吉田にもある。
 
旅館のご主人にお伺いしたのですが結局「わからない」との事でした。
若女将が言うには、以前お泊りになったお客様で、同じことを尋ねられたことがあったとお話されていました。敷地内には、屋敷神が祀られていましたが関連は無さそうです。
「魔王天」の名を持つ神社は、山梨県南都留郡鳴沢村にありますが関連性が気になるところです。

 以上、現在までに情報があった富士吉田市と河口湖~山中湖周辺に点在する徐福関連史跡を紹介して参りましたが続けて地方誌などの文献調査や地元情報など何か新しい事実があればまた追記する形でご報告していきたいと思っています。
【マップ】


最新の画像もっと見る

コメントを投稿