〈 第1章 祖父・岸信介 〉・・ ( 衆議院の解散時期を逃したこと )
・岸は衆議院の解散・総選挙の好機を逃した。もはや岸は、新条約の成立に突き進むしかなかったのである。
こう言って松田氏は『岸信介証言録』から、岸氏の言葉を紹介します。
・実は、今でも残念なことの一つなんだけれども、新条約の調印直後に、衆議院を解散すべきであったと思うんです。
・選挙に勝つ自信はあった。選挙になれば、絶対勝つという確信を持っていました。選挙に勝利して議会に臨んだら、議会がいくら騒いだって、国民が新条約を支持しているではないかということになるんです。
・色々騒いでいる連中は、国民の騒ぎじゃなしに、ある一部のつくられた騒ぎだということが、いかにも明確になるんです。
・あの時解散をやっておけば、あんな騒動はなかったと思うんですよ。
昔も今も、国民に信を問う意味で、選挙には大きな力と役割があります。「ねこ庭」では普段GHQを酷評していますが、男女平等の普通選挙を実現した政策は素晴らしかったと評価せずにおれません。
参考までに、それ以前の日本の選挙権について紹介します。( ウイキペディア等を参照 )
・日本国籍を持ち、かつ内地に居住する満25才以上の全ての成年男子に付与
・但し満一年以上国税15円以上を納める者、所得税については満3年以上納めている者に付与
・成年女子には選挙権なし
成年年齢は20才と明治9年以来法律で定められているのに、選挙権に関しては25才以上でした。所得にも厳しい制限があり、国税庁のホームページで調べますと、明治時代の所得税の課税対象者は、今の貨幣価値で年収1,140万円以上の所得のある者に限られていたそうですから、私のような零細庶民には選挙権がなかったことになります。
それをGHQが20才以上の全国民に付与したのですから、彼らでなければ出来ない大改革だったと言えます。選挙は国民の信を問う重要な機会なので、岸氏が無念を語る気持が分かります。松田氏も、同じ感想を述べています。
・悔やんでも悔やみきれない、岸の心情がうかがえる。歴史にIF ( いふ ) はないが、この時解散しておれば60年安保の騒動が、あれほど盛り上がりを見せたかどうかは疑問だ。
ここからは「60年安保の騒動」までの経緯を、割愛しながら紹介します。
・昭和35 ( 1960 ) 年2月13日、国会は安保特別委員会を設置し審議に入るが、「相互防衛義務」、「事前協議」、「極東の範囲」などの議論で早くも紛糾する。
・反対勢力は、安保阻止国民会議が中心となり早くから条約阻止を叫んでいたが、これに加え「アイク訪日阻止」「岸内閣打倒」の闘争体制に入った。
・国会審議の時間が流れていくに従い、「アイク訪日」は否応なく岸の足枷になった。焦った岸は強硬手段に踏み出す。
・5月19日から20日未明にかけて、国会会期の50日間延長と新条約の強行採決という挙に出たのだった。
テレビと新聞がこの騒ぎをそのまま全国に伝え、日本中が岸氏の横暴を目にし反政府側に立ったと、これが高校生だった自分の記憶です。松田氏の説明通りの情景がよみがえります。
・19日午後10時半過ぎ、本会議開会のベルが鳴り、安保特別委員会で小沢委員長が、「休憩前に・・・委員会を開きます・・・」と宣言。
・と言っても小沢がマイクに向かったのが見えただけで、そのあとは自民党議員と委員長席に詰めかける社会党議員との間で、怒号と押し合いが続き騒然となった。
・質疑打ち切りの動議可決後、新安保条約、新行政協定、関連法案の採決を求める動議可決、さらにその採択が可決。
・この間、わずか三分だった。
委員会で「50日間の会期延長」と「新条約」が可決されると、残る手続きは国会での可決・承認になります。松田氏の、緊迫した状況説明が続きます。
・午後11時過ぎ、衆議院本会議場に入ろうとしても、騒ぎのため入れなかった清瀬一郎・衆議院議長は警官隊の導入を要請。500人の警官が、議長席前に座り込んだ社会党議員、秘書らを実力で排除した。
・5月19日の日付が変わるまで、残り10分ほどしかない。その時間内に、会期延長を決めなくてならなかった。午後11時49分、警官に守られて議場に入った清瀬は、本会議の開会を宣言。
・そして50日間の会期延長の動議を議決し、いったん散会した。
・しかし清瀬は、議長席に座ったままで動かなかった。院内の総裁室にいた岸はこの時こう漏らしている。
「清瀬議長が新安保条約の批准まで行うというのなら、それに越したことはないはずだ。」
・5月20日午前0時5分、清瀬議長は本会議を開会。新条約とそれに伴う関連法案を上程し、一括審議することとした。
・小沢・安保特別委員長の報告を求めた上で、野次と怒号の中、「起立多数」で一気に採択した。岸は気色満面だった。
社会党の議員たちに揉みくちゃにされながら、マイクを握っていた清瀬氏の姿が今も瞼に残っています。岸氏の強引な手法に抗議して、石橋湛山、三木武夫、松村謙三、河野一郎氏ら27人が欠席したそうですが、新安保条約は成立しました。
ここで終わるのでなく、有名な「60年安保騒動」はこれ以後の話です。息子たちには初めて聞く話になりますが、私には過去の記憶の再確認となります。興味のある方だけ、次回をご訪問ください。
いろいろ、話には聞いております。
岸信介首相は、新しい安保条約において、アメリカとの同盟関係の維持と
ともに、日本の独立をめざしておられたと思います。
ところで、当時、朝日新聞のトップであった、「笠信太郎」氏は、この安保条約には
賛成していたらしいですね。
マルキスト笠信太郎氏が安保条約に賛成 ?
そういうことがありましたか。
私には「天声人語」の担当者として、朝日の名前を高からしめた氏の方の記憶が強く残っています。新聞を手にしたら、まず最初に「天声人語」を読むというほど引かされていました。
人間の平等、世界の平和、貧困の撲滅と、どの話題も読者を引きつける文章の冴えがありました。
国民を弾圧する全体主義、独裁主義の共産党の支持者と知った時、衣の下の鎧を見た思いがし、以来朝日新聞と距離を置くようになりました。
赤旗と共に消えてほしい新聞の一つになりましたが、世の流れは不思議ですね。