五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

月夜の浜辺に

◆◆◆この記事の目次◆◆◆ 

 

はじめに

 

今週のお題「秋の歌」

 気が付いたらすでに11月も中盤を過ぎていました。ここ数ヶ月は仕事に追われて、なかなかブログ記事を更新することも、購読ブログを読むこともままならぬ状態で、しかも公私においてトラブルが続いています。なんでこんなに物事がうまくいかないのだろう?と思って、ふと近くの神社に看板を見ると、どうやら今年は私にとっては前厄の年のようでした。前厄だからなのかあ・・・、と納得していましたが、何でも厄年のせいすることは、厄年の時にやっていはいけないことだそうです。そう思うと、本厄である来年はどうなるのだろうと、今から戦々恐々としています。

 さて、今回の記事ですが、すでに先週になってしまいましたが、今週のお題秋の歌」から書いてみようかと思います。ただ「歌」というよりは「うた」の方なのですが・・・。

月夜の浜辺

 

 先日帰宅途中の車内のラジオから、聞き覚えのある詩が聞こえ、懐かしい思いをしました。その詩は中原中也の「月夜の浜辺」というもので、高校・大学と中原中也の詩集を愛読していた中で気になっていた詩の一つでした。

 

月夜の浜辺

 

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを、捨てるに忍びず
僕はそれを、たもとに入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。 

 

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向かつてそれはほうれず
   波に向かつてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先にみ、心に沁みた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

 

 この詩の内容は「月夜の浜辺を散歩をしていて、ボタンを拾ったのだが、それを捨てられずぬにいる」という取るに足らないもので、「だから何なの?」と言われればそれまででしょうが、普段に言い尽くされた言葉を巧みに駆使し、何気ない行動が読み手の心の琴線に触れるのは、やはり中原中也の詩人としての類まれなる才覚だと思います。

月夜の浜辺の中に出てくる「ボタン」の意味とは?

 

 この詩の中に出てくる「ボタン」ですが、これは一体何を意味するのでしょうか?一説によると、小児結核でわずか2歳で亡くなった長男の文也のことを指しているのではないかと言われています。またこの詩は副題が「亡き児文也の霊に捧ぐ」となっている中原中也の2作目の詩集「在りし日の歌」の中に掲載されています。

 ただ私はこれとは異なった見解を持っています。まず中也が愛児文也を亡くした後の詩は、例えば、「在りし日の歌」の中にある「春日狂想」という作品の一節に、以下のようなフレーズがあります。

愛するものが死んだ時には、

自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、

それより他に、方法がない。

 中也は文也の死には悲壮感というか、深い悲しみや絶望を感じており、それがこの詩に如実に表れています。事実、文也の葬儀では文也の遺体を抱いて離さず、母親フクが説得して棺に納めさせたそうです。また四十九日の間は毎日僧侶を読んで読経してもらい、文也の位牌の前から離れなかったそうです。そしてあまりにも悲しみの業が深かったのか、文也の死の1年後に、中也も急性脳膜炎でわずか30歳の若さで亡くなりました。

 また文也の死の1月後に書かれた親子3人での思い出を綴った「夏の夜の博覧会はかなしからずや」には、ボタンという言葉が出てきており、これが「月夜の浜辺」のボタンに結びつくのではないかという説もあります。

夕空は、紺青こんじょうの色なりき
燈光は、貝釦かいボタンの色なりき

 

その時よ、坊や見てありぬ

その時よ、めぐるボタン

その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

 

 ただ「月夜の浜辺」にはそういった中也の悲壮感や絶望感といったものは感じられず、どちらかと言えば、この詩からはどことなくですが、長閑でほんわかとしたメルヘンチックな印象を受けます。(これはあくまでも私見ですが・・・)それは1931年ごろに書かれたとされる「吹く風を心の友と」という詩に近いものがあるように、私は感じています。

 この「吹く風を心の友と」は高校の現代国語の教科書に載っていたもので、数ある中原中也の詩の中で私が最も好きな詩です。ここで中原中也という詩人を知り、その繊細で流れるように美しい一句一句の言葉に魅了されました。

 

吹く風を心の友と

口笛に心まぎらはし

私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は

煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、

 

とんで行つて、もう今頃は

どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか

耳を澄ますと

げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる

 

あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか

にじむやうに、日が暮れても空のどこかに

あの日の昼のまゝにあの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる

 

それが何処か?― ―とにかく僕に其処へゆけたらなあ……

心一杯に懺悔して

ゆるされたといふ気持の中に、再び生きて、

僕は努力家にならうと思ふんだ― ―

 

 ボタンの意味するところは何なのか?そもそも「月夜の浜辺」は何時頃に作られたかも不明なようです。で、これはあくまでも私の見解なのですが、ボタンは中也自身を投影したものではないでしょうか。もっとも証拠となる根拠というものはなく、思い付きで言ってはいますが、何となくそう思います。

 幼い頃、中也は‟神童”と呼ばれていましたが、文学に傾倒したため、故郷の山口中学を落第。逃げるような形で京都の立命館中学に入学するも、そこで女優の長谷川泰子と同棲。結局立命館中学も中退せざるを得なくなり、大学予科を受験する名目で泰子と上京と、絵にかいたような道楽息子ぶり、それでも詩作に対する情熱は衰えることはありませんでした。

 だからといって世間からは詩人として注目されているわけでもなく、むしろ冷ややか目で見られている訳で、事実父親の謙助が死去した時、母親のフクは世間体を気にして、葬儀には出させませんでした。そうした自身の姿を浜辺に落ちていたボタンに投影したのではないかと思います。

 だとしたら、ボタンを拾った僕は誰なのか?という疑問点が新たに湧いてきます。ですので、まあこれは文学的に検証したわけではない、ただの私のこじつけでしかありませんけどね・・・。

小林秀雄長谷川泰子との三角関係

 

 さて中原中也と言えば、評論家の小林秀雄との前述した女優長谷川泰子との三角関係が有名です。そういえば、以前にも作家同士の愛憎劇をブログ記事にしました。

 

kitajskaya.hatenablog.com

 

 この記事の佐藤春夫谷崎潤一郎の間の争いはハッピーエンドとなりましたが、中原中也小林秀雄のケースではそうはいかなかったみたいですね。

 長谷川泰子を巡る中也と小林の愛憎劇は、上京した中也と泰子が同棲中の中野の下宿に小林が訪ねた時から始まります。当時中也は詩作に夢中で、泰子にはかまってやれなかったようで、見知らぬ土地東京での一抹の寂しさを感じており、その心の隙間を埋めたのが小林でした。小林は中原の留守の時に逢瀬を重ね、そして泰子に「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」と語り、どちらを取るかを迫ります。そして泰子は上京して1年も経たずに中也との同棲を解消し、小林の元へ走ります。

 なんだか今の世の中でもよくありそうな寝取られ劇ですね。ただ小林と泰子の燃え上がった恋愛もわずか2年間で破局します。それは泰子の小林に対する束縛が酷く、また小林と同棲し始めたころから頻繁に起こる病的ともいえる潔癖症が原因で、泰子の元から小林が恐れをなして逃げ出したのが真相のようです。

 小林との破局後、泰子は小林に未練タラタラだったようです。小林と一緒にいるときに潔癖症が出るのは、それくらい小林を独占したいという女の‟”というものが出たのではないかなあ、と恋愛経験値が異常に低い私は思います。(多分違うと思うけど・・・。)

 一方の中也の方には泰子は恋愛感情が湧かなかったようで、むしろ中也を鬱陶しく感じたみたいでした。不思議なことに中也といるときには潔癖症が出なかったのは、中也を‟“として見てなかったのではないか、都合のいい人としてしか見れなかったのではないかと思います。

 確かに見た目では小林は長身の優男で、中也は小柄でおまけに自分より2歳年下。また小林は東京帝国大のエリート学生、中也は落第続きの落ちこぼれ、性格も小林は紳士で女性にもマメ、中也はワガママで未だに親のすねをかじっている。どう転んでも、女性は小林の方に靡きますよねえ!!

 一方の中也の方は、泰子が小林と別れたことを知ってからは「自分が唯一の泰子の理解者だ!!」と自認した感があり、何かと泰子の世話を焼くようになります。後に築地小劇場の演出家山川幸世との間に望まぬ妊娠・出産をしましたが、産まれた子の名前を「茂樹」と名付けたり、泰子が外出する時はその子を1日預かったりと、私からすれば「有り得ない」ほど献身的で、アンビリーバーボーなことでした。

 また中也はかつて自分の女を寝取った男である小林にも、略奪から8年たった後、当時自宅のあった鎌倉で再開し、交友関係を復活させ、自らの第二集となる詩集「在りし日の歌」の原稿を託します。後に中也が病に倒れ、鎌倉の養生院に入院した時、小林は当時勤めていた明治大学での講義を1週間休講にして病室に詰めたようです。

 結局、中也・小林・泰子の三角関係は3人が別々の人と結婚することで幕を閉じます。泰子は中也が30歳で夭逝した際、その葬儀の時、人目をはばからずに泣きじゃくったそうです。やはりなんだかんだいって泰子は中也に散々世話になった恩や愛情を感じていたのでしょうか?人は亡くなった時にその価値が分かると言いますが、小林や泰子のとっては中也という存在は彼らの中では大きな存在だったのでしょうねえ。

おわりに

 

 最後になりましたが、私が中原中也に興味を持ったのは、詩の素晴らしさもさることながら、他にどことなく外観や性格が自分に似ていることもあり、親近感を覚えたからでした。当時は詩人や作家といった職業、そしてその破天荒な生き方に憧れ、今考えたら若気の至りですが、当時はその道に進めたらと本気で思っていました。

 中原中也の詩に出会ったのは前述した「吹く風を心の友と」の中に出てくる十五の春でしたが、もし今そこへ行くことが出来たら、今までの人生を心一杯に懺悔して、現実主義者になろうと思います。

おまけ:関連書籍など

 

 中原中也の詩集です。最近ではアニメにも中原中也は登場しているようです。知らんかった!?

 

 

 

 次に評論家小林秀雄の作品です。小林秀雄の文章は高校の教科書や大学の入試問題でよくお目にかかています。懐かしいですね。

 

 

 中也と小林との三角関係にあった長谷川泰子の自叙伝もありました。

 

 

 

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参照:35STYLE 厄年にやってはいけないことって?

           2022年(令和4年)の厄年の年齢と過ごし方

   Wikpedia 中原中也小林秀雄長谷川泰子

   東京紅団 中原中也の世界を巡る

         中原中也の東京を歩く、続中原中也の東京を歩く

写真:無料写真素材 写真AC 風景 江の島 月夜 YATA!

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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