偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書276 十九夜塔(千葉県成田市旧下総町)

2024年03月26日 | 里山石神端書

千葉県佐倉市(旧下総町)大和田・龍安寺の十九夜塔

 利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の大和田にある龍安寺を訪ねました。
 龍安寺は曹洞宗の寺で山門前に禅宗特有の「不許葷酒入山門」の結界石が立っていました。その裏側には弘法大師の石仏群は、この寺が成田組十膳講八十八所霊場の一番になっているための造立でしょう。


 境内に入ると、左手に菩薩の石仏が並びます。その右端に座すのが「奉待十九夜/文化十四丑(1817)」銘の十九夜供養塔。


 十九夜塔は女性たちが、月齢十九日の夜に当番あるいはお堂に集まって経を唱え、歓談した行事を行って造立した石塔です。集まったとき掲げる軸の本尊は如意輪観音とされています。したがって造立された十九夜塔も例外もありますが如意輪観音がほとんどです。龍安寺の十九夜を見ると観音特有の頭上の化仏や持物の蓮華はありません。ところが膝に両手で赤子を抱いています。像容だけを見ると子供を抱く子安観音ということになります。石塔の十九夜塔の主尊は当初の如意輪観音でしたが時代を経ると子供を抱く像容に変化してきました。これは十九夜の信仰が念仏から安産に変化したためとの指摘もあります。その様子を中上敬一氏の「十九夜念仏源流考」(注)から簡単に紹介します。
 中上氏によると、十九夜念仏塔は江戸時代の寛永期に茨城の利根川流域に登場し、千葉や栃木に広がったようです。この初期十九夜の主尊は阿弥陀如来。これが女性の信仰に変わったのは、女性が落ちる血の池地獄から救済する『地盆経』を背景とした十九夜念仏和讃にあり、血の池地獄に苦しむ女性を救うのが如意輪観音であるところから、十九夜信仰の主尊に定着していったと推測しています。また、茨城に残る十九夜の由来に、女の厄年が十九歳であることを歌っていることをあげています。また早婚であった江戸時代の19歳は心身共未熟なため、出産による死亡率が高かったことへの安産祈願を如意輪観音に願ったことを紹介しています。こうして登場した十九夜塔の如意輪観音が赤子を抱く姿になるのは江戸時中期からのようです。
(注)中上敬一著「十九夜念仏源流考」『日本の石仏54』1990年、日本石仏協会
(地図は国土地理院ホームページより)


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