東アジア歴史文化研究会

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『聖徳太子は暗殺された ユダヤ系蘇我氏の挫折』田中英道著(育鵬社) 古代日本で暗殺は日常茶飯の政治だった 天皇を暗殺しても平然としていた蘇我氏の言動はまさにユダヤ的なのである

2023-02-04 | 日本の歴史

衝撃のタイトル、しかも副題は「ユダヤ系蘇我氏の挫折」である。

著者の田中氏はこれまでにも『ユダヤ人埴輪があった』『京都はユダヤ人秦氏がつくった』のシリーズがあり、本書は第三弾。 

聖徳太子とは、そもそも後世に冠せられた聖名であり、初出は『懐風藻』だ。この本邦初の漢詩集の序文に曰く。

「逮呼聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇仏教。末煌篇章」。

『懐風藻』は天平勝宝3年(751)に編纂され、撰者は淡海三船などの名前が挙がっている。三船はそれまでの歴代天皇のなまえを、たとえばカムヤマトイワレビコを神武天皇に、ハツクニシラスミマキイリビコイニエを崇神天皇と諱したように、すべて唐風の名前にして国風文化を軽んじた学者である。

聖徳太子の死から129年後の命名である。現代から129年前といえば、1894年(明治27年)、ちょうど日清戦争が開始された時代を振り返るような、歴史が濾過され、往時の出来事はやや美化され、追憶的な回想風になったときである。

したがって聖者を意味する聖徳太子の名付け方には、それまで日本に入っていたキリスト教ネトリウス派「景教」の影響が見られるという。ネトリウス派は東シリア教会ともいわれ、唐代に中国へ伝わったが、唐末に弾圧され消滅した。日本に、この景教がどのように侵入したかは詳細が不明である。田中氏は、蘇我氏がネトリウス派の信者ではなかったのかと言うのである。しかも聖徳太子の子孫たちをネトリウス派信者にしようとし、その陰謀が発覚したため山背大兄王は自殺に追い込まれ一族25名が殺されたのだとする。

聖徳太子の本名は厩戸皇子でもない。

厩戸皇子なるはフランクフルト学派が戦後、それも1950年代になって命名した適当な解釈であり、イエス・キリストが馬小屋で産まれたことと関連づける作為がある。

『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされ、『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。ほかに用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記がある。つまり通称は「上宮」だった。

聖徳太子が一度に十人の言い分を聞き分けたという伝説は「豊耳」でわかるが、多くの方言や漢語発音を聞き分ける能力があったという意味だろう。 

さて暗殺されたという証拠は何か?

前提として蘇我氏の粗暴な振る舞いが例証される。蘇我馬子は自分の言うことを聞かなくなった崇峻天皇が邪魔となって、帰化人をそそのかして暗殺させ、その下手人も殺した。仏教に反対した物部守屋一族を葬った。

この「帰化人」なるは常識的には朝鮮半島かシナ大陸から渡来した外国人と認識されるが、田中氏は「蘇我氏はユダヤ系だった」と推定する。しかも蘇我馬子はネトリウス派の信者で聖母マリアは信じない、磔刑のキリストの蘇生があると考える人物だったとする。

歴史家でここまで断定的に言った人はいない。 

明治時代の歴史家・久米邦武が「記紀編纂時、すでに中国に伝来していた福音書の内容などが日本に伝わり、そのなかからイエスキリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」云々とした。久米は岩倉使節団に加わり旅行記をまとめ、晩年は早稲田大学教授を務めた人物。

聖徳太子の入滅後二十年間に山背大兄王子らが殺害され、秦河勝は奈良を脱出して明石へ逃げた。『日本書紀』は、秦河勝の先祖は4世紀頃に百済を経由して日本へ帰化した有力氏族の長、弓月君の直系子孫としている。秦河勝は聖徳太子に協力して国造りに貢献し、朝廷の財政に関わって四天王寺の建立や運営を賄った。

その後、秦氏は蘇我と敵対した。

蘇我氏の崇仏は政治手段であり、純粋な信仰でなく偽善である。

日本の史書は蘇我を伝説上の武内宿祢の末裔としてきたが、おそらく襲名したユダヤ系ではなかったのかとするのが本書だ。

武内宿祢は一節に360歳(『因幡国風土記』)、或いは295歳(『公卿輔任』)、或いは280歳(『水鏡』)とノアの850歳には及ばないまでも信じられない長寿だった。『古事記』は竹内宿祢が巨勢、蘇我、平群、紀など27氏の祖としており、忠臣の代名詞を襲名していたのかもしれない。

神功皇后の三韓征伐に武内宿祢が主要な役を果たした。たぶん応神天皇の父親だろうと田中氏は推測している(34p)が、この点は評者も同意見だ。そして遠征中に戦陣で急死した仲哀天皇は「謀殺と考えられます」という。

聖徳太子は飛鳥を離れ斑鳩に法隆寺を建立する。これは何を意味するかと考えると、聖徳太子は保護を受けた蘇我氏から離れようとしていたのである。

聖徳太子は「和の精神」を説いた。仏教を崇拝するが、古来からの日本の神道を敬えとしており、神仏混合の基礎を培った。しかし神道派の物部氏を殲滅するなどの暴力路線の蘇我氏としては『和の精神』など屁とも思わない覇権主義丸出しだった。蘇我氏は日本人ではない、まさにユダヤ人的なのである。

こういう危険人物をのさばらせては国が滅びるという危機意識から中大兄皇子は立ち上がった。乙巳の変で蘇我氏は誅せられた。

田中氏はこの乙巳の変という軍事クーデターが成功していなければ、日本にキリスト教が這入り込んで「日本は独自の文化が育まれず、西洋のような国」とされ、「ユダヤ人たちに支配され、ユダヤ人と同じ神を拝むようになっていた」かもしれないとして乙巳の変を評価する。

その後の壬申の乱に勝利した天武天皇の国風政治が始まる。

天武天皇は遣唐使を中断し、古事記と日本書紀の編纂を命じ、日本統一を前進させた。だが中臣鎌足を祖とする藤原一族の興隆があり、藤原南家は蘇我氏と変わらない陰謀と暗殺で政治を壟断し、陰謀と殺戮に明け暮れ、藤原仲麻呂がうたれてようやく政権が藤原北家の摂関政治に移行した。

ようやくにして日本に泰平の世が訪れ、恋の歌にうつつを抜かし風流を愛でるゆとりが産まれた。藤原北家の摂関政治時代、殺戮劇もなければ、驚く勿れ死刑のない平和国家を実現させていた。

さて本書の主題は「聖徳太子が暗殺された」とする謎の組み立てにあるが、それは松本清張なんぞの推理小説よりはるかに面白いので、本書を読むお楽しみ。


田中英道 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本美術全史』(講談社)、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『世界文化遺産から読み解く世界史』『日本の宗教 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』『日本が世界で輝く時代』『ユダヤ人埴輪があった! 』『左翼グローバリズムとの対決』『日本国史の源流』『京都はユダヤ人秦氏がつくった』『新 日本古代史』『日米戦争最大の密約』『日本国史』(上・下)『日本と中国 外交史の真実』(いずれも育鵬社)、『決定版 神武天皇の真実』(扶桑社)などがある。


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