ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

北条直正物語(10) 県令・森岡昌純

2020-07-09 10:25:56 |  北条直正物語

       地租改正

 現在、中学生がつかっている歴史教科書(大阪書籍)に、「地租改正」を次のように説明しています。

 「・・・政府は、まず土地を所有する権利を認めて、田畑の売買を自由にしました。

 次いで、1873(明治6)年から、全国の土地の面積やよしあしを調べ、土地の値段である地価を定めました。

 土地の所有者には地券をあたえ、土地の3%にあたる額を地租として、貨幣で納めさせることにしました。

 これにより、土地についての税金の負担と集め方は、全国一律となりました。

 これを地租改正といいます。・・・江戸時代の年貢の総量と同様になるように計算されており、全体として農民の負担は軽くなりませんでした」

 その後、各地で地租改正に反対する激しい運動がおこり、これに押された政府は明治10年に地租を地価の2.5%に切り下げています。

     県令・森岡昌純

 飾磨県令(知事のこと)は、森岡昌純(もりおかまさずみ)で、まさに官僚主義そのもののような人物でした。

 *明治9年、兵庫県・豊岡県・名東県そして飾磨県が合併して現在の兵庫県となりました。(飾磨県は、江戸時代の姫路藩を範囲としている)

 森岡は、県令になると、官吏が政治談議することを禁止し、自由民権運動を警察の力で弾圧しました。

 また、彼は徹底した新聞嫌いで、県庁への新聞記者の立ち入りを禁止し、教師や生徒が新聞を読むことを禁じたりしました。

 こんな森岡が兵庫県の地租改正の先頭にたって指導することになったのです。

 富国強兵を急ぐ新政府にはこんな人物が必要でした。

     県令の陣頭指揮

 さっそく、明治8年(1875)、地租改正の基礎となる地価を決める土地の測量に取りかかりました。

 測量の打ち合わせの会が行われました。この時、森岡みずから出むき意見を述べています。

 以下は『赤い土』からの転載です。

 「・・・この度の丈量にあたっては公正正確をむねとし、一日も、はよう完了してもらいたか。

いま、わが国は欧米列強の脅威のなかにあって、強か国ば急ぎつくらねばなりもうはん。

ところで、なんことしようにも、そいには財源が必要でごわす。

 地租改正は、今までの不公平な貢租を改めることにもなりごわすが、それより国の財政確立にありもす。

 今回の丈量がそのもととなることをよく承知して、急いでもらいたか・・・」

 森岡県令は、実行の人でした。厳しい地租改正が予想されました。(no5022)

 

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1 コメント

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北条直正物語(9) (渡辺 廣)
2020-07-31 16:52:19
郷土のお話、興味深く読ませて頂いております。
遺跡、道標等を現地へ行って確認するのも楽しいです。 ミスプリントを発見しました。
上記タイトル 4行目 
 1973(明治6)  1873 に訂正お願いします。

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