後醍醐天皇、隠岐に流されるも
倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。
元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。
後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぶ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。
時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会でした。
隠岐は、かつての孤島ではありません。
情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。
後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによってなおも根強く倒幕運動は続けられていました。
後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのです。
詳細は省きますが、隠岐へ流されてから11ヶ月後のことでした。
元弘三年(1333)閏以月突如隠岐を脱出することに成功します。
文観、都に凱旋
元弘三年(1333)、伯耆(ほうき)の国で六波羅探題壊滅の連絡を受けた後醍醐天皇は、天皇の政治の復活を宣言し、京都へ向かいました。
護衛に当たったのは、伯書の国の名和長年(なわながとし)でした。
都へのルートは、討幕に大きな役割を果たした播磨(はりま)、摂津(せっつ)が選ばれました。
その道中で、赤松円心、楠木正成ら天皇のために戦った者たちが天皇を出迎え、天皇は彼等を従えて意気揚々と都に凱旋(がいせん)したのでした。
天皇による「新しい政治」(建武の新政)が始まります。
すぐに、文観も鬼ヶ島から京都に凱旋しました。(no5087)
*写真:隠岐の島の後醍醐天皇の行在所跡