五ヶ井用水と西大寺技術集団(1)
五ケ井用水の成立は、室町時代(戦国時代)か?
気まぐれですが、ここで話題を「五ヶ井用水」に変えます。
五ヶ井用水の伝承はともかく歴史の古い用水です。
加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い用水です。
「五ヶ井用水」は、北条郷・加古之庄・岸南(雁南)之庄・長田之庄・今福之庄という五ヶ井郷(庄)の用水であるところから名づけられた名称です。
これらの名称からも推測できるが溝は古くからありました。
それでは、五ヶ井郷が一体の井組として成立したのはいつのことでしょう。
『加古川市歴史』は、郷村制の解体しきっていない時代、つまり室町時代(戦国時代)のことと考えられるとしています。
五ヵ井用水改修の土木技術
『加古川市史』は次のように説明しています。
加古川は大河であり、暴れ川でした。古代より幾度となく洪水を引きおこしています。
こんな大河の締め切り工事をし、洪水の時にも崩れない堤や樋門を築き、大川から安定して取水できるようになるのは、技術の進歩を待って後のことです。
すなわち、これらの土木技術の発達は戦国時代をまたねばなりません。
五ヶ井用水は多くの村々を貫く大きな用水です。
これらの用水を一体のものとして利用するには、利害の対立する地域全体を支配する領主の出現を待たなければなりません。
天正六年(1578)三木城は、秀吉軍に敗れました。秀吉は、土木技術の専門家でもあったのです。(no5100)
*図:五ヶ井用水路図『五ヶ井用水路図』(兵庫県五ヶ井土地改良区)より