海を渡ったタスキ | 心に灯をともす物語

心に灯をともす物語

世に埋もれた出来事や名言を小さな物語として紹介します。読者の皆様の心に灯がともれば幸いです。

皆様、誠にお久しぶりです。

早速ですが、今日お届けする話もいつものように「実話」です。

 

 

あるアスレティックトレーナーAさんは 今から36年前、

まるで映画のような経験をします。

 

世紀の祭典、オリンピックでのことです。

大会最終日に行われるマラソン競技。

 

彼がトレーナーとしてケアを担当したマラソンの外国人選手が

足を痛めます。

あろうことか、足の裏に出来た豆が、つぶれてしまったのです。

しかも本番は明後日という日。原因はシューズでした。

 

マラソンランナーのシューズは、幅や厚さ、高さなどが

微細なレベルで調整されています。

選手にとっての微妙な違和感ひとつひとつが42キロの間に

徐々にダメージを与えていくからです。

 

オリンピックに照準を合わせて調整した何十足のシューズから

もっともフィットするものを選んだつもりでした。

しかし、コンマ数ミリレベルで微妙にサイズのずれたシューズを

履いてしまっていたのです。

 

事態に慌てたさんらスタッフたち。

先ず、血豆の適切な治療を施します。

献身的なこまめな治療は昼夜を通して続けられ、スタートの直前まで

行われました。

 

そのおかげで、足自体はなんとかスタートラインには立てそうな

状態にまでは回復しました。

 

しかし、対策はそれだけではすみませんでした。

完全にフィットするシューズを急いで探さなければならないのです。

スタッフは開催都市近郊はもとより、国中をくまなく探します。

が、見つかりません。

 

それもそのはずです。

そのシューズは有名な世界的スポーツメーカーのものでしたが、

その中でもそれは日本支社が作ったオリジナルの商品だった

からです。

 

同じものは遠い日本にしかありません。

さんは頭を抱えました。

明後日のスタートに間に合うはずがないのです。

 

しかし、さんはいてもたってもいられず、

とうとうその東京支社に電話します。駄目元でした。

 

 

ああ、しかし、この一本の電話こそがとんでもない奇蹟を

巻き起こすのです。

 

 

 

電話越しに事情を聴いたのは日本支社の副社長でした。

 

シューズを探します。

 

ありました・・・。

 

さて読者の皆様、この副社長はこの後、どうしたと思いますか?

ここからです。

 

 

このシューズをある女子社員に渡してこう云ったのです。

「今からただちに成田に行きなさい。

そして誰でもいいから頼んで届けてもらいなさい・・・。」

 

副社長も副社長なら、この社員も社員です。

急いで成田に向かったかと思うと、なんとこの社員は

空港の出発ロビーで叫んだのです。

 

「誰かロサンゼルスに行く方、いらっしゃいませんかぁ?」

 

 

そうです。

これは1984年のロサンゼルスオリンピックでの出来事でした。

 

空港のロビーで大声で叫ぶ彼女に、しかし誰も見向きもしません。

それでも彼女はあきらめません。

 

次に彼女は、ロサンゼルス行の便のカウンターに向かいます。

そして並んでいる乗客一人一人に声をかけました。

 

しかし、ロサンゼルスの選手村にこのシューズを届けて欲しい

などという、この不可解な頼み事に、誰も聞いてはくれません。

 

そのとき、1人の女性が話しかけて来ました。

 

「どうかなさいましたか?」

 

客室乗務員です。

女子社員は丁寧に丁寧に事情の一切を説明し、懇願しました。

するとその客室乗務員、会社に掛け合ってくれると言います。

 

そして30分後 ……

 

期待に膨らむ彼女に帰ってきた言葉は

「ノー」。

 

業務上問題あるという理由でした。

 

万策尽きた彼女は、その場に座り込み我慢できずに

ついに泣き出してしまいました。

 

そして、ひとしきり泣いた後、駄目だったことを副社長に

連絡しようと、とぼとぼと公衆電話に向かいます。

 

そして、受話器を取ったその時でした。

「私が運びましょう・・」

突然、背後から声をかけられたのです。

 

見ると、先ほどの客室乗務員でした。

 

「ただし、どこの誰かは絶対に云わないと約束できる?」

 

へなへなと座り込み、そしてこれまでの何倍も何倍もの

大粒の涙を流し、感謝の言葉を念仏のように繰り返しました。

 

そして涙の止まらぬ彼女をよそに、シューズを受け取った

客室乗務員は、何食わぬ顔で搭乗して行きました。

 

レースの前日でした。選手村にシューズが届いたのです。

 

歓喜したさんに、シューズメーカーのアメリカのスタッフが

不機嫌そうに云いました。

 

「靴は白地に金のラインが入っている。これでは日光が反射し

どこのメーカーのシューズか分からなくなる。

そんなデザインは私たちブランドメーカーとして提供できない。」

 

「そんなことを言ってる場合じゃない。スタートは明日なんだ。」

さんと大揉めに揉めます。

 

そのときでした。

当の選手が口を開きました。

 

「私は日本人のスタッフから血豆を丁寧に処置してもらった。

それだけで十分感謝しています。しかし、それだけでなく

日本からシューズまで届けてくれた。

僕は感謝の気持ちを込めてこのシューズを履いて走りたい」

 

この一言にアメリカのスタッフは、もはや返す言葉は

ありませんでした。

 

そして翌日のレースを迎えるのです。

 

申し分のないシューズを履いた彼は号砲と共に元気よく

飛び出して行きました。

 

 

2時間後・・・。

 

 

さんたち日本人スタッフは、信じられない光景を目にします。

真っ先に競技場に帰ってきた選手は、なんと彼だったからです。

 

そうです。

何人もの日本人がまるでタスキのようにつなぎ届けた

あのシューズで・・・。

 

ポルトガル代表 カルロス・ロペス。37才。

 

 

 

金メダルでした。

 

 

 

しかも2時間9分20秒のオリンピック新記録。

 

感動で震えるさんら日本人スタッフ。涙がとまりません。

こんな驚くべき出来事が待っていたとは・・・。

 

しかし、この話はここで終わりません。

ドラマはここから始まるのです。

 

カメラマンや記者に囲まれた歓喜の輪の中、

ロペス選手の様子がおかしい・・・。

しゃがみこんで何かをやっています。

そして、立ち上がったかと思うとゆっくりと走り始めました。

 

両手に何か持っています。スタンドのさんからは

よく見えません。

次の瞬間、オーロラビジョンに映った映像に

釘づけになりました。

 

そこには、ウイニングランを始めたロペス選手の姿が

映し出されていたのです。

 

よく見ると両手に何か掲げています。

 

あのシューズです。

 

裸足でウイニングランするロペス選手が掲げたシューズ。

金のラインも光が反射せず しっかり見えています。

 

さんはロペス選手から聞かされたそうです。

「42キロを走りにながらずっと考えていました。

僕は金メダルをとるんだ。

そしてこのシューズを手に持ってウイニングランする。

そうすれば、これを届けてくれた人が世界のどこにいても、

感謝の気持ちが伝えられるから。」

 

ロペス選手の言葉に、さんは男泣きに泣いたといいます。

 

 

あの時、さんが駄目元で日本支社に電話しなければ

シューズというこのタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 

同じ頃、日本ではあの副社長と女子社員が茫然としながら

ロサンゼルスの実況を見つめていました。

 

「副社長……わたし……。」

 

「うん、うん……。」

 

クシャクシャの顔で泣きながら、二人とも言葉になりません。

 

この二人がいなければタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 

そしてもう一人。

 

あの、名も知らぬ客室乗務員。

 

世界のどこかで、この光景を胸に刻んでくれたことでしょう

 

彼女がいなければタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 完