河合義一
大正七年(1918)の米騒動は、日本の労働運動に大きな影響をあたえました。
さらに、第一次世界大戦後、ロシア革命の思想的な影響もあって、多数の農民組合・労働組合が組織されました。
農村においては小作争議が年ごとに激増しました。
県下では、最初に「農民組合東播連合会」が結成され、河合義一は会長に選らばれました。
義一は、東京外語大学でフランス語を学び、卒業後は日本銀行に就職しましたが、まもなく発病(結核)し、神奈川県のサナトリウムで療養しました。
この不慮の発病が、彼(河合義一)のその後の進路を大きく変えました。
また、東京外語時代キリスト教徒であった彼は、本郷教会へよく通い、この本郷教会の持つ環境が、彼のその後の方向を決定的にしたともいえます。
本郷教会に集まった人々の中には、大正デモクラシーの指導的役割を果した吉野作造、社会主義者で、小説『火の柱』で有名な木下尚江、そして日本最初の労働組合「友愛会」の創始者、鈴木文治などがいました。
高砂に帰った義一は、一時療養のため瀬戸内海豊島(てしま)へ移りました。
そこで、地主の圧制に苦しむ小作の生活を知り、高砂へ帰った義一は、農民運動をはじめました。
これは、彼の足取りだけではなく、河合家に流れる義侠心がそうさせたように思えてなりません。
義一の祖父、義平の長男は、高砂を抜け新撰組の河合耆三郎です。幕末池田屋騒動でも活躍しています。(no5136)