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エクスタシー [中庸]

一方で、盲信者、特に神盲信者は相変わらず根っ子が深いようです。
ある仏教寺院の住職がある欧米の教会に行った時の証言です。
「十字架から下ろしたイエスさまをマリアさまが抱いている像なんですが、時空が歪むような聖性を感じて、その前から動けなくなったんです。」
住職はいっそのこと洗礼を受けようと思いましたが、周囲から止められたそうです。

そういう霊感の強い人はみな、おそらく霊が直接注入されるような「エクスタシー」を覚えることでしょう。
そして、キリスト教に嵌まる人たちはみなこう言います。
「それはキリスト教信者でなければわからない」
と。
でも、あいにくそれは神ではありません。
高級霊でもありません。
ハッキリ言いますが、そこに居るのは〈(大勢の)人の想念が作った低級神〉です。
一足飛びに天国に行けるように救いを求めて祈るおびただしい盲信者の想念が作った「アンドロイド神」です。
キリスト教だけでなく、イスラム教もユダヤ教も同様です。
このことは、ペトル・ホボット氏ほか「霊に通じている人たち(霊格が高いとは限りません)」のすべてが証言しています。【*】
もはやそれは宗教ではありません。
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聖書も他の聖典もすべて地上の人間の「言葉」で書かれています。
言葉は末端の表現であり、一面的で不完全です。
ところが、ほとんどの信者は、末端の表現に囚われ、「本質」を見抜けません。
エクスタシーを覚えたうえでのことですから、聖典を『聖遺物』として扱い、一字一句を付け足したり削ってはいけないという「盲信」に簡単に陥るのです。
結果、自分の宗教は「鵜呑み、鸚鵡返し」、他の宗教に対しては「ツバメ返し」、挙句の果てに、
「コーランを暗唱できない人質は射殺する」
となるわけです。

宗教とは(字のごとく)切っ掛けを与える「教え」があって、実践して「中庸」を得ることです。
人間の活動を何もしないで救われるのは「宗教」ではありません。
ダンテは神に一足飛びに天国に行けるように救われることを願ったのですが、それは許されず、直接天国へ行く道には猛獣が立ちはだかっていて通れず、やむなく地獄煉獄巡りをすることになったのです。
「可愛い子には旅をさせよ」と言うように、ペットを飼うように箱に入れるだけで旅をさせないのは本当の親ではありません。
同様に、息子を放蕩させないでシャブ漬けにして引きこもらせるのは本物の神であるはずがありません。
それでもシャブ中の息子はエクスタシーを覚えて、救われた気でいるわけです。
これはいわゆる「疑似天国」という地獄の一種であり、死後も続きます。
もちろん、教会に居座る霊的存在が本物の神かアンドロイド神か、霊能者でない私には判断できませんし、このシャブ中の息子たちも一般人である限り判断できません。
私は霊に通じている人たちの証言を受け入れることと、放蕩息子に放蕩させる機会を奪うということで偽物と判断するだけです。
宗教的体験と言っても、神や仏と出会うことは、けっして「エクスタシー」の体験ではありません。
ひとえに中庸です。
しかしそれを言うと、キリスト教盲信者は、
「そんな東洋のものとはレベルが違うんだ」
と言い張り、あくまでもキリスト教の優位性を主張します。
でも一説によると、イエスは若い頃にインドに行ってインド哲学やインド占星術を学んだと言われます。
イエスの霊感もただで開花したわけでなく、何らかの刺激があって地上人生に具現化されたのです。
だいいちに、キリスト教自体が4世紀に別なものに変えられています。
聖書も教会組織に都合よく書き換えられています。
それでも聖書におけるイエスの言葉は、私からすれば、すべて「中庸」を促すものとして読み取れるのです。
「中庸」とは、即非や絶対矛盾的自己同一、性善説と性悪説の正しい解釈など、あくまで自分の実践によって、地上の〈善悪〉や〈白黒〉を超越し苦難を乗り越えることです。
悪人正機(性悪説・機の深信)によって、
「もう自分は救われないんだ」
と思った(覚った)とき、《霊の窓》が開いて、そこに上から神仏の光が差し込むのです。(性善説・法の深信)
放蕩息子は自分の経験を機に自分の意思で帰宅するのです。
そのときの境地はけっして受け身の「エクスタシー」ではありません。
地上経験の課題を克服したときのこの上ない《充実感》(親鸞会の言葉を借りれば渋柿が樽柿になって甘味になる)です。

当ブログでいつか言いましたが、〔2021.1.5〕
ジャコウネズミ:「無駄じゃ、無駄じゃ、まったく無駄じゃ、すべて無駄じゃ」
スナフキン:「無駄なことをするのが人間じゃないのかね?」
がすべてを語っています。
と言っても、けっしてジャコウネズミが思い違いをしているわけではありません。
ジャコウネズミのおじさんは、長い地上経験の末にその境地に達したのですから、それでいいのです。
いけないのは、それをはじめから若者や子供に押し付けることです。
あくまで『本人によるその過程そのもの』が、地上に生を受けた意味なのです。

【*】ホボット氏によれば、《神道》は良い、《仏教》は「人間が他の動物に輪廻転生するということはないが、そのことを除けば良い」とのことです。

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