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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

親鸞聖人の教え【平生業成】ヘイゼイゴウジョウの意味

2021年09月15日 | 仏教・親鸞聖人

 親鸞聖人の教え【平生業成】ヘイゼイゴウジョウ・の意味

 仏教では生きている今救われるか、死んでから救われるか、多くの僧侶は死んでから救われると今日も教えています、これは僧侶自身が勉強しない事と人間は【四顛倒の妄念】を持っているからであります。1,常 → 無常 いつまでも続くと思っている心 2,楽 → 苦 人生は楽しいと思っている 3,我  → 無我 固定不変の我は無い 4,浄 → 不浄 人間界の全ては不浄であるのに浄い物があると思っている。この事によりいつの時代も真実の人間の姿を理解しようとしない僧侶が多い事は何百年も前から同じである。

【善知識(真の仏教を教える人)に会う事も、おしうることもまた難し、よく聞くことも難ければ、信ずることはなお難し】和讃

親鸞聖人が法然上人の教えを受けて居られた時、【体失・不体失往生の浄論】をされた事は有名な話であります、結果は法然上人の弟子三百余名の内、不体失往生(生きている今救われる)の座に就かれたのは、法然上人、親鸞聖人、等四名で在りその他は体失(死んでから救われる)の座に三百以上の弟子がついたと伝えられています。

此れは阿弥陀仏の本願三六文字の内【若不生者 不取正覚】(もし生まれさせる事が出来なければ仏の命を捨てます)の読み違いによるものであり、弥陀の本願は人の三世(過去・現在・未来)の六道輪廻から救われる事であり魂の問題です、生きている今救われるのであり、死んでから救うと言う本願ではありません。この世の医者でも死んだら助けるとは言わないのに、嘘のない仏の世界の最高の阿弥陀仏様の言葉に死んだら助けるは無いでしょう。親鸞聖人の二益法門と言われるのは、生きている今【絶対の幸福】に救われ、死んだら極楽に行ける身になると言う教えです。親鸞聖人の教えは、お釈迦様の一切経に書いてある通りの教えです。

現在も850年前の親鸞聖人の時代も1000年以上前の善導大師の時代も【死んだら極楽】と言う間違った阿弥陀仏の教えが浸透しているのは人間は諸仏から見捨てられた最悪の者である事を知ろうとしないからです、阿弥陀仏一人が助けんと本願を建てられた偉大さが 有難く感じられます。       合掌

 


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