なかちゃんの断腸亭日常

史跡、城跡、神社仏閣、そして登山、鉄道など、思いつくまま、気の向くまま訪ね歩いています。

越前散歩~光秀と越前(2020 11 14)

2020年11月26日 | 歴史

朝倉館跡

 生年も出自も判然としない明智光秀。何年の生まれかについては、同時代の史料がないため確定できない。江戸初期から中期に書かれた『明智軍記』や『当代記』によると、享年は55歳と67歳の二説ある。近年では67歳説が有力のようだが、人生50年と云われた当時、そんな高齢で本能寺と山崎の戦いという大争乱をやってのけるかという疑問が残る。

 また出自は美濃の名門・土岐氏の出身とされるのが一般的だが、裏付けとなる史料はなく、美濃出身の光秀が勝手に明智姓を名乗っていた可能性もある。

 彼の名が史料で確認できるのは、永禄10年(1567)頃からで、前半生は未だに謎に包まれている。美濃を追われた明智一族は越前で10年暮らしていたと云う。光秀が仕えていた朝倉氏の一乗谷などを訪ねてみた。

 

〈その1 一乗谷朝倉遺跡〉

 

 足羽川(あすわがわ)の支流・一乗谷川沿いの道に入ると、まず目につくのが「城戸(きど)」と呼ばれる城門だ。谷を防御するための土塁で、桝形虎口の門跡は多くの巨岩で石垣のように積まれている。城戸は南北2ヵ所にあって、南側を「上城戸」、北側を「下城戸」と呼び、最初に目に飛び込んできたのは下城戸だ。

 一乗谷は東西と南に高い山がせまり、北は足羽川が天然の要害になっている。川沿いに広がる平地は幅約500mと狭く、南北も約3キロの距離しかない。そのうちの2キロ弱を城内とし、長々と延びる道の前後を城戸で塞ぐだけで、難攻不落の城下町になっていた。

 こんな地形を選んで居城としたのが、朝倉氏中興の祖・敏景(孝景)だ。彼は人心を収攬(しゅうらん)する能力にすぐれ、書き残した家訓はお家繁栄のもとになり、朝倉氏は戦国期の風雲にもよく堪えてきた。

 そして応仁の乱で荒廃した京から、多くの公家や僧侶などの文化人が避難して来るたびによく庇護し、最盛期には1万人を越える人口になったと云う。川に沿った平地部には、朝倉氏の館を中心に、武家屋敷や寺院そして職人や商人の町屋が所狭しと建てられていた。城下では華やかな京文化が開花し、「北国の小京都」と呼ばれ、越前の中心地として栄華を極めていた。

復原された武家屋敷や町屋

 一乗谷の繁栄は約100年続き、最後の当主が第5代の朝倉義景(1533~73)だ。彼は戦国武将というより、学問や芸能の造詣が深い一流の文化人だった。生まれたときから優雅な館で暮らし、そのため武将に必要な決断力を欠き、優柔不断な性格だったようだ。

 司馬先生は『国盗り物語』のなかでこう表現する。

”当主義景という人物が、先祖敏景に似気もなく凡庸だということであった。これはあるいは致命的な欠陥であるかもしれない”

 

朝倉館跡の唐門と最後の当主・朝倉義景

 実際、義景自身が出陣した戦さは少ない。元亀争乱(1570~73)と呼ばれる信長と反信長勢力との抗争では、朝倉家にとって大事な姉川の合戦のときでさえ、一族の代理・景健(かげたけ)が総指揮をとっている。

 唯一指揮をとったのは、滋賀の陣(1570)と浅井救援(1573)だけだ。前者は信長を窮地に追い込んだものの、決戦を躊躇し不利な講和に持ち込まれた。そして後者は北近江に陣を構えたものの、刀禰坂(とねざか)の戦いに敗れると、早々に一乗谷へと帰陣している。義景という人物は、とにかく戦さが嫌いな武将だったようだ。

 あえて凡庸な義景を擁護するなら、彼には兄弟がなく子宝にも恵まれず、寂しいお家環境にあったことだ。最初の正室は早死にし、二番目の正室には子が出来なかったため離縁した。三番目に迎えた側室は男児を産んだのち病死し、その男児も8歳で早世した。

 若い時分は長老の朝倉宗滴(そうてき)がよく補佐し、政務や軍事は安定していた。しかし弘治元年(1555)に宗滴が死ぬと、義景の執る内政や外交は徐々に不安定なものになっていった。背景には度重なる家族の不幸が災いし、施政への情熱が萎えたのかもしれない。

 元々義景は和歌や連歌、他に茶道などを嗜む風流人だ。足利義昭の上洛要請に応えて、天下を治めるような大志は始めからなかったように思う。彼が望んだものは、自国の平和と安定だけだったに違いない。

 最期は天正元年(1573)8月。柴田勝家を先鋒とする織田軍が一乗谷に攻め込み、城下は放火され町はことごとく灰塵と化した。義景は越前大野にある賢松寺まで逃れたが、一族の裏切りもあり自刃に追い込まれた。享年41歳。

 その後一乗谷は、昭和42年(1967)に発掘が開始されるまで田畑に埋まり、約400年の長い眠りにつくことになる。

朝倉館は広大な敷地に17棟の建物が建っていた

 

〈その2 光秀と義昭〉

 弘治2年(1556)に明智城を滅ぼされた光秀は、各地を転々としたらしい。足利義昭の足軽衆になるまで彼の名は史料になく、40歳をこえて初めて歴史に登場する。

 最近発見された新史料によると、永禄8年(1565)頃には、近江高島郡にある田中城に籠城していたようだ。『針葉方(しんやくほう)』という医学史料に明智十兵衛光秀の名があり、城内では医者のような仕事をしていたらしい。

明智光秀   足利義昭

 一方、第15代足利将軍となる義昭は、幼少の頃、奈良興福寺の一条院の門跡となり覚慶と名乗った。

 彼の運命が大きく動き出すのは、永禄8年5月の永禄の変だ。第13代将軍で兄の義輝が、松永久秀や三好三人衆に暗殺されると、覚慶は興福寺に幽閉されてしまう。しかし義輝の側近だった一色藤長や細川藤孝らに助けられ、見事脱出に成功する。

 その後近江や若狭を転々としながら、永禄10年(1567)11月には朝倉家の一乗谷に落ち着くことになる。

 一乗谷の南端に浄土宗の安養寺跡がある。この寺の隣りに義昭の御所が建てられ、ここで約9か月間滞在し、彼は上洛のための工作に没頭する。

 そして光秀が義昭に足軽衆として仕えるようになった時期は不明で、当然いつどこでどんな風に出会ったのかは分からない。流浪中の義昭の耳に光秀の名医としてのうわさが入り、どちらともなくお互いの接近があったのか?あるいは朝倉の客分として仕えていた光秀と、一乗谷にやって来た義昭と接点があったのか?

 いづれにせよ、卑賎の身の光秀と次期将軍候補の義昭の邂逅は劇的なものだったのだろう。

 

安養寺跡

 司馬先生の『国盗り物語』は、二人の出会いを一乗谷脱出から想像豊かに描いている。それは軟禁されていた義昭を、光秀が中心となって救出する感動的なシーンになっている。

 深夜の一条院の塀を飛び越え、覚慶を背負って逃げ、走りに走って、迫る追っ手を交わし、一人銃で応戦しながらの救出劇は、まるで忍びの者の仕業のようだ。『梟の城』や『風神の門』など忍者ものの作品も多く書いた、司馬先生らしい息の詰まるような活劇になっている。

 

〈その3 称念寺〉

 

 一乗谷から北西方向に約20kmの所に、称念寺という時宗の寺がある。美濃を追われた光秀一族は越前に10年ほど暮らしていたが、最初に居を構えたのがこの門前で、貧しいながらも寺子屋を開いて生活をしていたという。

 称念寺の住職は一乗谷の高級官僚の知人が多く、やがては光秀と朝倉の家臣との連歌会を設定した。この会は妻の煕子が用意した酒肴で大成功となり、光秀は小録ながら朝倉の仕官となった。実を言うとこの連歌会の資金は、煕子が自慢の黒髪を売って用立てたものだった。この話しは「夫婦愛の物語」となって、門前の伝承として長く語られてきたと云う。

 そして江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、この夫婦愛に感動したのか一句残している。

”月さびよ 明智が妻の はなしせむ”

(出世できず悩んでいる弟子に対して、今は出世の芽が出ないが、あなたには素晴らしい妻がいるじゃないか。

今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう)

 この寺でもうひとつ忘れてはならないのが、後に細川ガラシャとなるお玉の誕生だ。永禄6年(1563)に光秀の三女として生まれ、天正6年(1578)に細川藤孝の嫡男・忠興(ただおき)と結婚する。その後本能寺の変では、一夜にして逆賊の娘となったお玉は丹後の山中に幽閉された。しかし2年後秀吉の取り成しで、再び大阪で忠興と生活をともにすることになる。

 そしてお玉の壮絶な死に様は、関ケ原の戦いに影響したとも云われている。石田三成の登城要請を頑なに拒み、家臣に胸を槍で突かせ屋敷を全焼させて死んだことは、三成の人質政策を緩和させたようだ。彼女の一本気な性格は、キリシタン信仰と共にさらに磨きがかかっていったに違いない。

 

〈その4 金ヶ崎城跡〉

  

 信長にとって人生最大のピンチ「金ヶ崎の退(の)き口」の舞台となった金ヶ崎城。JR敦賀駅の北東にある、標高171mの天筒山(てづつやま)には天筒山城があり、その頂上から派生した尾根が、岬のように敦賀湾に突き出している。その細い岬を要塞化したのが金ヶ崎城で、城の三方は海になっていて周囲は断崖だ。入口には恋の宮として有名な金崎宮があり、背後の山全体が城址公園になっている。

 

 金崎宮の横から海沿いの遊歩道を進むと、左手には風光明媚な敦賀港が間近に見えている。道は岬を回り込むように続いていて、階段道が始まると樹林帯に入り、まもなく古戦場跡の碑が現れる。

 

 そして更に上へ進むと北端の月見御殿の曲輪に出る。この城の築城は建武3年(1336)以前とされ、当時はここに本丸があったようだ。ここからの眺望は見事で、断崖絶壁の向こうには青すぎるほどの敦賀湾が広がっている。

 元亀元年(1570)4月、信長は上洛要請を無視続ける朝倉攻めを決行した。京を出発し数々の城を攻略しながら、この朝倉の支城・金ヶ崎城を落としたときに異変は起こる。同盟関係にあった浅井長政が反旗を翻し、南から織田軍の退路を断とうとした。北に展開する朝倉軍と挟撃されるのは時間の問題となった。

 長政に妹のお市を嫁がせている信長は、最初は信じなかったが事実だと知ると、僅かな馬廻りだけを引き連れて風のように京へ逃げ帰った。そして残された織田軍団も次々と敦賀を引き上げ、その殿(しんがり)を買って出たのが羽柴秀吉だった。織田全軍は被害を出しながらも、秀吉の決死の攻防で退却できたというわけだ。

 この「金ヶ崎の退き口」は、後年天下をとった秀吉ひとりの手柄話しのように語られてきた。光秀は山崎の戦いで死んでしまったため反論のしようがないが、このとき立派に殿軍を務めたのは、秀吉の他に池田勝正と光秀だった。あらためて歴史は勝者側に都合よく書かれているのだと感じる。光秀の数少ない史料も、勝者側の秀吉らの手によって抹殺されたのかも知れない。

 そして光秀は戦国史のターニングポイントとなった本能寺の変を引き起こしただけに影響力は大きい。彼を単なる主君殺しの謀反人として片づけられるものではなく、またどちらが善でどちらが悪なのかという勧善懲悪的な見方だけでも説明がつかない。信長の天下布武と光秀の天下構想には明らかな違いがあり、その相違が本能寺の変となって歴史を揺るがしたのだろう。

 何故、光秀は信長を討ったのか?

 その動機は、四国説のもととなった『石谷家文書(いしがいけもんじょ)』などの新史料が発見される度に、敦賀の海のように深みを増していく。

 



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