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「差別」はあってはならないものなのか? [中庸]

なにやら、相変わらず「差別発言」をしたとか、責任をとるとか、世間を賑わせているようです。
まるで「差別」があってはならないこととして、それが当たり前のように、そしてそれを前提として話を進めているようです。
でも本当にそうでしょうか?
私はたまらず書き込んでしまいました。
同じく疑問を持つ人は一読ください。
ではなぜそうなってしまったのか、その根底にあるもの、そもそも「差別」とは何かを掘り下げてみたいと思います。

今の中国の動画を視た人も多いと思います。
理髪店に入ろうとする客に、店員が、
「(新型コロナ)陽性になったことがありますか?」
と聞きました。客が、
「ない」
と答えると、店員は、
「ダメ、ダメ」
と言って、追い返しました。
感染したことがあれば店に入れて、なければ入れません。
陽性経験者が多数派で未経験者が少数派のため、もはや「はしか」のような扱いです。
その客はちょっと不平を言ったものの、「本人のため」という理由もあり、納得して渋々帰りました。
もちろん納得がいかない客もいるでしょう。
これはれっきとした「差別(区別)」です。
正当か不当かは当事者が決めることであって、はじめから正当か不当が決まっている差別(区別)はありません。
要するに、問題にするかしないかだけです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

2年前頃だったか、ある国の飲食店で、「ワクチン接種済み」か「ワクチン未接種」かで、席を「内と外」に分けている光景を見ました。
いわゆる「ワクチン差別」です。
ほとんどに人は不満はあってもそれに従いましたが、中にはそれを「不当だ」と訴える人もいたようです。
私が客なら、やはり従います。
不愉快ではありますが、この差別は社会の「義」に基づく「必要な差別」だと判断するからです。

何が言いたいかと言うと、よく世間では、
「これは正当だから差別ではない、区別だ」
「これは不当だから差別だ」
と勝手に「差別」の定義をして、
「あってはならないことをしてはいけない」
と「何様だ!」と言いたくなるほど口出しする人がいます。
しかし、言動や行動そのものにはじめから客観的に「正当か不当か」が決まっているものなどないはずです。
よって、〈第三者〉が口出しすることは滑稽であり無意味です。
「何かおかしい???」
「変な思考の迷路に嵌まっている」
「いつからなのか?」
「どうしてなのか?」
そこで私は、もともとはどうだったのかを調べました。
高1の時に古本屋で買った『大日本國語辭典』〔松井簡治・上田萬年編 大正十年初版〕を引きました。(状態がボロボロで、手が汚れました)
【さ‐べつ 差別】 区別すること。ちがひ。けぢめ。しやべつ。白居易詩「一音無差別」
【さべつ‐かい 差別界】(名)物事の差別ある世界。平等ならざる世界。即ち、現象界。
【さべつ‐くぁんぜい 差別關税】(名)原産地の差別輸入方法の差異。船舶國籍の異同、協定税率の區別又は報復等によりて、同種類の商品に課する税率に差別ある關税。

見ての通り、昔の辞書には【差別】に卑下、侮蔑、迫害などの負の意味は一切ありません。
もともとは、【区別、差異】と同義であって、当人の都合(損得)で人や物事を分け隔てる限り、意図に関わらず結果として他の人に利害損得が生じることはあっても、はじめから一方的に〈悪〉だという意味はありません。
まして、「あってはならない」という暗黙の条件などは付加していません。
上記の〈差別界=現象界〉とは、人間の視点で地上の出来事をとらえれば必ず「差別」があるということです。
よって、人間が社会に生き、都合で言動や行動をする限り、原理的に「差別・区別・差異」があります。
言い換えれば、社会生活を営む上で必要だということです。
(後年の慣習からか、後年の辞書に、「卑下する」という意味を付け加えたようです)
(また、学校では、区別や差異とは別の意味として教えているようです)

行動とか措置で差別・区別するのなら、利害がはっきりするのですが、言葉で差別・区別するといういわゆる『差別用語』となると厄介です。
言葉を発する側が悪意をもっていようと善意を持っていようと、卑下しようと称賛しようと勝手であり、外部からはよくわかりません。
受け取る側も悪意ととるか善意ととるか卑下か称賛か勝手であり、予測できません。
当然、当事者同士はいちいち気にしていたらキリがないので、たいがいは問題にしません。
厄介なのはある手の〈第三者〉が「問題」にするということです。
それが「差別」あるいは『差別用語』の誕生です。
差別・区別が正当か不当かは、当事者にとって様々であり、その当事者が決めるわけですから、言葉そのものにはじめから正当や不当が備わっているわけではありません。
正当か不当かは、原因ではなく結果です。
言葉に『差別用語』と「差別用語でない語」があると言うのは誤謬です。
よって、『差別用語』なるものは幻です。
〔(1970年代)父:メクラはメクラだよ・・・これがすべてです〕
[☆]「〈客観的絶対的な時間空間〉が前提に在って、それを見ている」という「唯物論(実在論)」と同じ顛倒妄想です。〔詳しくは当ブログの『実在論』にあります〕
[☆]「神盲信」も神がどこかの空間を占めて客観的絶対的に存在するとする妄想です。

現代のその手の〈第三者〉は、その『差別用語』なるものに、「卑下、侮蔑、迫害」の意味を勝手に付加したうえで、「あってはならないこと」という条件をはじめから付加されているかのように前提として話を進めるのですから、常軌を逸していると言わざるを得ません。
しかも、対象となる人がどこにもいないにもかかわらず、ただ『差別用語』なる言葉を発するだけでその人を非難するのですから、はっきり言って狂気の沙汰です。

★その手の〈第三者〉とはどういう人なのか、どういう誤謬に陥っているのかが今回の『焦点』です。(もっとも、過去に扱っていますが)

昭和50年代頃からか、「差別」や『差別用語』なるものをやたらと取り沙汰するようになったのを覚えています。
ではなぜそうなってしまったのでしょうか?
なぜ「差別」とか『差別用語』とかいうものが取り沙汰されるようになったのか、根底には何があるのか、その根本原因を考えていただきたいのです。

30年ほど前のこと、同僚のある数学教師が『差別用語』なるものにいつも敏感で、ある時、誰かがある人の姿を見て『福助』という言葉を発したのを問題視して、言った人を問い質したというのです。
hukusuke2.jpg
『福助』はある種の身体障害者を卑下する『差別用語』だというのです。
それを聞いた私は、その話をした人たちに咄嗟に言いました。
「福助は福助でしょ?」
「そんなことを言ったら、石原3丁目の福助百貨店つぶれちゃうよ!」
その後、機会があった時に、私はその同僚をいつもの調子で真摯に説得し、幸いそれを機に呪縛が解けたようでした。
その同僚の数学教師はいわゆる「左翼思想」に染まっていたのです。

言葉はみな区別・差異・差別です。
すべて人の都合(損得)で分けているのです。

案外気がつかないことなのですが、忘れてはならないことは、差別(区別)することで、「不利益」を被る者がいれば、必ず「利益」を得る者がいるということです。
求人で「50歳未満」という条件を付ければ、当然50歳未満の人は優遇され、50歳以上の人は冷遇されることになります。
アメリカにおいて、白人が黒人を物理的に冷遇するいわゆる「人種差別」は、同時に白人を「優遇」することでもあります。
不利益を被る側が「問題」にするものですから、その手の〈第三者〉が「差別」と聞くと「負」の意味が付随してしまうのです。
では、徴兵制が始まったとして、「男子のみ」という条件が付いたとしたら、それは男性は優遇され、女性は冷遇されているのでしょうか?
それとも逆でしょうか?
少し迷うと思います。
いずれにしても、これらはれっきとした「人種差別」、「年齢差別」、「性差別」です。

特に「権力者や影響力のある人」の言動や行動の場合、それによって他のある人が物質的および心情的に利益や不利益を被ることはあります。
〔白人が権限を握っているアメリカで、黒人に卑下して(しなくても)「黒」と言うと、それは黒人にとって物理的に「不利益」に繋がるから問題になるのであって、ケニアやタンザニアで「黒」と叫んでも、アメリカで「白」と叫ぶのと同じで、誰も問題にしないでしょう〕

そこで、あなたの言動や行動を振り返ってみてください。
あなたの言動や行為によって「他人に利害が生じない」と言い切れるでしょうか?
何らか影響があるはずです。
それを当事者が「問題」にするかしないか、解決するかどうかだけのことです。
でも、たいがいは問題にもしません。
なぜならあなたは、たいがいは権力者や影響力のある人ではないからです。
いずれにせよ、〈第三者〉がとやかく言うことではありません。

〈第三者〉でありながらとやかく言う人というのは、地上の道徳や世法を〈仮のもの〉と弁えず、それを司る偽神(※ユリゼン)に帰依してしまっている人です。
他人のことを「良く言えば」とか、卑下しなくなれば、その人の人間性が高まり、世の中が「良くなる」と思っているのです。
でもそれは幻想です。
人の中身は変わりません。
これは《性善説》の履き違え〔地上の〈善〉の延長上に本物の《善》があると思い込んで追求すること、またそれによって〈悪〉が消えると思い込むこと〕です。
地上の〈善悪〉は単なる秩序維持のための方便にすぎません。

【※ユリゼン信仰者・ユリゼンの僕】
(左翼系の人、理系の人に多い、悪平等に染まった人、偽善を認めない大偽善者)
・侮蔑とか卑下とか迫害をなくせば、世の中が良くなると思い込んでいる人、
・警察が徹底的に取り締まれば世の中が清浄になると思い込んでいる人
・六法全書を持ち歩いて、法律に触れないように常に注意を払って行動すれば良い人間になれると思っている人
・思考が常に「平等」から出発する人
・子供にしつけるときに言い聞かせる〈地上の道徳〉を大人になっても常に意識し、大人に対しても言い聞かせる人
・「人に見られて困るようなことをするな」と他人に言う人(とは言うものの自分が出来ていないことに不甲斐なさを覚え自虐的になっている人)
・しかも以上のことを、皆がするべきだと思っている人

地上人はみな「悪善(偽善)」から逃れることはできません。
いくら地上の道徳で表面は変えても人の思うこと(心の中)は変えられません。
肉体と知性がある限り「エゴ」は消えませんし、強欲がある限り詐欺や殺人はなくなりません。
ただ、利害が生じた場合に、問題にして解決をして、ひとまず秩序を保つだけのことです。
世に言う〈勧善懲悪〉とはこれだけのことであって、人間の幸福そのものをもたらすわけではありません。

真の平和、霊的な《善》は、「中庸」を得ることです。
すなわち地上の「悪善(偽善)」を霊的視点を設けて超越することで得られます。
ただし、中庸を得たからといって、地上的に犯罪や不道徳を起こさないとは限りません。
むしろ聖人の域に達すると、地上の掟(〈善悪〉)にはむしろ無頓着になるので、処世術に長けた「地上の住人」よりも地上の法に引っかかる可能性があります。(『洞窟の比喩』:イエスもソクラテスも受刑者です)
超越は否定ではないのです。
《ミロクの道は悪を抱き参らせてこそ進む(日月神示)》
ここを見直さなければ、上述のような低俗な言い争いが永遠に繰り返されることになります。
地上の「問題や犯罪」をなくすのではなく、自分の中の「無益な争い」をなくすのが天国なのです。(「解決」ではなくなりません)

それから、もう一つの要因として「平等」という〈劇薬〉の副作用があります。
そこでまたまた、中矢伸一氏のブログから一部を拝借しました。

《「差別」や「平等」という言葉に騙されるな》〔2020.06.08〕
当然、人種による差別はいけないことですし、男女は人として平等であるべきですが、そういう聞こえの良い言葉を表に立てて、裏では秩序や伝統を破壊し、最終的には国そのものを潰そうとたくらむ、悪魔のような人々がいるということです。
またそういう連中に何の疑いもなく騙されてしまい、自分たちが正義の行動をしていると本気で信じてしまう大勢の「善良な」人たちがいる。
日本国内にもたくさんいます。
▲ヤコブ・モルガン氏も指摘しています。
・男子を軟弱化し、女子の闘争心をあおる。
・マスコミを総動員して愚民化をはかる。

日月神示には、ここのところが小気味いいぐらいにハッキリ書かれています。
【引用】
「差別、則(そく)平等と申してあろう。取り違い禁物ぞ」(『冬の巻』全1帖)
「平等愛とは、差別愛のことぞ。公平という声に騙されるなよ」(『黄金の巻』第56帖)
「悪平等は悪平等ぞ。世界丸つぶれのたくらみぞ」(『黄金の巻』第88帖)
「平等とか公平とか申すのは悪魔の罠(わな)であるぞ、天地をよく見よ、人民の申すごとき平等も公平もないであろうがな、一寸伸びる草もあれば一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの」(『五葉之巻』第9帖)
「区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である」(『月光の巻』第7帖)

こうした神示は、日月神示の後半部分にあたる「下巻」や「五十黙示録」に多く出されているのですが、日月神示を批判する人の中には、とくにこの後半部分を「偽物の神示だ」と決めつける人が多いのです。
さて、それはなぜでしょうか・・・?【終】
〔?昨今話題になっている杉田議員は、まさに神の意思を言葉に表していると言えます。男女の根本的性差と役割を説いている貴重な人物です。〕(実は賛同者多数)

みなさん、どうでしょうか?
『平等=善、差別=悪』の呪縛から解放されたでしょうか?
もとよりあなたは、はじめから呪縛されていない人でしょうか?
それとも『日月神示』を「偽物扱い」する人たちの1人でしょうか?

概して世間は、相変わらず「唯物論(実在論)」、「ユリゼン(偽神)信仰」、「悪平等」、「性善説・性悪説の曲解」で溢れ、思考が地上にへばり付いています。
私も相変わらず、真の平和を実現するために微力ながら少数派として「(?)可能性のある少数派」の人たちに働きかけています。
【?】考える切っ掛け、すなわち「道」を与えられても、「それができるのは聖人だけだ」と言って拒絶し居直る人がたくさんいます。
最後にオマケとして最新のネット記事を掲げます。

〈「差別だ」日本の水際対策を中国が批判 検査&隔離代も全面的に負担しているのに…〉
【周氏は「日本に対する非難の声も徐々に高まりを見せています。しかし、個人的にはPCR検査や隔離にかかる費用を全面的に負担する日本政府の対応は好意的で、差別的には見えません。また現在、変異株のゲノム解析を行っていない中国からの入国者に対して行っている水際対策は当然の措置と言えるでしょう。中国側の『差別』との主張は根拠に欠けるのではないでしょうか」と指摘している。】

《私のコメント》
必要な差別です。
ある人に対する言動や行動はすべて「差別(区別)」です。
問題にするかしないかだけです。
ある人にとって「不利益」が生じるということは、別の人にとっては必ず「利益」があるわけです。
この場合、中国の人にとっては「不愉快」でしょうけど、日本の平和のためには(義において)「必要」です。
言葉を正しく使ってください。
《終》
ところが、反応は〔良5・悪1〕で、理解者はいるものの、今一つであり、他の人たちのコメントに賛同する人のほうが圧倒的に多いのです。

〈他の人たちのコメント〉
・左翼共産は二言目には差別だ、だな。
同じ穴の狢が日本にも生息しているから分かりやすいな。
もう騙されないで皆さん。
・来るな塵共。
・日本も中国人にビザ発給停止すればいい。
・日本も中国からの入国禁止措置を執れば良い事だ。非常識国家中国に文句を言っても始まらない!
・内政干渉しないでもらいたい
・中国人の入国を原則禁止に
共産中国への渡航を原則禁止にしましょう。
〈終〉
反応はだいたい〔最良7・良5・悪1〕です。

要するに、他の人たちのコメントはただ「分かり易い」というだけで、なぜ、
「差別がどうのこうの」
と騒いで非難し合うようになったのか、その根本原因を突き止めて無駄な論争を止めようとはしません。
宗教に関しても、何か事があると、大衆は「寄付金」や「癒着」といった組織の堕落にばかりに焦点を当てて、その根底にある「盲信」の原理の解明と解消にはまったく関心を示しません。
私はいつもそれが歯痒いのです。
世間はみな「地上的な解決」はするけれど、〈地上的な善悪〉を「超越」する動きはないということです。

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