風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

夏は山の水が澄みわたるので

2022年07月02日 | 「詩エッセイ2022」




長いあいだ 雨風を受けとめてきたか 傷だらけの重い木の引き戸 よいしょっと引き開けて 敷居をまたぐと夏が始まる 祖父が居て祖母が居て 叔父が居て叔母が居て よその犬も居て知らない人も居る 古い家は 納戸の隅とか仏壇とかに 小さな暗やみが いっぱいあったけれど 祖母がいつも居た 土間につづく台所にも かまどや流しの下など 深い暗やみがあった その暗がりのごちゃごちゃを 覗いたこともなかったけれど 壁のこおろぎのように いきなり祖母の声が飛びだしてくる たまご焼き焼いとくさかい 早よ戻っといでや すこし甘くてすこし塩っぱい たまご焼きとジャコ 茶粥に茄子の古漬け 汽車が駅に着いたときだけ 長い坂の道を村人が ひとかたまりで通り過ぎる 勝手口から祖母の声が 人々の足をとめる それが祖母の楽しみで しばしのおしゃべりが 遠ざかったあとは 黙りこくった道だけが残り 斑に落ちた木の影も動かず 蝉も鳴きやむ午後は 温んだ山の水も淀み 水面に浮き上がった魚が 唇をぱくぱくしたりするので わんどの深い暗がりに ザリガニのむき身を放り込む とたんに川の底が ぐるんと大きく動く 祖母がカンテキで焼く ナマズの蒲焼き おいしい風になって 田んぼの畦をわたり 麦わら帽子のひさしをかすめ 追われたシオカラトンボも 風になって雲に 吸い込まれてしまう夏は くりかえし繰り返されて すこし甘くてすこし塩っぱい おいしい煙に誘われ 虫のように草をかき分け 長い坂道をあくせく 帰ってゆく頃もあったが 遠ざかる夏を眺めながら いくつか山も越える 立ち止まる足の下の土が まだ柔らかいところ 小さな山のひとつ いつしか其処に祖母は眠る ふたつの墓に死者を葬る 古い習俗の ほぼ最後の人となり いくつも夏を重ねて 白い骨になり やがて山の水になっていく 澄みわたる夏の夜は 遠い川が近くなるようで 水が臭う夢をみたりする 大きな黒い生き物が わんどの泥をまきあげるので 深くて暗い水の底が かいま見えることがある

 

 

 

 

 




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