100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL92  明治の三陸の産業14「畜産4 乳牛②」 (九戸郡)

2015-08-19 16:00:10 | 明治の九戸郡(現久慈市他)

「三浦牧場」九戸郡葛巻村/現岩手郡葛巻町)

 

大規模多角経営「三浦農場」

 3葉とも三浦農場の写真です。先のVOL81の項でも紹介した蚕室や桑畑を持つ三浦農場と同じと思われます。養蚕以外にも酪農を手掛けるなど、当時の先進的な事業を大規模かつ多角的に経営されていた岩手県北の雄というべき機業であったことが伺い知れます。

「馬主牛従」から「牛主馬従」そして「馬無し」へ

 さて本写真帖には、当時の詳しい統計資料が付属しており、明治43年末の三陸沿岸の家畜は下表のとおりでした。別の資料によると、明治30年の岩手県全体で、馬は10万9千頭、牛2万2千頭とありますので、県全体に較べると牛の比率が高かったようです。また牛馬とも圧倒的に牝の割合が高く、仔を産ませては2歳位で競りに出したようです。

 

 前述のとおり、馬は軍用の以外にも、農耕あるいは運搬(木出し含む)と、現在のトラクターとトラックを兼ねた極めて有能な家畜で、それ故「曲り屋」で共に暮らし、飢饉のときでも最後まで手放さなかったのですが…、戦局が深まり軍の統制下で、馬は一切軍馬本位となり、扱いが難しい軍馬を養う資力のない零細農家は、無畜農家となり生活が困窮するようになったようです。そこで三陸沿岸の農家は馬より扱いやすい牛を導入し、馬主体から牛へと移行し、さらに戦後は軍用馬の需要はなくなり、さらに農業の機械化など農用馬は激減、いつしか近郷の農家に馬を姿を見かけることは無くなりました。


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