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授業でいえない日本史 10話 中世 鎌倉幕府~御家人社会

2020-08-07 08:00:00 | 旧日本史2 中世
【鎌倉幕府の成立】
源義経は有名な割には、政治的な冴えがないです。喧嘩にはこういう人は、めっぽう強いかも知れないけど。
一方で、源頼朝は、源義経を全国に指名手配する中で、鎌倉幕府は着々と作られていく。
そして、源義経は姿を消して風の便りで、どうも奥州藤原氏のもとにかくまわれている。
いまでも犯罪者を自分の家に匿ったら、共犯が成立する。それと同じです。実際そこにかくまわれているんです。


【守護・地頭の設置】 そして直接攻める前に、いったん知らんふりする。どこにいるのか、わからない。本当は知ってるんですけど。九州にいるかも知れない、と警察署を置く。四国にいるかも知れない。あっちこっちに警察署をおく。何のための警察署か。源義経を捕まえるための警察署です。そしてこの警察署が、義経を討ち取った後も、このあと200年続くんです。政治のやることは、最初の目的を達しても、一度設置された政治組織は撤回しない。そのまま残っていく。米軍基地もそうです。わけの分からないうちに、一度置いたら撤去しない。何十年経とうと。これが守護、地頭です。1185年です。

これは泥棒を捕まえる警察署と思ってください。県庁ではないです。市役所ではないです。最初はあくまでも警察署です。源義経追討を名目に置いたんです。義経を見つけるため、本当は半分は分かってます。奥州藤原氏にいるということを。でも知らんフリです。
のちにこれが鎌倉幕府の地方組織になっていきます。実質、幕府は全国組織としてここで成立した。始まりは1180年の侍所です。組織が完成したのは実はこの1185年です。組織はここで出来上がっている。

頼朝は1185年11月に守護・地頭を設置します。この1185年というのは、平氏が壇ノ浦で滅亡した年です。それが3月です。
義経が、奥州藤原氏のものにいるんじゃないかなというのは、気づいていても知らんふりする。それで全国に指名手配して、警察署を置く。これが守護・地頭の設置です。その理由は、源義経を追討するためです。追討というのは捜し出して、捕らえるためということです。
実は鎌倉では1180年にすでに組織化が始まっていた。侍を組織化する侍所です。しかしそれはまだ地方政権であった。1185年の守護・地頭の設置に寄って、全国に警察署を設置した。これで全国政権になります。実質上、幕府はこの1185年に成立してるんだということです。

そしてこれを設置した後に、源義経は奥州藤原氏にいた、ということになります。そしたら、おまえは源義経を匿ったということで、奥州藤原氏を攻めて滅ぼす。これが1189年、奥州藤原氏滅亡です。これで全国統一です。理屈上、義経はこの時死んだんだから、守護・地頭は取りやめなければならないはずなのに、取りやめません。そのままずっと設置したまま、鎌倉幕府の地方組織になっていきます。この時は、守護というのは警察署と思ってください。しかし、このあと百数十年の間に警察署だけでは済まない。税金を取るようになる。年貢も取り出すようになる。こうやって地方支配を強めていく。

では俗に鎌倉幕府成立の年だといわれる1192年というのは何か。オレは幕府は認めないと頑張っていた後白河法皇、この京都のドンが死ぬですよ。死んで手薄になったところで、源頼朝は、朝廷という天皇の組織に対して、俺にこの官職をくれと要求してもらったのが、征夷大将軍なんです。これが俗に幕府の将軍さまといわれるものの正体なんです。このあと幕府は、室町幕府、それから江戸幕府へと移っていきますが、その将軍がもらうのはぜんぶこの征夷大将軍です。これを俗に将軍、将軍といってる。

ここで注意は、征夷大将軍は天皇からもらった官職だ、ということです。ここで鎌倉幕府が成立すると、頭のなかで天皇一族を滅ぼしてしまう人がいる。でもそんなこと一言も言ってないです。
天皇の政治組織はちゃんとあります。それどころか征夷大将軍はその天皇から任命されたんです。家来として。その任命した天皇はというと、この時は後鳥羽天皇という。この人はまたあとで出てきます。
鎌倉幕府の将軍とは、京都の天皇から見ると、天皇の家来だということです。歴史をたどれば征夷大将軍に初めてなったのは、平安時代の坂上田村麻呂という人です。この人は、天皇の家来として、東北の蝦夷討伐をしているだけです。べつに幕府を成立させてないです。

幕府ができるのは、ここからです。この官職によって武家政権をつくっていく。どういうことか。関東の武士たちにとっては、国司よりも人気がある。武士の総大将としての象徴的な意味がある。
これを下の三角形で書くと、こうなります。



上の三角形が公家社会です。公家というのは貴族のことです。これはもう何百年も前からある。大和政権の時代からあります。そのトップが天皇です。そしてその天皇は滅んでいない。
源頼朝が任命された征夷大将軍はここです。これが俗に将軍という。正式名称でいうと征夷大将軍という公家社会の中の一官職です。下の三角形が武家社会です。こういうふうになっている。

それぞれの三角形の地域はというと、公家社会の中心は京都です。京都から西が天皇の勢力が強いところです。逆に将軍の本拠の鎌倉は東京の近く今の神奈川県にある。だから武家社会は日本の東半分で勢力が強い。こういう構造だということです。
鎌倉幕府というのは、天皇の家来として、このような二重三角形構造のなかにある。これが日本の政治のちょっと複雑なところです。

ここらへんは中学校で歴史をやるときにはあえて触れない。中学生には理解するのはちょっと無理だろうから。でも高校生なら理解できるはずだということになっています。かなり偏差値は高いと思うけど。実質的にはこういう上下関係のもとで、東と西が分けられています。だから鎌倉時代のことは公武二重政権という。
公武の公は、公家社会の公です。公武の武は、武家社会の武です。貴族と武士が、日本を分け合っている、しかも縦につながる二重構造で。公武の公は、朝廷中心で西日本中心。公武の武は、幕府中心で東日本中心です。

このようなちょっと複雑な構造が日本の中世社会です。鎌倉時代は中世といいます。平安時代は古代といっていた。ここでのポイントは、征夷大将軍は天皇の家臣の立場で、武家社会を統一したということです。だから自分ではなれないんです。天皇から任命されないと。
任命される人と任命する人はどっちが偉いんですか。任命するほうが偉いんですね。天皇と将軍は相互に緊張をはらみながら、どちらもそのことをよく理解しています。絶妙なバランスの上に、日本の中世社会は成立します。本当は戦って勝った負けたで説明した方が簡単です。日本はそうはならない。政治のあり方の偏差値としてはかなり高いです。こういうところが歴史を暗記物ととらえている人には、理解できないところです。だから日本の高校生の半分は、このことをうまく理解できていないんじゃないかな。


【組織】 ではその組織です。これで成立ていく鎌倉幕府の組織、鎌倉には重要な役職が3つある。

最初にできたのは、侍所という。ここの長官になったのは関東の荒くれ武士出身の和田義盛です。これは荒々しい気性をもつ武士たちをまとめないといけない。

政治である以上は、定時的な事務もしていかないといけない。これが公文所です。のちに公文所では意味がわからないということで名前を変えて、政所(まんどころ)という。この政所の長官になるのが、大江広元です。幕府の家来だから武士なのかというと、この人は京の貴族出身です。幕府の長官に貴族が入っている。というのは、武士は荒くれ男で、まだ字が書けない。喧嘩には強くても、刀と弓には強くても、事務的な作業に向かないから、貴族からスカウトする。こういうところにも朝廷の下部組織としての鎌倉幕府の性格が表れてますね。

それから、三つ目が問注所という。これは裁判です。この長官には三善康信がなる。この人も京の貴族出身です。
こういうのが、幕府の三大組織です。


【鎌倉の地図】 この図が鎌倉の町の様子です。下に縮尺があって、これが1キロだから、行ってみると思ったより狭いです。鎌倉の中心はもともとここらへんです。山に囲まれています。東も北も西も、ぜんぶ山です。これがよかったんです。攻められないから。攻めるとすると、南の海から来るしかない。ここの海は、サザンオールスターズの湘南の海です。




鎌倉幕府の役所の場所は途中で変わるんですけど、もともと鶴岡八幡宮の東あたりにあった。鶴ヶ岡八幡宮は武門の神様で、源氏の守り神です。この神社を中心に、鎌倉は整理されていきます。
そのまん中に、この時代からある大きな道が通っている。神社に向かった参道がつっきって、その突き当たりにあるのが鶴岡八幡宮です。この神社が、幕府よりも古くからこの地にあったのです。政治はやはり「まつりごと」ですね。鎌倉幕府も、神様を祭ることから始まっています。幕府は最初この東側にあって、今は残っていません。江戸幕府のような、お城をつくったりは、まだしませんから。



【土地支配】 
ではその地方支配がどうなるかというと、これがもっと難しいんですよね。
いま公武二重政権といいました。この公武ですよ。本当は、この左2つの公武だけで、十分難しいんだけれど、正確にいうとあと1つある。合わせて3つある。非常に複雑な社会になるんです。




もともとあったのは一番左側の天皇ですよ。少なくとも表面的には。天皇のもとに地方には国司、その下には市長みたいな郷司というのがある。天皇の力が強い地域は。九州などはこれです。
しかし関東には鎌倉幕府ができて、トップに将軍がいる。まん中の列です。そしてその第1の子分に守護、さらにその下に地頭がいた。
では一番右は何かというと、それ以前からあった荘園です。例えば都のナンバーワン貴族であったのは何氏だったですか。京都ナンバーワン貴族というと。藤原氏というのがあった。藤原氏は滅亡していない。まだまだ元気いっぱいです。ただピークを過ぎただけで、厳然としてあるわけです。そういうナンバーワン貴族は、地方から土地が集まってきて、自分で管理してるんです。これがバカにできないほど大きいんです。これが荘園系列です。そういう三本柱がある。

これを特に地方での年貢との関係でいいます。

まず将軍は、自分の土地の管理を任せている地頭から年貢をもらう。そして地頭の土地を、誰かが横取りしようとすれば、保護してやるんです。
その代わり、将軍がいざイクサをするというときに、腹が痛いとかなんとか言ったら、もうそこで首です。もうおまえの顔も見たくない、どこか行け、と。イクサの時は何をさておいても駆けつけること、これが軍役です。いざ鎌倉という言葉があるのは、これです。いざという時に、頭が痛かったらダメ、腹が痛かったらダメ、何をさておいても飛んでくる。
将軍はこういう土地をもっている。これが幕府の一番の収入源です。これを関東御領という。関東を中心に将軍は土地を持っている。

では天皇方は、天皇方の土地を、国有地を管理してるのは国司です。この国司の下にいる郷司は、横目つかいながら、国司は落ち目やなあ、オレも鎌倉の将軍の家来になりたいなぁ、と思う。そして、どうぞ家来にしてください、戦さがあったときには来ますから、といって、将軍との繋がりを深めてくる。このラインが出てくる。

一番右は、都の藤原氏の土地です。藤原氏のような有力貴族を荘園領主という。そして、ここを現地で管理している人は荘官という。彼らも、藤原氏も一時の勢いないなぁ、オレも源頼朝さんの家来になりたいなぁ、と思う。そして、このラインが出てくる。

すると将軍は、そうかそうか、オレの子分になるか、それならオレが地頭に任命してやる。そしておまえに警察権力を与えてやる。そうやって郷司や荘官は警察権力を手に入れていく。こうなるとこの三つ巴のなかは、非常に複雑な三角関係になる。
そのなかで、源頼朝の家来になりたがる人が増えてくる。源頼朝が一番人気なんです。



【武家社会】
【封建制度】
 武士の親分・子分関係を、主従関係といいますが、源頼朝の子分になるということは、鎌倉幕府の家来になるということと同じなんです。家来ことを御家人という。もともとは家人、家来という意味だった。しかし将軍の家来だったら、御という丁寧語がつく。それで御家人という。

そして将軍との間で、きずなを深めるんです。契約というほどドライではなくて、もうちょっと人間的な、オレはあなたのためだったら命だって惜しくない、あなたのためだったらやりますよ、あなたとの関係は特別だ、と。こういう非常に個人的な関係から深まっていくんです。


【御恩と奉公】 御家人は給料はもらいません。彼らは自分の先祖伝来の土地を守りたいだけです。半分は百姓です。しかし暇なときには刀の稽古をしていく。こういう人たちが、将軍の家来になる。この時代は、お巡りさんいないから、喧嘩に弱かったら自分の土地なんか分捕られるんですよ。隣の暴力的な親父から。こういうときに将軍は、困ったら俺に言ってこい、俺がおまえの土地を守ってやるから、と言う。これが御恩です。恩に丁寧語がついて御恩という。

このもらった御恩は、もらいっ放しにする人が最近増えているんですけれども、もらったらオレのものだと考える人が最近いるんです。これは歴史的にちがう。もらったものは一生の間に返すんですよ。そしてプラス・マイナスゼロにして死ぬのが、最も良い死に方なんです。今すぐ返せといわれると、金の貸し借りになるから、そうじゃない。恩はいずれ返さなければならない。もらった物はいずれ返さないといけない。お土産をもらったら、もらいっぱなしはいけない。もらったものは、必ず別の形でもいいから返す。

それが何かというと、将軍が戦うときには、まず何があっても駆けつける。これが奉公です。これを御恩と奉公の関係という。もらったら返す。ちゃんと返したから、次またもらえる、という関係です。初めは非常に私的なものですね。将軍さま、あなただから、と。しかしのちに、頼朝個人ではなくて、将軍というポストに対する忠誠になって続いていきます。


【御恩】 これをもうちょっと詳しく見ていくと、まず御恩。家来は将軍から、給料もらってるんじゃないですよ。家来は、基本は自分の土地をもつ百姓です。自分の土地を耕して農作業したり、自分の子分に農作業させたりしている土地経営者です。

【本領安堵】 ただ困ったことにこの時代には、隣村のある大百姓の親分が、おまえの土地はオレのモノするから、おまえはどこかに消えてしまえ、と脅したりする。そういった時には、将軍が、何をいっているか、オレの子分に何をするのか、この土地はオレの子分の土地だ、と言ってくれる。これを本領安堵という。本領というのは本来の家来の土地です。それを安堵というのは、お前のものだ、確かにお前のものだ、ということを将軍が保障してくれるということです。
何を言いたいか。脅されたら、相手と喧嘩してでも、戦さをしかけてでも敵は倒してやる。これが本領安堵の意味です。お前のものだ、と権力者が言った以上は、絶対保護してやる。通常は、武士は農業経営をしてるんだとこういうことです。

ちょっとはずれるけれども、一所懸命という言葉があるけれども、今は一生懸命と書いても間違いじゃない。しかし歴史的には、一生懸命というのは一所懸命です。これがもともとの意味です。それはこの時代の地方武士の生き方です。一つの所に命を懸ける、これが武士なんです。この土地を守るためには、何だってする。そのために将軍の家来にもなっている。土地はメシの種だから、そういう土地を保障してもらうことが、一番大事なのです。これが本領安堵です。


【新恩給与】 ではもう一つ、将軍が敵と戦って、家来が、いざ鎌倉、と駆けつけて、命を懸けて家来たちが戦った。そして将軍側が勝った。勝ったときに、おつかれさん、で済むか。これじゃ済まないです。あと何をしなければならないか。褒美ですよ。命をかけて敵を召し捕ったんだったら、褒美をちゃんとやる。これが新恩給与です。戦さに勝ったら、相手側の土地を分捕る。それを将軍が全部を自分のものにしたら、家来たちは「なんだ、自分だけいい思いをして」と思う。そう思われたら最後なんです。敵から分捕った土地をちゃんと家来たちに分け与える。これを恩賞として与える。これを新恩給与といいます。御恩はこの二つです。


【軍役】 では家来がしないといけないことは、奉公です。

戦さだといったときに逃げない。軍役です。通常、いざ鎌倉、という。緊急出動といったときに、何をさておいても。そんな突然いわれても困ると言うのなら、それは自分の対応がまずいんです。いつ何時、敵が襲ってくるかわからないから、常日頃から備えをしておかなければならない。戦さの準備をしておきなさい、体の鍛錬をしておきなさい、武芸の訓練をしておきなさいということです。農作業のかたわらで。

やるべきこととして、騎射三物といって、こう書いて、これを読める人いますか。流鏑馬と、書くんだけれども、これは、やぶさめ、という。
時々、地方の神社でも、流鏑馬神事をもってる神社があります。ちょっと前まで、よくローカル番組でNHKが放送していた。見たことないですか。馬に乗って、100mぐらい走りながら、マトが最後のところにいくつか立ってる。10mぐらいの間隔で。これを、パカパカと馬に乗って全速で走りながら、弓を構えて、背中に弓矢を10本ぐらいさして、走らせながら、手綱を離して手放しして、弓を引いてパーンとマトにあてる。これが流鏑馬です。今はやめてしまったのかも知れない。昔はこの近くの神社にもありました。今はそんなことをできる乗り手がいないんじゃないかな。まずふつうの人間は、馬に乗れないし、まして弓を引けない。馬に乗りながら弓を引くということなんてまず素人はできないから、祭りを継続できなかったのかも知れません。でも最近までありました。今でも、続いている神社はあります。流鏑馬の稽古、それから笠懸、犬追物という。ぜんぶ、基本は弓ですよ。刀よりもまず弓です。

こういう訓練を、つね日頃、農作業の合間にすることが、兵の道(つわもののみち)という。これが江戸時代に出てくる武士道というものの源流です。武士道というのは、武士で大事なのは、命じゃないんですよ。何ですか。名こそ惜しけれ、というのはここからくる。殺されるときでも、潔く恥ずかしい死に方をするな、一番大事なのは人間としての名誉なんだ、命じゃないんだ、という考え方です。
このような考え方がどこからでてくるかというのは、よく分かりません。ただ刀の稽古をすれば、このような名誉を重んずる倫理観が自動的に養われるのかというと、それは違います。刀は危険な武器ですから、それを振りかざしてますます危険で暴力的になる人間はいくらでもいます。それはピストルを持ったからといって倫理的に人間がならないのと同じです。ピストルを持てば、普通はギャングになっていきます。

この時代、九州の守りは太宰府です。のちの戦国大名に太宰府に少弐氏がでてきます。もともとは朝廷の太宰の少弐という官職名です。このような地方に下った貴族の武士化は続きます。

【鎌倉番役】 この御家人の務めに、もう一つある。
戦さがないときはどうするか。鎌倉時代がイクサの時代だとはいっても、いつも戦争しているわけではありません。ヨーロッパと比べて日本は基本的に平和で、例外的に戦争があるんです。
平和なときは何するか。鎌倉の将軍の警備に行くのです。これが鎌倉番役です。割り当てられた期間、鎌倉に行って鎌倉幕府を守る。その警備です。これは将軍の家来だから、分かりやすい。

【京都大番役】 では将軍はもともと誰の家来だったか。天皇の家来だったんです。だったら上司の上司でしょ。親分の親分でしょ。それも守らないといけない。天皇はどこにいるか。京都です。だから京都に行って天皇も守らないといけない。京都の番役です。
でも京都が鎌倉より一段上だから、これは大がつくんです。これを京都大番役といいます。天皇の警備です。
なぜ武士が天皇の警備をしないといけないのかという理由が、一番最初に言った三角形の二重構造です。将軍は天皇の家来の立場で幕府を張っている、ということです。将軍は天皇の家臣の立場にあるからです。そこから鎌倉幕府の家来である武士が、京都大番役に出向くことになる。

でもそこに給料はないです。金が欲しかったら、自分で稼がないといけない。それぞれ武士は武士で土地を持っているから。でも逆に言うと、その土地を守って欲しいから、このような義務が発生するのです。武士は、それぞれの自分の土地からの収益で独立しています。


【武家造り】 武士は、江戸時代のように、城下町に住んでいるんじゃないです。城下町自体がまだないんです。武士は草深い田舎に住んでいる。少し大きな武士になると、あばら屋根みたいな農民の家とは違って、ちょっと大きめの家を作る。これを武家造りといいます。周りに堀をめぐらしたりして、警備を怠らない。
こういう家に住む武士たちが、平安貴族のように通い婚(妻問婚)をしていたのかというと、よく分からないけど、これはどうも違うような気がする。隣の武士の家まで馬に乗って、通い婚に行こうとしても、入り口のところで、槍を持った門番に「おまえ何しに来た」と言われて、「はい、通い婚にきました」と言うのも、間の抜けた話のような気がします。
他の家から娘を嫁にもらった方がいいような気がします。こういう何でもないようなことが、実はよく分からないのです。



【惣領制】 でも、その武士たちは孤立しているわけではない。ちゃんと御家人社会という社会をつくっている。
さらにまた一族の意識も強くて、血縁組織も強固です。血のつながりによる血縁組織、これを惣領制といいます。分かりやすくいうと、今でいう本家と分家の関係です。惣領というのは本家です。本家を中心に分家が集まる。分家は本家の命令をきかないといけない。本家の親分を惣領という。本家の叔父さんのいうことには逆らえない、という感じです。

今でもそういう株式会社の形態をとってる会社もある。一族会社のなかには、そういったものもある。本社があって、子供たち、またはその孫たちが子会社を経営して、盆正月に一族がみんな集まる。
そういう子会社の社長をしている私の知り合いが、ああ行きたくない、と言ってました。正月に集まると、去年は営業成績が悪かったから、小言を言われる、と言って嘆いていました。お金持ちなんですけどね。一族で会社を経営しているわけです。

彼らは精神的な拠り所は、自分たちの神様、神社を作って一族の守り神とします。源氏だったら、これが鎌倉の鶴岡八幡宮にあたる。あそこで一族みんな集めて、儀式をする。それによって儀式を取りまとめる惣領が権威を発揮していく。
分家に対して土地をどう分配するかも、惣領の仕事です。それには逆らえない。
鎌倉番役にも行かないといけない。おまえのとこは何人行け、おまえのとこは馬持ちで5人行け、おまえんとこは10人行け、と。惣領の指示には従わないといけない。それだけ惣領は効いている。本家の親父というのは。


ここで人の動きが今までと逆になっていることに気づきましたか。平安時代までは、国司たちが京から地方に下っていました。しかしここでは、守護や地頭や御家人たちが、逆に地方から、京や鎌倉に上るんです。中心から地方へ下るというスタイルから、地方から中心に上るというスタイルができています。のちの江戸時代の大名の参勤交代もこのスタイルの延長線上にあります。
今の地方の人間が、東京に向かおうとするスタイルも、この延長線上にあるのかもしれません。そうすると何か一つ偉くなったような気分になるのかもしれません。ある人はそのような日本人のもつ都へのあこがれを「都鄙(とひ)の感覚」と名づけました。


【分割相続】 しかし、子供が三人いたら、親が死んだときは、土地は三等分する。今は違うでしょ。今の農家は基本的には、単独相続です。戦後また民法が変わったり、兼業農家が増えたりして、ちょっと変わってきている。農家はだいたい、長男一人に継がせる形なんです。この時代はそうじゃない。分割相続です。

しかも女でも相続権があります。これは嫁に相続権があるのではなくて、娘に相続権があるということです。娘と実家との関係は、結婚しても、こういう形で強いものがあります。
江戸時代になると、女への相続権がなくなります。その代わりに、嫁いだ先の嫁としての力が強まります。これは女性蔑視の問題ではなく、どこの社会にも結婚の制度がありますから、結婚した場合の財産の問題です。ここをまちがうと変なことになります。女が財産を、実家からもらうのか、婚家からもらうのかという問題です。両方からもらうと、不平等が生じることになります。

分割相続ということは、土地がだんだんと小さくなっていくんです。小さくなったら食っていけなくなるから、そのぶんは増やさないといけない。これが開墾です。

まだ未開墾の土地があるからそれができるんです。平野部に雑木林がいっぱいあって、分割相続していかないといけないから、子供を1人立ちさせるまでに、開墾して所領を拡大するわけです。そして子供に分割相続するんです。まずそういう土地があったんです。これが分割相続です。反対は単独相続です。
これが鎌倉時代の武士社会の姿です。
これで終わります。

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