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授業でいえない日本史 2話 古代 6世紀の日本

2020-07-27 07:00:00 | 旧日本史1 古代
【渡来人】 前回は、古墳時代というところで終わった。古墳時代です。5世紀、400年代。この時代には大陸から文化を持った人が、日本に渡ってくる。
こういう人を渡来人という。留学生じゃないんですよ。遊びじゃないです。そのまま日本に骨を埋めて、日本人になる。今でいうと、日本に来て、日本の戸籍を取って、死ぬときは日本人で死ぬような人、これが渡来人です。彼らが伝えたものが、今でも使っている漢字です。


【儒教伝来】 それから中国オリジナルの宗教は仏教じゃなかった。何だったんですか。世界史でもやりました。儒教です。6世紀初めに、百済から五経博士が来日します。五経とは、詩経、書経、易経、春秋、礼記という儒教が重視する経典のことです。
これは中国の孔子の教えです。子曰く、学びて思わざれば則ちくらしとか、義を見て為ざるは勇なきなりとか、そういう教えです。そういう儒教が伝わってくる。

この儒教の基本にあるのは「」の考え方です。親孝行の「孝」です。この親を大切にするという考え方を、生きている親だけではなく、死んだあとの親に対しても、維持し続けます。死者の霊を祭るのは、子孫の役目だとされたわけです。そうなるとこれは祖先崇拝の考え方になってくるわけです。この祖先崇拝は、古代社会では世界の多くの地域に見られるもので、各地に見られる巨石記念物はその現れだとされています。中国ではこの考え方を基本として、祖先崇拝が発達してくるわけです。しかも中国は、男性を中心に血筋を考える強力な父系の血縁制度が発達します。

余談ですが、中国はこの血縁組織が強力なため、一度生まれついた一族の名を、終生名乗り続けます。これは変えることのできないものです。女性も結婚しても姓を変えません。中国の夫婦別姓はこうやってできあがります。それは日本の家族とは非常に違った家族形態ですが、その夫婦別姓が、いま日本でいわれているような個人の選択の自由から生まれたことでないことだけは、確かなことです。

この父系の血縁制度は、母系が強かったかもしれない日本社会に変化を及ぼしていきます。このような変化は長い時間をかけて行われていきます。
日本の場合、王権が父系を中心とするか、母系を中心とするか、中国とは違った微妙な絡み合い方をしていきます。



【古墳時代の信仰】
【宗像大社】 古墳時代の生活に行きます。古墳時代の信仰としては、自然神の信仰、海そのもの、島そのものが、ご本尊になる。それが福岡県の宗像大社です。この沖津宮は、沖ノ島という玄界灘に浮かぶ無人の島です。ここは神の島で、女人禁制の島です。これは最近、世界遺産になりました。

【住吉大社】 それから、大阪、ここも海の神様を祭ります。住吉大社です。日本の神様は数限りなく分身の術を使うことができるから、日本全国に散らばって、この名前の神社はいっぱいある。海の神様とか、変ですか。ギリシャ神話で海の神様は何ですか。ポセイドンです。どこにでもあるわけです。

【伊勢神宮】 祖先神、天皇の祖先神を祭っている神社は、伊勢神宮です。三重県です。祭られているのは、天照大神、あまてらすおおみかみ、という女神様です。いまは読めない人が多いけど、こう読みます。これは天皇の祖先神で、皇祖神といいます。
日本には古くから祖先崇拝が根づいています。それがいつの頃から庶民に浸透するのかはよく分かりませんが、すくなくとも天皇家にはこのようなかたちで祖先崇拝の信仰が発生していたのです。大和の天皇家と、三重の伊勢神宮という、地域の違うものがなぜ結びついたのかはよく分かりません。しかし天皇家がこの神宮への信仰を絶やさず、現在に至っていることは確かです。

【出雲大社】 また古代王権の所在を連想させる神社が島根県にあります。進んでるのは、北部九州とか、裏日本の山陰なんです。朝鮮半島に近いからです。この時代の進んだ文化は、北とか、西からやって来ます。南とか、東からはやって来ません。太平洋側には文化は伝わってこない。太平洋は誰も渡ってこれないのです。
これが島根県の出雲大社です。大国主命、おおくにぬしのみこと、須佐之男命、すさのおのみこと、八岐大蛇、やまたのおろち、奇稲田姫、くしなだひめ、そういう神話の宝庫でもある。ここを舞台にしている。
日本神話では、須佐之男命は天照大神の弟です。暴れ者だったから、下界に落とされて、この近くを通りがかったところ、八岐大蛇という大蛇の生贄にされようとしている奇稲田姫に会い、八岐大蛇の退治に乗り出し、見事それを退治して奇稲田姫を嫁にもらいます。その八岐大蛇を退治するとき、大蛇の体の中から出てきた剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)といって、王権の象徴とされるものです。須佐之男命はそれをもってこの地域を治めたという話です。この須佐之男命の子孫が大国主命です。出雲大社に祭られているのはこの大国主命です。このようなかたちで、地方の王権と、中央の王権が、結びつけられていくわけです。
古代の出雲大社は、現代の社殿の2倍ほど高く50メーター近くあったといいます。驚異的な古代の高層建築です。巨大な地方王権の姿を想像できます。
神社は高いほうが好まれたらしく、それはたぶん神様が高い所から降りてくるイメージからなのでしょうが、日本神話にも神様は高天原から下界に降りてくるものとして描かれています。それは天空に届くようなピラミッドを造った古代エジプト人や、高いジッグラトの上に神殿を造った古代メソポタミア人とも、共通しているように思います。このような高くて巨大な神殿建築は、古代マヤ文明やアステカ文明にも見られます。

またこの出雲大社の宮司である千家は代々受け継がれ、現在で85代目です。現在の天皇が、伝説上の初代神武天皇から数えて126代目ですから、家柄の古さとしては、天皇家に次ぐ家柄です。
この出雲大社の宮司家である千家は出雲国造(いずもこくそう)ともいわれ、古代の国造(くにのみやっこ)を受け継ぐものです。古代の地方王権が祭祀を兼ねる王権であったことをうかがい知ることができます。王権とは「政りごと」(まつりごと)をするものですが、それはまさに「祭りごと」をすることだったのです。

【祭り】 それから農耕儀礼としては、今でも春祭り、秋祭り、正式な祭りなんです。教科書的には、春祭りは祈年祭、としごいのまつり、どうぞ稲が実りますようにと。そして実ったら、それで終わりじゃ神様が腹を立てる。感謝のお祭りをする。秋祭りをする。これが新嘗祭、にいなめさい、という。神様の気持ちというのは、人間とほぼ一緒ですね。どこも。同じように喜び悲しみ、それが一番典型的なのは、ギリシャ神話です。あの神様はほとんど人間と変わらないです。日本の神様はもうちょっと上品ですけどね。

【盟神探湯】 それから裁判。悪い人間は熱湯に手を入れて、よけいただれる。盟神探湯、くがたち、という。これも宛て字です。この時代、ひらがながあるなんて、考えないでください。ひらがなはありません。中国語で、漢字で書くしかないわけです。日本語を。ひらがなはあと500年間ない。あとしばらくないと思ってください。奈良時代になっても、まだないです。さすがにこの盟神探湯は今は見られない。

【禊ぎ・払え】 しかしその次は、今でもやる。禊ぎ払えです。車を買ったら交通安全にお祓いに行きます。正月に禊ぎする人は今は少ないけれど、水が冷たいから、朝風呂に変わってます。正月に朝風呂というのは、あれは禊ぎの一種ですよ。本当は水ごりしないといけない。こういうふうにして、世の中、楽に楽にと、なっていくんですね。私も正月は近くの温泉の湯に浸かるのが、年の始まりです。



【6世紀 500年代】
【大和政権の政治機構】
【大王】
 では6世紀、今度は大和政権が成立して、領土拡大をして、大きな国になって、地方をどうやって治めていくか。または中央の豪族たちをどうやって治めていくか。その政治機構です。
あと100年経つと、中国式の官僚制、律令制というのが、中国を見習って入ってくるんだけれども、まだそこまで行ってない。自分たち独自で考えた政治組織です。
まず天皇という言い方は、まだないです。これは、大王と書いて、おおきみという。地方には、小国を治めるふつうの王がいて、その王よりもワンランク上だということを、どうやって言い表すか。この時には、大をつけた。大王、おおきみ、という。これがあと100年ぐらい経つと、天皇になっていくわけです。
それは、世界史でやったギリシャ・ローマ社会なんかは、選挙で王を選んだり、皇帝を選んだりする慣習があるけれども、これは世界の地域によって違う。日本はそうじゃない。世襲ですね。家柄で選ぶ。だから親から子、子から孫へと王権が伝わっていく。選挙ではなくて。

その大王も、もともとは大土地所有者であって、彼が直轄する土地のことを、屯倉と書いて、ここらへんは宛て字だから読めないですよ。みやけ、と言う。
読めないから、これ今、どう書くかというと、たまに人の名字で、三宅さんというのがある。これも知らない人は読めない。さんたくさん、とか。これは知ってたほうがいい。みやけさん、です。三宅さんというのは、もともとこの屯倉、みやけ、であったろうといわれます。


【中央豪族】 それから奈良県にいる、天皇の家来、中央豪族ですね。おもに役割が3つある。
1つ目は、戦さの時の軍事です。
2つ目は、政治にはお金がかかる。この時代にはまだお金はないけれども、米倉、財政です。財政で役に立つ。
3つ目は、この時代に大事なのは祭祀です。お祭りですよ。政治とお祭りの関係というのも、いま分からない人が多いですけれども、江戸時代まで政治のことを、政りごと、と呼んでいた。政りごと、これは何と読むか。まつりごとです。お祭りなんです、政治というのは。祭りとは、神様を祭ることなんです。そのことと政治というのはセットだった。古くなればなるほどそうです。この祭祀、これはなかなかバカにできない。結論をいうと、あと500年後の平安時代に生き残って、大豪族になっていくのは誰かというと、この祭祀を担当する一族です。この時代のメインはこの祭祀なんです。これは要注意です。バカにできない。

1つ目の、軍事は大伴氏です。それから物部氏もいます。

この大伴氏の伝説が残っているのを、聞いたことないですか。
九州の唐津の鏡山、あそこはひれ振りの峰といって、その鏡山にまつわる伝説というのを知ってますか。あそこに昔、松浦佐用姫さんという娘さんがいて、恋人が朝鮮半島に船を漕いで、渡って行った。それをいつまでも見送りたいから、ひれ振りの峰、今の鏡山に登って、その船を、ひれを振りながら、いつまでも、いつまでも、さようならと、ひれを振っていた。そこから、ひれ振りの峰という名前がついた、という話です。これが唐津に残る佐用姫伝説です。近くに大きな松浦佐用姫さんの像が、ゆっくり回っている道の駅がある。唐津の厳木の道の駅に。けっこう有名です。

遠つ人 松浦佐用姫 夫(つま)恋に 領巾(ひれ)振りしより 負へる山の名
(遠い昔の人 松浦佐用姫が 夫が恋しくて ひれを振ったから ついた山の名)
という歌が奈良時代の「万葉集」にあります。

何を言いたいかというと、松浦佐用姫という人は伝説ですけれども、見送られた色男の恋人、あれは歴史上の実在の人物で、大伴狭手彦、おおとものさでひこ、と言う。このヤマト政権の軍事担当豪族、大伴氏の一族です。
朝鮮半島と日本は非常に関係が深くて、そこに軍隊を引き連れて渡っていった。唐津はその前線基地になる。この唐津の軍事的重要性は、それから1000年後、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵するときも変わらない。秀吉は前線基地をどこに作ったか。これが唐津の肥前名護屋城です。昔は大きなお城だった。唐津からちょっと西の鎮西町にあります。
朝鮮半島にいくときには、唐津、福岡、そこらへんが前線基地、つまり拠点になるわけです。その大伴狭手彦は、実際に軍隊を率いて朝鮮半島まで渡って行った。それは事実です。それが形を変えて、唐津の松浦佐用姫の伝説になっている。大伴狭手彦というのは、このヤマト政権の軍事を担当する大伴氏なんです。

2つ目の財政担当、お金勘定担当、これは蘇我氏です。これもあとで出てきます。

3つ目の祭祀、神を祭ること、これは中臣氏という。結論をいうと、これが平安貴族最大の藤原氏になっていく。あとで名前を変えて藤原氏になる。


【地方豪族】 では地方豪族です。県知事さんのようなものです。県よりちょっと小さいんですけど。県知事クラスの地方豪族を、国造、と書いて、くにのみやっこ、と言う。ここらへんは全部、宛て字です。なぜ宛て字かというと、ひらがながないからです。だから国造と書くんです。くにのみやっこ、という日本語があって、それをひらがながないから、中国の文字で表そうとした。意味をとらえて、国を造る人、国を治めていい国を造っていく人、意味は分かっている。これを、くにのみやっこ、という。これが県知事レベルです。やっこ、というのは人のことです。やっこさん、という歌や、やっこ凧という凧もある。それに丁寧語の「み」がつく。「国の御人」ぐらいの意味でしょう。それを「国造」と書いた。ここには、たんに人を支配するという観念から抜け出て、「国」という観念があります。みんなが共に生きていく共同体の観念が発生しています。

それから市長レベルになると、県主、あがたぬし、と言う。県はあがたです。県は、都道府県の県ですけれども、県さん、あがたさんという名字もたまにある。そのあがたの中心人物を、県主、あがたぬし、という。地方豪族にこういうふうに官職を与えることによって、お前はオレの家来だ。家来になると、もし困ったことがあったらオレが助けてやるという、そういう保証が生まれるんです。
しかし、何かあったら、オレを支えろ、ということです。地方では、都の大王、おおきみ、さんと、オレは仲が良いんだと言うと、箔がつく。地方の小豪族に箔を与えて、その豪族にその地域を任せる。

これが200年後、8世紀の奈良時代になると、中央貴族を、地方の県知事クラスとして、新幹線もない時代に派遣していくようになる。これは国司と言われる。それまでは地方豪族がそのまま、くにのみやっこになっていた。それが国司制度になると、奈良県生まれの中央豪族の若い息子たちが国司になって地方を支配する。そういうふうに変わっていきます。


【大和政権の動揺】 6世紀になると、507年に意外な人物が天皇になります。大和の人ではありません。越の国というから遠い北陸地方から迎えられた天皇で継体天皇といいます。前世紀の天皇だとされる応神天皇の5代あとの子孫だとされています。5代も隔たっていると普通の家ではご先祖様もたどれないほど昔のことです。天皇の子孫は大和地方にもたくさんいただろうに、なぜこんな遠くから天皇を迎えなければならなかったのか、よく分かっていません。ただこの継体天皇は今までの天皇の系図とはまったく違った血筋の天皇ではないかとも言われます。となれば、ここで王朝が交代した可能性もあります。
この継体天皇を迎え入れたのが、軍事担当豪族の大伴金村だといわれています。しかしこの大伴金村は、朝鮮半島南部の加羅地方を百済に割譲したため、その責任を問われて失脚していきます。さっき言った大伴狭手彦はこの大伴金村の一族です。

これに対して、地方豪族のなかで不満を持つ者が現れた。不満を持つナンバーワンはどこか。やはり北部九州です。なぜか。奈良県にお株を奪われたから。もともと進んでいたのは九州なんです。なんで奈良県ばかりそんな偉そうにしているのか。オレたちだって、もともと先進地帯なんだ、と。実はこのころ九州北部にはヤマト政権とは違った別の王権が存続していたのではないか、という話もあります。

527年、ここらへんからは、具体的な年まで分かってきます。さっき言った筑紫の国造、これは福岡県です。福岡県の国造、具体的にどこかというと、福岡市じゃなくて、もうちょっと南の八女市あたりです。筑紫の国造の磐井という人です。ここには彼が死んだあとの有名な古墳もある。その乱を、磐井の乱といいます。福岡県の八女市には国道3号線沿いに磐井の古墳、墓といわれる岩戸山古墳がある。かなり立派な古墳です。
それまで先進地帯であった九州北部の地方豪族が、中央権力に反抗していく、ということです。

しかしこれは、物部氏に鎮圧されて滅んでいきます。これで奈良の中央権力は安定します。

記録にまったく現れない遺跡に神籠石(こうごいし)というのがあります。九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて発見されますが、山の中に山を取り囲むように石が並んでいるのです。最初は何だか分からずに、何かの神域だろうということで神籠石と呼ばれていましたが、だんだんと古代の山城跡だということが分かってきました。福岡県では、久留米の高良山、糸島の雷山、佐賀県では、佐賀の帯隈山(おぶくまやま)、武雄のおつぼ山などに見られます。これらの山城跡は、磐井の乱の頃のものではないかと言われています。そうだとすれば、この磐井の乱は、九州北部から瀬戸内海にかけてのかなり広範囲にわたる大規模な反乱だった可能性があります。

またさっき言った唐津の鏡山の佐用姫伝説というのは、この頃の話です。537年です。磐井の乱は528年に軍事担当の物部氏によって鎮圧されますが、そのあと、中央から送られてきた将軍が、同じ軍事担当の大伴狭手彦です。このときには複雑に、朝鮮半島の国が絡んでいて、筑紫の磐井は朝鮮の新羅と結んでいた。それで、朝鮮半島まで軍を出さないといけなくなったのが大伴狭手彦です。
これは事実ですが、松浦佐用姫の話は伝説です。なんだ伝説か、ではなくて、伝説は意外とバカにできない、ということを言いたいのですよ。
昔話と伝説の違いというのは、昔話は、いつ、どこで、誰が、これが分からない。桃太郎は、むかしむかし、これではいつかが分からない。あるところに、これでは場所が分からない。お爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんとお婆さんはどこにでも住んでいるわけです。分からない。
しかし伝説というと、文久三年、播磨の国の、寒い冬の夜のことであった、と時間と場所が分かる。そこに、清兵衛という貧しい農民が母親と一緒に暮らしていた、とかなんとか続くわけです。人物まで特定できる。これは伝説です。伝説は、すべて100%正しくはないけれども、かなり事実をくみ取っている。その上でアレンジしていく。そこらへんが伝説です。


【仏教伝来】 また6世紀には、朝鮮半島から新しい文化が伝わる。これが仏教です。仏教伝来です。仏教というのは日本古来の宗教だ、と今でも勘違いしている人が時々いますので、仏教はもともとはどこの宗教ですか。インドですよね。日本の宗教ではないと思っていたらいいほうで、中国の宗教だと答える人も多い。その前がある。インドです。
日本に伝わったのは仏教2種類のうちの北伝仏教といわれるもので、インドからここに伝わる。インドの北西部は中央アジアという。その砂漠を渡って、中国の西部の敦煌について、それが漢の時代の中国に入って、中国・朝鮮・日本とやってきたのが、日本の仏教です。外来宗教ですよ。お釈迦さまは本名は、ゴータマ・シッダールタという。これも世界史でいいましたね。




ではそれまで日本に土着の宗教はなかったのか。仏教はお寺ですよね、では土着宗教は何か、それが神社です。これは神道というんです。建物としてはのちに神社になります。
この二つはまったく違った別の宗教です。しかし日本人のおおらかさというか、よく神様と仏様をいっしょに拝む。それでいいことになってます。お寺は外来宗教で、神社は日本の土着宗教です。
だから、拝み方も違う。社の造りも違う。お寺は、今でも瓦葺きですよね。屋根は瓦です。神社にも決まりはないけれども、だいたいは檜の皮で葺くというのが由緒ある神社の姿です。拝み方も、仏教は静かに合掌です。でも神社では勢いよく柏手を打ちます。以前、お通夜の席で勢いよく柏手を打った女性がいたことを言いましたが、いくら知らなくても、あれだけはやっちゃいけないなあ。

日本人の今の葬り方、これは法律にまで明治以降、決まっているんだけれども、土葬はだめなんです。火葬です。この火葬というのは、もともと仏教の考え方です。
それまで日本はずっと土葬です。この近くにも、かなり最近まで、昭和の初めまで土葬の風習を守ってきた地域もあります。
土葬というのは、命の復活を信じる。そういったときに、命や魂が宿るときには、体がないといけないからです。これが徹底していくと、エジプトのミイラになる。ぜったい腐らないように、カラカラにしてでも、包帯巻いてでも、体だけは残す。あれは復活の思想ですよ。再生です。
でも仏教というのは、無になることを理想とします。ゼロを発見した国ですから。死んだら無になる。すべてなくなるのがいい。これが火葬です。

その仏教の伝来年ですが、国家に正式に伝わる前に、外国に詳しい人が仏教のこと知っていて、勝手に拝んでいた。これが私伝です。これは司馬達等という人です。この人が、早くから信仰していたという記録がある。


【公伝】 公伝というのは、古代では、天皇に伝わるというのが正式です。欽明天皇という人の時に伝えられた。誰からかというと、朝鮮半島の国、この時には百済、くだら、という国です。
百済も人の名前としてで、私は見たことがある。その人は、ひゃくさい、という名前だったですけど。その百済の王である聖明王から、日本の欽明天皇に伝えられた。

これが538年説です。佐用姫伝説で出てきた大伴狭手彦が朝鮮に渡って行った年が537年ですから、その翌年ですね。大伴狭手彦は新羅に圧迫されつつあった百済を救援するために朝鮮に渡って行ったと言われます。百済の聖明王としてはその返礼のつもりだったのかもしれません。
説だというのは、異説がもう一つあるからです。552年説というのがある。でも538年が有力です。それは年代を逆算できる記録が残ってるからです。これは聖徳太子という人の伝記を書いた上宮聖徳法王帝説という本に書いてあります。


【対立】 しかしこれが伝わったとき、外来宗教だから、反対する人もいた。これが廃仏派です。しかし外来宗教好きで、これは新しい宗教だといって、真っ先に飛びついた人もいる。
ここで2派に別れる。崇仏派つまり仏教賛成派と、廃仏派つまり仏教反対派です。
仏教賛成派が蘇我稲目、そがのいなめ、です。この人は、朝鮮半島から日本に来た渡来人と仲がよかった。もともとご先祖は渡来人ではないかと言われる。だから仏教好きだった。
それに対して、神社が好きで、神様が好きで、それを一生懸命拝んでいた人は、新しい仏教に対して、こんなものはイヤだと言った。これが物部尾輿、もののべおこし、です。結論いうと、のち仏教好きな蘇我氏が勝つんです。物部氏を攻めて潰すんです。
これはいま日本が仏教を信仰していることを考えただけでも、予測はつきます。ここで仏教派が負けていたら、日本に仏教は根づいていないかもしれません。

ここからインド宗教である仏教が日本に根づいていきます。しかし、だからといってそれまでの伝統的な神道がなくなったわけではありません。このあとは神道と仏教の二本立てで信仰生活が維持されます。ここがヨーロッパ社会と違うところです。ヨーロッパでは、世界史でも言ったように、キリスト教が国教になったあとは、他の宗教はすべて邪教として弾圧されます。一つの宗教が正しいとすると、それ以外の宗教は間違っていることになる、キリスト教のような一神教ではそうなります。しかし仏教や神道は多神教です。多くの神様が、それぞれに正しいことを言っていい社会です。キリスト教社会が、異教をどうやって弾圧するかを考えたのに対し、日本は神道と仏教という二つの異なった宗教をいかに矛盾なく融合させるかを考えていきます。
この違いは非常に大きな文化の違いを生んでいきます。

蘇我稲目が勝ったのです。蘇我氏は勝って政権中枢を握ったんです。それが7世紀、600年代初めの聖徳太子の政治に結びついていきます。聖徳太子は、生きている時には、こういう名前じゃなかった、厩戸王、うまやどのおう、という。天皇の息子ではあるんだけれども、天皇にはならなかった人です。まだ若い、18才ぐらいです。
それと、もう中年にさしかかった、老獪な政治術をもつ蘇我馬子がペアになって政治を行う。蘇我馬子は蘇我稲目の息子です。この馬子が、反対派の物部氏を潰して、政権の中枢で活躍する。それが蘇我馬子です。

その聖徳太子の政治、聖徳太子は何を行ったかというと、やっぱり新しもの好き、外来の文化が好き、中国が確かに文化は進んでいる。欲しい、欲しい、取り入れよう、わざわざ船を出して、命の危険があってもそこに使いをだす。これが遣隋使です。中国の国の名前は、隋です。
終わります。


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