病的な程の光と陰なら少々困りますが、健全な光と影のある友達のほうが楽しく共に送れます。のんべんだらりとしていて、凹凸がなく、喜怒哀楽も、考え方もはっきりしないと、あくびの連続かもしれません。極端な表現で気がひけますが、この微妙な領域で遠慮して語ると、私のブログは何を書いているのか不明になりますので、少々遠慮無く言語化しています。申し訳ありません。「私は私でいい」と覚悟が出来ていれば、自分の個性を、のびのびと発露出来ますが、自信もなく、おろおろしていれば、気ばかり使い、堂々と自己表現が出来ません。嫌われようが、愛されようが、自然体の中でいきいき、のびのび、楽しく会話を楽しむようになりたいものです。自然にふるまえば神様が独特におつくりしている人間一人一人なので、当然、そこに個性の美がきらめきあい、光と影が見えてきます。Aという現象の解釈は人間により全部違うのです。或人はその現象を光と解釈していますし、或人は影と解釈しています。どこからが病理で、どこからが健全か、その人が住むコミュニテイで解釈が違います。霞が関、永田町、教育界、宗教界、経済会、それぞれの世界での解釈も違います。このように光と影の定義の在り方も、解釈の在り方も、いちいち気にしては無駄のようです。とりあえず、今直ぐ、堂々と、のびのびと「私は私」で生きていき、その評判も責任も喜んでとろうという決意と度胸、勇気がないと、生涯、小心者のような生活と人生を送る羽目になります。知識があろうが無かろうと、経験があろうがなかろうが、幼稚園児、小学生、中学生、病気、健康、どんな文化の中でも、とりあえず、自分は自分、私は私、という哲学でまずはスタートしていくと、明るく元気に爽やかに生き抜く知恵が身についてきます。
嫌いない人を他者分析していくと、その性格の中に自分と良く似た性格を見出し、それがゆえに苦手だと感じる事例があります。相手を見ていると、あたかも自分とそっくり。であるがゆえに、嫌い、苦手、避けたい気分になるようです。つまり自分のシャドウを相手の中にも感じているわけです。言う事と行動が伴わない友達、例えば「あいつはケチだ」と悪口を言う人は案外、それ以上にけちん坊だったりします。この場合の未分化のシャドウには、意識として複数の考え方が未分化で混在しています。お金は大事、無駄は良くない、おごりたい、おごりたくない、どれが自己負担の領域か、どこが他者負担なのかという経済意識の違い、その他色々です。誘った人が負担すべきだ、という考え方があれいば、お別れする時、わりかんにしよう、と言われれば「なんだ、こいつはケチだ」と解釈するでしょう。私はこう考えています、こう感じています、この場合は、このように行動しますと明確な友達は実に気持ちが良いのですが、どの場合も煮え切らない態度の友達がいると、いらいらしてきます。好きか、嫌いかだけは明確に表現する生き方をしないと本人も周囲も困ります。「シャドウの領域を減らす方法」は「私はこう思います、こう感じています」という日常生活での訓練を楽しくしている内に消滅していきます。「影のある人間」と評価されると自己実現への道は厳しくなります。自己実現への道を常に明示しておきますと友人がさりげなく、そのチャンスを与えてくれますし、私も友人へ、そのチャンスを提供しています
昔昔、若い頃、「あなたは私の影のような方ですわ」と言われたことがあります。あなたは私の影、どういう意味かと悩んだものです。普通の学友(海外の研究所)ですが、影のような存在という意味を一人思索する内にユングの言葉「シャドウ」の事だと気付きました。シャドウの定義をユングはこう語っています。「影の原型:主として自分と同性の姿をとり自からの未分化部分やマイナス面を具現化する」。この意味について暫く思索します。私達が日々、色々の厳しい問題に遭遇したり、何故、こんな意味不明な嫌な想いをしなければならないのか、いつもなら堂々と乗り越えていけるのに、何故、今回に限り、もやもやしていて、いつまでもすっきりしないのか、と悩むとき、生育史上、未だ解決していない過去の事例が、現在の或事例と重複して、上手く心が流れない、という問題です。さて自分の中のシャドウとは何でしょう?シャドウは人により全部違いますので、解釈を変えたらシャドウでなくなりますので、安心して考え、嫌な過去をさらりと思いだしつつ、その解決に挑戦していきましょう。
「人生に絶望した」と言う言葉に触れた人は瞬間、わーっと感じて逃げ出したくなると思います。相手が若くても高齢者でも「絶望という感情」を吐露された人は、とても切なくなるものです。しかし、こちらの悩みを聴いていただく時の相手は、この絶望感を克服した人でないと、話しがいがありません。こちら側の悩みを相談して、相手から威圧感を感じたり、劣等感を感じさせられたり、逃げ出したくなるような相手でしたら、勇気を出して早々と引き上げたほうがいいのです。偉そうで、指導者振り、堂々としていて、一段と上の立場で威圧してくるような、そんな相手とは語してはいけないのです。エリクソンという学者は61才から死まで、人はこの絶望感と自我統合性と知恵の3つの領域を思索する必要があると主張しています。さて、この年齢での絶望感は実に深刻で自殺に繋がります。絶望感を感じたら、そこを乗り越えた自分の生育史での成功体験を思い出しつつ、知恵を探り出す必要があるようです。私とは何者か、私は私で良い、私らしく、分相応にこの絶望感を処理してみよう、と気付けば、大成功です。自分という柱をどこかに探し出し正中線を見出さないかぎり、この人生での絶望感は解決出来ません。どんな柱でもいいので、1本、柱を建てたいものです。それでも柱が建てられない私に向かって、かつての研究室の教授はこういいました。とりあえず君は草原の中の草と思うな、草原の中の大木だと思いなさい、と言って下さいました。そして時間をかけて、どんな大木かを決めなさいと。私は色々考えて草原の中の「柳の大木」だと言い聞かせました。風に吹かれて枝がゆらゆらしているが、こんな私でも1本の大木だ、とイメージの中で自分に言い聞かせましたら、何となく絶望感が消えていき、安定感が産まれた青春の頃を思い出しています。私は「草原の中の柳の大木」、恩師は私の「個性の美」を大木と言いたかったようです。しかし、若い私には、その当時、自分の個性の美が意識出来なかったようです。
人生の旅は本当に楽しく、その途上で時々お会いする女性とお話していて何とも言えない品格のお色気を持つ女性にお会いする事があります。品格あるお色気、これは男性を物静かに刺激し人生に夢と希望を与えてくれます。女性の立場からしても同じことだろうなあ、と推察しています。エリクソンは35才から60才の間に、この思考・感情・行動の領域での「停滞感、生殖性、世話の関係」について語っています。この品格あるお色気はエリクソンの理論から、私が一例として語っているだけの話です。以前、少し書いた話ですがイギリスの大学研究室時代の学友が南部のお家(大きなお城でした)に招いてくれたことがありますが、その妹であるお姫様が翌日私を乗馬にさそってくれましたが、私は初乗りでしたので、少々恥ずかしく、一度断りました。しかし、その数分後の乗馬への誘い方が何とも品のあるお色気で私を誘うのです。言葉も態度も眼差しも慈愛あふれる雰囲気で落馬を覚悟して、私用に手配してくれた、おとなしいお馬ちゃんに恐る恐る乗りました。私の前を彼女がゆったりと動きだします。そうすると私の馬は私の手綱に戸惑いながら動き出します。私の後に学友が私をガードするかのように直列で動きます。長い沈黙が続くのですが、優雅に動くお姫様と、私が落馬しないように時々並列に並ぶ学友が後ろにさがると、さりげなくそのお姫様が私と並ぶ、そのような繰り返しの中から、乗馬に慣れて,私の呼吸が自然体になるのを確認すると、先頭を行く、そのお姫様は、少々スピードを上げていく、その配慮と微笑みは絶妙なものでした。この心配りの品性は、そう簡単に出来るものではありません。イギリスの紳士淑女の本当の優しさをこの時学びましたが、そのイメージは私の生涯を支配しています。
ほどほどの優雅なお色気は人生の旅で、とても重要なもののようです。
ほどほどの優雅なお色気は人生の旅で、とても重要なもののようです。
プライドがありますので人は寂しいとは中々言えません。何とも寂しい時、あなたはどうしていますか?こればかりは他人の助言は無駄なようですが、エリクソンはしゃあしゃあ、としてこう言い切ります。孤立感は親密性の欠如から生まれるので愛の世界を確立しなさいと。今更、わかっていますよ、と怒り出す人々が大半ですが、この原理を鼻先で笑うと、天にむかって唾をするように、何とも言えない孤立感が人を襲います。親密性が必要と言われても、そう急には親密になれるような対象物がありません。普通、ひと肌が必要なので、自分の手を見ます。そして大事に、慈しむように手を合わせます。そこで感じる手の暖かさを感じたら、次は自分の心臓の音に意識を向けます。更には息をしている自分を意識します。この手法は古代から世界中で使用されている孤立感からの離脱方法です。こうして手の暖かさ、心臓の音、呼吸の有難さを感謝でしたら、可愛い野草、花、小鳥、猫や犬、と範囲を広げていく内に、友達とのさりげない会話、道で出会う子供たちの微笑み、知らない人々とのふとした微笑、こうした意識の中から、人間の愛の孤独感は以外と簡単に解決される過程に気付きます。単純な人々の触れあいは愛の温泉です。
生きていく為には毎日同じことをする必要があります。朝ごはんを頂き、学校に通い、色々あって夕食を、そして寝ていく毎日です。この同じマンネリズムがある人は本当に幸せな人々です。そんな幸せな退屈性の中で、ふと「私は何をしているのだろう?」と混乱し、悩んでいる自分を見つけると、益々、憂鬱になり意欲を失います。こんな雰囲気を打ち破る方法は或事を考えなさいとエリクソンは優しくアドヴァイスします。自分とは何者かを考えなさいと言うのです。先ずは自分は草原の風になびく弱い草ではなく、草原の中の大木である、と言い聞かせます。草ですと、何となく惨めで弱弱しく、頼りになりませんが、何の木かは今、決めなくても、その内にイメージが湧きだします。例えば、柳の大木だとか、樫の大木、杉の大木等と自分の好きな大木をイメージするだけで、元気になります。更に、自分は日々何に対して忠誠を誓って生きているのだろう?と考えます。自分が何となく混乱している時には一時期を犬がご主人に忠実な程、統合されているように、人間も何かに忠誠を誓うと、その混乱から救われると言われています。これは本能なのでしょう。一時期で良いのです。私の場合は全知全能の、愛そのものである神様を考える事にしています。信仰の力は大きく、すぐ安定します。信仰が嫌いな人は太陽や宇宙、大自然の摂理、親友の愛情、恋人の愛情を信じると、そこに何かが見えてきます。信じると平安感が生まれます。私は何をしているのだろう、と言う混乱感はその人を安定させる為の刺激剤のようです。
自分には何の取り柄もないとか、得意技が無いと、劣等感の塊のように、自分を卑下している人に出会います。親を選べない人間はどんな環境に生まれてくるのか分かりませんし、歴史や時代に翻弄されます。アフリカに生まれてくる人、イギリスや南米に生まれてくる人、それぞれです。生き甲斐の心理学では、どんな環境に生まれ育とうとも、自分の中に生きる目的、生き甲斐、役割をどうして見出すか、その方法について思索していきます。希望をなくし、諦めている人々の心を傾聴すると、それなりの理由を話されます。そうなるまでの生育史を傾聴していくと、なるほど、とうなずける環境に驚きます。さもありなん、と思いますが、人間、どうしてどうして、そんなに弱いものではありません。意思ある所に道あり。その気になれば明るく元気に爽やかに生きる知恵は無限にあります。何故、そうなるのか?色々理由はありますが一番大きな原因が劣等感です。この劣等感は8-12才頃、劣等感の原型が形成されるとエリクソンは言います。その頃、こま回し、歌、喧嘩に強い、何でもいいのです、友達より少しばかり得意のものはありませんでしたか?学科の中の一つでもいいのですが、周囲から褒められた得意技を思い出して下さい。好きなものは努力をしなくても勤勉ですし、技能の一つを形成しています。好きな世界でも、当然、努力はするでしょうが、自努力という意識が無くても、自然に上手になつています。現実吟味力を少し発揮させながら、理想を少し低くして、先ずは、手短な好きなものを、遠慮なく挑戦して、楽しんでみましょう。エリクソンは劣等感と勤勉性と技能の3つの関係から一人の人間が明るく元気に生き抜いていく知恵を見つけるように論文を書いています。
小学生一年生の思い出は何と言いましても入学式です。昭和18年、神奈川県葉山小学校、同じ名前の人が二人いたので、私は二回も名前を呼ばれたので「あれ、さっき大きな声で返事したのに!」と思いながらもまたもや返事をしました。後で分かったのですが、私と同じ名前の子供は、とうとう返事をしない羽目になつていたそうです。この事が同級生に冷やかされて「あの気の弱い子に、悪い事をしたなあ」と罪悪感を感じました。その子は葉山小学校からの帰宅中、アメリカの戦闘機に機関銃を撃たれて大けがをするのですが、その子への遠慮がエリクソンの言う5-7才時代の私の罪悪感の原型となつたようです。暫くは遠慮して自発性に欠けるのですが、そうすると日々が遠慮で面白くありません。葛藤している内に「私は私」でいこうと考えたらしく、以後、堂々と自分らしく自発的に生き生きと勉強し、遊びました。光と陰の初めての体験です。第二次世界大戦時代の小学生の歴史背景があるのですが、どの時代といえども、エリクソンは罪悪感の強すぎる人は自発性に欠け、目的を見失しないがちだから、以後、意識して、自発的に、目的を定め、明るく元気に爽やかに生きていこう、と呼びかけたわけです。
幼稚園児から高齢者まで、弱い自分に悩み、迷う場合があります。信じていた親に裏切られたという想いから周囲の人に疑惑を感じると同時に、自分の心は千路に乱れ、何とかこの混乱から立ち直ろうと最後の意思力を発揮します。その結果、とんでもない人生に追い込まれ、意思に反しり、願いにそぐわない場面に遭遇し、あれは意思力ではなく、意地だった、と深く反省するのが人生のようです。この意思力と意地の違いは、そう簡単に分かりません。自分を律する必要性は百も承知、しかし、湧き出す感情の激しさ、自律性の問題(何を抑え、何を発揮すべきか、は混乱の最中はそう簡単にわかりません)、己の馬鹿さ加減から世間の嘲笑を買い益々恥ずかしい自分を感じて恥辱感は最大、こんな体験をエリクソンは何と2才から4才に原型が経験されると断言しているので、切なくなりますが、この自分の傾向、私は誰?(こんな傾向が私)と意識した所から成長が始まりますので安心しましょう。私は誰?私はこのような傾向がある人間です、と意識した所から本当の大人の幸福感を獲得出来るようです。意思力という魔物、意思力と意地、見栄の関係をもう一度、見直し、自己実現への道を再検討しつつ、意思力をどう発揮するか、気楽に生きていきたいものです。「意思力」に固執すると、とかく問題が出るようです。この言葉は私の自問自答で、書いている内に汗が流れました。あの場面、この場面、と本当に沢山あります。自分を律すると言いましても、西郷隆盛のような愛すべき律し方が人間らしくて深い味を感じますが冷徹な律し方をしている哲学者の友人は苦手です。
「生きている希望が無い」とは、どういう意味なのでしょう?Aさんが人生に失望した、という内容は失恋、Bさんの失望は事業の失敗、Cさんは変な旦那と結婚してしまった、Dさんは子供が中々自分の言う事を理解してくれない、Eさんは周囲に碌な人間がいないので毎日が地獄、と色々あります。「生き甲斐の心理学」はこの無限にある希望の無い現実を、どう分類して、そして対処していこう、としているのでしょう?答えは、その本人の中にある、と信じている学派ですから、テキストの理論を駆使、応用しながら、何とかご本人が「これが答えだ」と確信出来るまで、鋭意、努力をしつつ、共に、その答えを探ろうとしています。人生の意味、人生の希望を置く領域が、あまりにも現実吟味力が無いと、無駄なエネルギーを消耗し、疲れ果て、遂には倒れてしまいます。その倒れさせる原因は唯一つ、人生の希望という目標を、どう意識化するか、その意識化していく道、過程での「くせ、習慣、傾向」(例えば、いつも悲観的な考え方をする、暗く解釈する等)その傾向に本人が気づいていないので、眼が曇っているわけです。本人に既に存在している答えをどう意識の上にあげていくかを共に検討します。考え方の傾向は頑固ですので、中々壁が破れません。その頑固さを形成しているのが、生育史ですので、なにがその壁になつているか、その原因の一つが人を信じる、その「程度の度合いの強弱」なのです。不信感が病的かどうかを検討します。基本的信頼感が健全かを検討している内に、自分の生育史の中で構築された基本的信頼感と不信感を学問的に検討することで、素晴らしい人生の希望像が構築されてきます。この自己分析をする過程、流れを理解すると、今、見えなくても、安心して、時間をかけて、大事な人生の希望を再構築する勇気が生まれてきます。発見する手法、考え方に自信が産まれてくると、どんな難問が生じても、人生を恐れず、人生に自信と希望が湧き出してきます。
Aさんと時間を共にしていて、遠慮しなくても居心地がいいのに、Bさんとは気を使い疲れ果てる、この違いは色々ありますが、あまり深刻に考えないほうが良いのです。自分の許容性が無いとか、まだ人間が出来ていないとか、とかく人は反省しがちですが、それよりも日々のその場、その場での「役割意識」を観察すると面白い現象が見えてきます。親友は無言の内に自分のその場での役割をさりげなく行ったり、配慮してくれています。それは当然のことで、長い付き合いもありますし、その人と何回も喧嘩をして、互いの性格を知っていますので、こうすれば機嫌が良い、こうすれば機嫌を損なうというコツを知っていますので当然ですが、未だ、あまり良く知らない相手ならば、未だ、どうしていいか不明なのです。この人と仲良くなりたい、とインスピレーションを感じたら、その場、その場での自分の役割を、疲れない範囲と楽しみの範囲で、色々と挑戦してみるのも人生の楽しみです。今の親友達、親しい学友、仕事仲間、勉強仲間は、こうして確保出来た貴重な人間関係です。大きくは自分の長い人生での役割(自分は何の為に生きているのか、という役割意識)、身近では人間関係での小さな役割を意識すると、そこに案外、暖かく、何とも幸せな気分を漂わせ、この友達とは生涯、付き合いたいと思いますし、その友達の存在が私を元気にしてくれています。居心地のよい友達は人生のオアシスです。
Aさんと時間を共にしていて、遠慮しなくても居心地がいいのに、Bさんとは気を使い疲れ果てる、この違いは色々ありますが、あまり深刻に考えないほうが良いのです。自分の許容性が無いとか、まだ人間が出来ていないとか、とかく人は反省しがちですが、それよりも日々のその場、その場での「役割意識」を観察すると面白い現象が見えてきます。親友は無言の内に自分のその場での役割をさりげなく行ったり、配慮してくれています。それは当然のことで、長い付き合いもありますし、その人と何回も喧嘩をして、互いの性格を知っていますので、こうすれば機嫌が良い、こうすれば機嫌を損なうというコツを知っていますので当然ですが、未だ、あまり良く知らない相手ならば、未だ、どうしていいか不明なのです。この人と仲良くなりたい、とインスピレーションを感じたら、その場、その場での自分の役割を、疲れない範囲と楽しみの範囲で、色々と挑戦してみるのも人生の楽しみです。今の親友達、親しい学友、仕事仲間、勉強仲間は、こうして確保出来た貴重な人間関係です。大きくは自分の長い人生での役割(自分は何の為に生きているのか、という役割意識)、身近では人間関係での小さな役割を意識すると、そこに案外、暖かく、何とも幸せな気分を漂わせ、この友達とは生涯、付き合いたいと思いますし、その友達の存在が私を元気にしてくれています。居心地のよい友達は人生のオアシスです。
自分をさしおいて、自分がこうありたい、こうあらねばならないという生育史上の理想の領域から人を批判する人がいます。人類の歴史からみれば、こういう人を悪いと断言するのは、いかがかとは思いますが、自分の身近に、もし、こんな友人がいたら、さぞかし疲労していくことでしょう。人類の歴史では自分はさておき、理想像を激しく追及してフランス革命、ロシア革命、明治維新なども流れていくわけですし、周囲の日常生活でも発展もありますので、一概に理想から人を裁く、批判する傾向を悪いとは言い切れない面もあります。しかし、日々の生活で、身近な友達が自分の事をさておき、ばんばんと私の事を攻撃、批判してきたら、逃げ出したくなります。自己愛パースナリティ障害の論文の中に「限りない成功、権力、知性、美、あるいは理想の愛といった空想への没入」という言葉があります。この言葉を中心に自己愛パースナリティ障害かどうかセラピストは検討していきます。
大事な人とお付き合いしている私達は、時々、あれ?この人の本音は何?、と心配する事があります。どうでもいい人の本音はあまり関係がないのですが、大事な人の本音を聴くには上手な傾聴をしていないと見抜けません。本音は何?と文句を言う前に自分の傾聴の仕方の基礎を学習しておかないと、シグナルは出されているのに相手の本音が見えないのです。こんな場合、相手は、何と鈍感な人、と思っているかもしれません。特に日本文化は、さりげなく気づく、を要求している文化ですので、場が読めない人、としばしば馬鹿にする文化でもあります。生まれつき頭の良い人もいれば、遺伝上、あまり敏感でない人もいるので、このあたりが生き抜く上での難しい領域です。互いに愛と許しがないと、大事な人とは上手くいきません。もうひとつの重要な哲学があります。異文化交流、比較宗教、比較文化論の世界では「相手の本音」を素直に一旦、受け入れる哲学を要求されます。あまりにも価値観が違うと人は驚き、侮蔑し、聴く耳すら持てないものです。他者受容、傾聴訓練が要求されるゆえんです。