個性を生かすヒフミヨイムナヤコト

木の花ファミリーのみんなです。



ある日の大人ミーティングでジイジは以下のように語りました。


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男性性や女性性など〇〇性というのは、その存在の性質を表しますが、その性質は、この世界でのそのもののポジションを示しています。それが「カタチサキ」というように現象化されているのがこの世界です。だから微生物性だったり、例えば、猫らしいとか犬らしいとか、それらも性質で、さらに細かく見ると、ペットの猫と山猫は性質が違います。その仕組みを知り、その現象が起きている意味を理解する志が大切です。

「カタチサキ」の現象化をマスターし生きているということは、きわめてシンプルに生きているということです。つまり、そのカタチサキから人間には、「人間性」という最初の性質が与えられ、男性性や女性性などの分類が与えられます。その次の分類にカルマが来て、癖性分が表現されます。その癖性分を癖性分として使うのか個性として使うのか。つまり癖性分は、ポジティブに使えば、個性としてとても有効に働き役割を全うするのです。ところが、悪く使うと癖性分は世界に混乱をもたらします。どんな性質であっても性質が悪いのではないのです。それを有効に使うか無効に使うかが問題なのであって、そのことを考えなければいけません。私はこういう人間だから駄目だと考え自己嫌悪に陥っているだけならば、それは有効に使うことを放棄しているのです。ではどうしたら有効に使えるのか、なぜ無効にしてしまうのか、その無効にしている自分は日頃からどういう性質をしているのかを考えることです。自分を振り返る時に、私はなんでこうなっているのかと振り返るのかもしれませんが、どうしてそうなっているのかということは他者の目があってより良く見えます。客観視点があって世界観が広ければ自分で見ることも出来ますが、それが見えないものにとっては他者の視点を貰うことによって初めて自分を見ることができるのです。この世界は、生命が循環し多様性に溢れています。自分を表現することは、そのような場に出ていくということで、木の花ファミリーのようなフィードバックを貰える場で自分を出していくことは、課題をクリアし、自分を有効に活用できるチャンスを貰っているということです。多様性の中で自分の性質が表れてくるのですから。

なので、言われて駄目だったなと思うこともあるかもしれませんが、その時、それを誤魔化さずにまずは落ち込まなければいけません。自分の性質に落ち込むのではなく、自らがもたらした出来事に落ち込むのです。そして真剣になってどうしたらいいかと向き合った時、初めて課題をクリアできます。

これは悟りの道であり地上天国を創るためには人々が宇宙法則を悟らなければなりません。私たち人間は宇宙を生きているのです。だから宇宙(天)と共にあることの意識でいないと、そのことは見えてきません。自我にまみれていては、絶対に地上天国は出来ません。

この世界は「カ」によって出来ていて、それがそれぞれの性質に相応しく満つっています。だから「神(カミ)」の現象なのです。「カミ」は物理性、つまり「カタチサキ」にも、「カタカムナ」というこの世界そのものにも常にその物理性は働いていて、神さまは常に存在するわけです。その働きは、あなたがそこに向けてアクセスするようになったら、必ず働いてとても良い流れに自分が乗ることが出来るのです。その時に有難いなと思うのです。その流れは自分が創ったものではなく「神(カミ)」からいただくものなので。


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ジイジは、「カタチサキ」の現象化をマスターし生きているということは、きわめてシンプルに生きているということと語っています。そして、そのシンプルに生きるということが自分を知り個性を生かすことに繫がります。シンプルに生きる。それは目の前に表れる一つ一つの出来事を大切にする姿勢で、その具体的な方法は、ジイジのブログ「ヒフミヨイムナヤコトの道」で語られています。以下、引用文です。


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みかこ:

今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

 

ジイジ:

それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。

30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと

「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。

しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。

しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。

二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。

「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。

それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。

例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」

お釈迦様は、そう言われた。

「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

 

みかこ:

この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

 

ジイジ:

人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

 

~ 中略 ~

 

まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。

確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。

だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。

かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。

ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。


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地道に一つ一つの階段を登ることは地味で退屈な作業に思えるかもしれませんが、その奥には「カミ」の存在と働きがあります。そこにアクセスすれば、日々の地道な作業の奥にダイナミックな流れが見えてきます。そして想いもよらない現象と出会い、その中で自らの個性が生かされていきます。そこに至るトキ、世界観が広がりこの世界の有難さが浮かび上がってくるのです。そんな瞬間を少しでも多く積み重ねていこうと思っています。


お月様(2021年9月21日)・うお座満月です。


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