ねずさんのブログよりの転載です。

https://nezu3344.com/blog-entry-4635.html#more

 

なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。
男女は対等。
それが日本の文化です。

 

 

いまから800年あまりの昔のことです。
ひとりの女性がある日、歌会(うたかい)に招かれました。
歌会は、摂政であり、かつ右大臣が私邸で開催したものです。
そこには並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
 身を尽くしてや 恋ひわたるべき
(なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
 みをつくしてや こひわたるべき)

女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌になっています。

ところが、よくよく聴いてみると、この歌は「仮寝と刈り根」、「一夜と人の世」、「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」などと掛詞(かけことば)を多様しています。
しかも一聞すると浮かび上がる「一夜をともにした女性」というのは、難波江の女性です。

この時代、難波江といえば遊女街でした。
つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の一夜の恋を詠んだような歌なのですが、ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理官の女性です。

そのような女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

 

和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを察します。

当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学びましたから、歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌の意図を察しました。

そして、その場が、凍(こおり)りついてしまったのです。
並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
何も言えなくなってしまったのです。

いったいどういうことだったのでしょうか。

実は、皇嘉門院は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位されました。
そして十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

お二方はとてもお仲がよろしいご夫妻であったと伝えられています、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。
藤原氏の権力は、常に「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことによって担保されています。
つまり子がなくて、別な藤原氏以外の一族の娘との間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間に藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。

ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまわれたのです。
困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳です。当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
ものごとの善悪が十分にわかる年齢になっているわけです。

天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
何もかもが思いのままになる。
ところが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原氏は権威を手放したことになってしまう。
加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
つまり、当時の藤原忠通にとっての最大の脅威は、崇徳上皇と後白河天皇が手を結ばれることにありました。
もし、そうなれば、これまでの藤原氏の強引な権力獲得の責任が問われ、もしかすると藤原の一族は中央を追放されることにもなりかねない。

間の悪いことに我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇となると、上皇は摂政関白太政大臣よりも政治的に上位です。
つまり崇徳上皇は国家最高の政治権力を持つわけです。
その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が手を結んだら・・・。
藤原の一族にとっては、代々続いた藤原の一族の繁栄を、すべて失うことにもなりかねないのです。

それがわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないようにしていたし、毎日を歌会などをして、すごしておいででした。
しかし人間というのは、ひとたび疑心暗鬼に陥ると、そうした意図して政治に無関心でおいでになる崇徳上皇が、裏で何かを画策しているかのように見えるようになってしまう。
自分が悪いことをする人というのは、自分もされるのではないかと不安でたまらなくなるのです。

疑心暗鬼に陥った藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、崇徳上皇に謀叛の兆しありという、あらぬ疑いをかけ、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にしてしまいます。
これが保元の乱(1156年)です。
こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流され、皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残りました。

政治の争いは、世の争いを招きます。
朝廷内の権力闘争のために、武力が用いられたということは、紛争の解決手段は、それまでの話し合いではなく、強引に武力による解決を図ることが肯定されたことを意味します。
その意味で、国政というのは、いい意味でも悪い意味でも、世間の模範なのです。

こうして世は乱れ、貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。

そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代から、ずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは皇嘉門院様の別当となっている女性が歌会に招かれたのです。

そして彼女は持参した歌を披露しました。
歌は、意訳すると次のような意味になります。

「難波の港に住む遊女であっても、
 短い一夜限りの逢瀬でも
 一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
 しかし朝廷の高官というのは、
 一夜どころか、
 神代の昔から天皇を中心とし、
 民を思って先祖代々すごしてきました。
 けれど、
 そのありがたさを、その御恩を、
 たった一夜の『保元の乱』によって、
 あなた方は、すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
 父祖の築いた平和と繁栄のために、
 危険を顧みず身を尽くしてでも平和を守ることが、
 公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」

むつかしい歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。

ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
 身を尽くしてや 恋ひわたるべき

と歌を披露した瞬間、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
言葉を発すれば、ご先祖を冒涜することになってしまう。
皇嘉門院の別当の言うとおりなのです。
けれど、世の流れでどうすることもできない。
できることといったら、その場で、ただうつむくしかなかったのです。

皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
「この歌の出詠は、
 あくまで私の独断で
 いたしたものとします。
 皇嘉門院様には
 決して咎が及ばないようにいたします」
と、事前に許可を得ていたことでしょう。

そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
そこまでの戦いを、この時代の女性たちはしていました。

いかがでしょう。
なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

男女は対等。
それが日本の文化です。