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国際派日本人養成講座よりの転載です。

No.1302 中学生の素直な感性が古代人物を蘇らせた ~ 歴人(歴史人物学習館)便り(2) : 国際派日本人養成講座 (seesaa.net)

 

歴史教科書では単なる暗記用人名に過ぎない古代人物たちを、中学生たちは、悩み苦しみつつも自分たちに功績を残してくれた人々として思い描いた。

 

■1.聖武天皇に「人々を助けてくれてありがとう」と言いたい

 横浜市の中学校が、歴史人物学習館のサイトを活用して、古代の人物の感想文を書くことを、一年生約220人の冬休みの宿題にしました。一人の女生徒は、次のような感銘深い感想文を書いてくれました。

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 奈良県にある大仏。私がそれを写真で初めて見たとき、なぜか惹きつけられたのを覚えている。誰が、何のために? 頭の中に「?」がたくさん浮かんだ。きっと歴史上の人物が自分の権力を示すために作ったに違いない。古墳のように…。でも、それが、人々を救うために、国を鎮めるために作ったと言うことがわかった時、私は驚いた。

 その時の聖武天皇の言葉が印象深い。「まことに朕が不徳のいたすところである」 病気や災害が起きるのは、自分の政治が行き届いていないからだ、と。私はこの言葉を聞いたとき、聖武天皇の人々を思う気持ちや責任感に感動した。ここまで国を一心に考える人物はいないのではないだろうか。・・・

 私がいつか奈良県を訪れた時は、聖武天皇に「人々を助けてくれてありがとう」と言う気持ちを伝えてきたい。
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 聖武天皇の御代は疫病や天変地異で民衆が苦しんだ時代でした。それを天皇は「朕が不徳のいたすところ」とご自身も悩み苦しみ、そこから大仏建立を思い立たれたのです。

 この女生徒は、そういう聖武天皇の苦しみの声を聴き、その人々を思う気持ち、責任感を感じとったのでした。そして聖武天皇に「人々を助けてくれてありがとう」と言いたい、というのです。1300年も前の天皇の声を聴き、お礼を伝えたいと思う、そういう人と人との心の対話が、ここには描かれています。

 

 

■2.聖武天皇は「すごくかわいそうだと思いました」

 別の男子生徒も、聖武天皇の声に聴き入っています。

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 聖武天皇は701年に生まれましたが、724年に23歳で天皇になったことを知り、とても早いことに驚きました。また、父である文武天皇が707年に死亡し、母の藤原宮子もその後精神障害になってしまったので、聖武天皇は36年間も親に会うことができなかったそうです。・・・すごくかわいそうだと思いました。

 そしてその後、国の安泰を願って、奈良に大仏を作ろうとしたときに、「一枝の草でも、一握りの土でもいい、大仏作りに協力しようとするものは喜んで受け入れよう」と、命令と言う形ではなく、「お願い」と言う人々の心に訴えかけるような形にしたことに、優しい人物だと感じました。
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 親とは縁遠かった聖武天皇の人生を「すごくかわいそう」と同情し、なおかつ大仏建立でも、命令ではなく「一枝の草でも、一握りの土でも」と人々の心に訴えかける優しさを感じとっています。ここにも、自らの不幸の中でも、人々への優しさを示す聖武天皇が、具体的な一人の人物像として浮かび上がっています。

 ちなみに、中学の歴史教科書でトップシェアを持つ東京書籍では聖武天皇を次のように描いています。
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 聖武天皇と光明皇后は、唐の皇帝にならって、仏教の力により、伝染病や災害などの不安から国家を守ろうと考えました。そこで、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、都には東大寺を建てて金銅の大仏を造らせました。[東書、p44]
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 この文章から聖武天皇の人柄が想像できるでしょうか? 上記の二人の生徒が思い描いた人物像と比べると、教科書記述の無味乾燥ぶりがよく分かります。「唐の皇帝にならって」などという「上から目線のご高評」よりも、「朕が不徳のいたすところ」とか、「一枝の草でも、一握りの土でも」という聖武天皇の心中を窺わせるお言葉をなぜ入れないのでしょうか?

 こういう執筆姿勢では、生徒は人名の暗記に留まってしまい、聖武天皇の人柄、生き様への洞察と共感は得られません。学習指導要領で目標としている「主体的・対話的で深い学び」ではなく、「受け身的・一方的な浅い学び」しかできないでしょう。


■3.「ネガティブな紫式部も歴史に名を残したのだから」

 古代の歴史人物として、紫式部や清少納言に向き合った生徒たちもいました。この二人を、歴史教科書では以下のように記述しています。

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 9世紀には、漢字を変形させて、日本語を書き表せる仮名文字が作られました。そして、とりわけ唐の影響が弱まった9世紀の末ごろから、仮名文字による文学作品が盛んに作られました。「竹取物語」などの物語や、紀貫之らがまとめた「古今和歌集」などです。

また、藤原氏から出た天皇のきさきたちの周りには、教養や才能のある女性が集められ、紫式部の「源氏物語」や、清少納言の随筆「枕草子」などが生み出されました。こうした女性による仮名文学が多いことも、国風文化の特徴です。[東書、p51]
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 この説明でも、紫式部や清少納言は単なる暗記用の人名でしかありません。しかし、中学生たちの瑞々しい感性は、たちまち古代の女性を蘇らせ、深い対話を始めます。まず、紫式部について、ある女生徒はこう書いています。

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 彼女の著書、紫式部日記を読むと、日頃の悩み、愚痴など、彼女がとてもネガティブなことがわかりました。その悩みの中には、人間関係の悩み、将来への不安など、私たちが悩むようなごく普通の悩みもあり、少し親近感がわきました。・・・紫式部が私たちは全く違う特別な人間ではなかったことがわかります。・・・

 このように、遠い存在だと思っていた紫式部が、実はネガティブで自分と似ているところがあったり、調べていくうちにいろいろなことがわかって面白かったです。自分と似たような性格の彼女でも、世界最古の長編小説を書き上げ、歴史に名を残したと知って、私も頑張ろうと思いました。
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 最後の一文は、見事な「どんでん返し」です。紫式部も自分と同じネガティブな女性だったと分かって安心してしまうのではなく、そんなネガティブな女性でも「世界最古の長編小説を書き上げ、歴史に名を残した」のだから、「私も頑張ろう」と言うのです。紫式部も、1200年以上も後に自分の生涯から元気を受けとる女生徒がいると知ったら、さぞ喜んでいるでしょう。


■4.「つらい目に遭いながらも、明るく振る舞う清少納言に感動」

 清少納言について、別の女生徒はこう書いています。

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 清少納言の有名な和歌は、たくさんあります。その中でも印象に残ったのは、「忘らるる身のことはりと知りながら思いあへぬは涙なりけり」です。あなたに忘れられても仕方がないが、堪え切れないのは涙だったと言う意味です。恋しい、寂しいと言う感情が読み取れて、とても共感できる和歌だと思いました。

 清少納言について、私は最初「枕草子」が有名な人としか思っていませんでした。しかし、つらい目に遭いながらも、明るく振る舞っていたのが驚き、感動しました。私も清少納言みたいな美しく強い女性になりたいです。
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 清少納言が「つらい目」に遭う様に共感しながらも、それを乗り越えて明るく振る舞う姿に「驚き、感動しました」と言います。単に「枕草子を書いた有名な人」という知的理解を超えて、その実際の生き様に触れて、共感し、感動しているのです。

 教科書では暗記用人名に過ぎない古代人物たちも、中学生が豊かな感性で受けとめれば、「ネガティブな悩み」を持ちながらも世界最古の長編小説を遺した紫式部や、「つらい目」に耐えて明るく振る舞う清少納言という、生きた人物像が浮かび上がってくるのです。

 そうした古代女性の健気な生き様から現代の女生徒が元気を貰う、これも「主体的・対話的で深い学び」ではないでしょうか。


■5.「スーパーマンのような空海も、他人の指導が不得意だった」

 古代人物の一人として取り上げられた空海は、東書に次のように記述されています。

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 9世紀の初め,遣唐使に従って唐にわたった最澄と空海は,仏教の新しい教えを日本に伝えました。天台宗を始めた最澄は、比叡山(滋賀県・京都府)に延暦寺を建て、真言宗を始めた空海は、高野山(和歌山県)に金剛峯寺を建てました。こうした新しい仏教は、山奥の寺で学問や厳しい修行を行うことを重んじ、貴族の間で広く信仰されるようになっていきました。[東書、p47]
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 教科書では、こう「客観的」に説明される空海も、中学生徒たちと向き合うと、たちまち生きた人間として、眼前に浮かび上がってきます。ある女生徒はスーパーマンのような空海は、実は弱点を持つ人間である事に、かえって親近感を覚えています。

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 空海は、日本の仏教に深く貢献した以外にも、雨乞いや、庶民の学校を開いたりと、たくさんの文化活動に取り組んでいました。そんなスーパーマンのような空海も、他人の指導が不得意だったそうです。それを知り、どこか空想上の人物のように感じていた「空海」と言う人に親近感が湧き、完璧な人なんていないのだな、と思いました。

 空海について調べて、空海の何にでもチャレンジするアグレッシブな生き方に魅力を感じました。空海を知る前、私は自分を否定しがちでチャレンジを諦めてしまうような一面がありました。しかし、これからは、私も空海のような他者比較だけに偏らずに、飛び込んで行ける精神を持ち、どんなことにもチャレンジしていきたいです。
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 完璧なスーパーマンが偉業を成し遂げても、常人にはあまり参考にも励ましにもなりませんが、空海は「他人の指導が不得意だった」のに、その弱点を抱きながらも「何にでもチャレンジ」したのです。この生徒は自分の弱点にもめげずにチャレンジする姿勢自体に、共感を覚えたのです。

 また、別の女生徒は、空海の人柄を、その言葉からこう思い浮かべています。

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「世界に無駄なものは何一つない」
これは、空海の言葉です。真面目で熱心でまっすぐな美しい気持ちが伝わってきます。・・・
 すべてに命や心があることを忘れず、一人一人を尊重する空海の考え方は、たくさんの人の心を救い、現在の考え方にも通じていると思いました。私も空海の考え方を忘れずに人と接していきたいと思います。
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「世界に無駄なものは何一つない」という一言から、「一人一人を尊重する空海」の存在を思い浮かべる、というのも、深い想像力です。そう語るこの女生徒も「真面目で熱心でまっすぐな美しい気持ち」の持ち主なのでしょう。空海とこの女生徒の深い対話が窺えます。


■6.先人の功績は「私たちの生活に欠かせないもの」

 先人を「悩みや苦しみ、弱点を持つ人間」として対話することで、生徒たちは人の生き方を学びますが、同時にその先人たちの残した業績に、千年以上も後の自分たちが多くを負っていることに気がつきます。空海については、ある女生徒はこう書いています。

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 空海と言えば、遣唐使として唐に渡り、帰国後、真言宗を開いた僧侶のイメージが強いが、仏教の普及に努めただけではなかった。
日本で初めて庶民のための学びの場「綜芸種智院」を作り、これが現在の学校教育の元となっていると言う。

 また、干ばつに見舞われて困っていた民衆のために池の改修工事を提案したと言う。この堤防は現在も使用されているのは驚きだ。
このように空海の残した様々な功績は、現在の私たちの生活に欠かせないものの原点になっていることが分かった。
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 また聖徳太子の事跡について、ある女生徒は以下のように書いています。
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 あまり船を作る技術が高くない時代に、何度も隋に人を送った聖徳太子は、大陸の進んだ技術や文化を学ぶことをとても重視しており、そのどんなものでも良いところだけを学び取ろうという考え方は、今日今の日本人の感覚に大きな影響を与えた考え方なのではないかと思いました。
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「どんなものでも良いところだけを学び取ろう」という態度は、明治日本でも発揮されて、急速な近代化の原動力となりました。近代化に立ち後れた中国との差は、まさにこの「深い学び」を求める態度にありました。この態度のお手本を最初に示されたのが、聖徳太子でした。わが国の学び上手は、まさしく太子の遺産なのです。

 この女生徒は、感想文を次のように結んでいます。

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 私は歴史を学ぶことにどんな意味があるのかわかっていませんでしたが、聖徳太子を調べてみて、歴史上の人物が起こした行動や考え方は、全て今の日本につながっており、歴史はとても興味深く、面白いものだと実感することができました。また、日本は長い歴史を持っているので、この歴史を未来の日本にも残していきたいなと思いました。
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 これこそが学習指導要領の目指す「主体的・対話的で深い学び」を達成した歴史学習の姿だと考えます。こういう学びをする生徒たちが、やがて明日の日本を支えてくれることでしょう。

 現在、賛助会員は100名を越え、本年は3千名の生徒に「主体的・対話的で深い学び」をしてもらう計画です。あなたに歴史人物学習館の賛助会員になっていただくと、その賛助会費3千円で、もう30人の生徒に、こういう深い学びに誘うことができます。明日の日本をより良くするために、あなたのご支援をぜひお願い申し上げます。
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