「サッカー文化フォーラム」夢追い人のブログ

1993年のJリーグ誕生で芽生えた日本の「サッカー文化」。映像・活字等で記録されている歴史を100年先まで繋ぎ伝えます。

Jリーグスタート以降、日本サッカー30年の記録から(6) 21歳にして日本代表で「別格の存在」となった中田英寿選手、その「心・技・体」をあらためて記録に留めます(その1)

2023年01月20日 12時47分12秒 | サッカー選手応援
日本サッカー30年の記録をひもとく時、1993年から2006年までの14年間、すなわち30年の前半分の期間、日本のサッカーを牽引してきた中田英寿選手の存在がいかに大きかったかを、2回シリーズで記録に留めておきたいと思います。

2006年夏、ドイツW杯のグループリーグ最終戦を終えたピッチ上に、仰向けに横たわり静かに自分の選手生活の最後をかみしめていたであろう中田英寿選手の姿は「伝説のシーン」として長く語り継がれるに違いありません。

あれから16年、すでに中田英寿選手の足どりを知らない世代も増えて来ましたので、(その1)では、本題に入る前に、その足どりを振り返っておきます。「中田選手の足どりなんて、人に教えるぐらい知ってるよ」という方も、何か新しい発見があるかも知れせんので、一通りお読みください。

・中田英寿選手が多くのサッカーファンの前で、そのプレーを披露したのは1993年8~9月、日本で開催されたU-17世界選手権の舞台です。

ご存じのとおり1993年は、まさにJリーグがスタートした年でしたが、同じ年に、中田英寿選手は、松田直樹選手、宮本恒靖選手、財前宣之選手、船越優蔵選手たちとともに国見高校の監督をされていたU-17日本代表・小嶺忠敏監督に率いられ、日本で開催された世界選手権にホスト国として参加したのです。

このチームは、将来のW杯日本招致を見据えてグループリーグ突破を目標にして強化が進められ、前大会優勝国のガーナをはじめ、イタリア、メキシコの入った厳しいグループを、見事勝ち抜きました。

このチームでは財前宣之選手が10番を背負った大黒柱でしたが、中田英寿選手も主力のサイドハーフで獅子奮迅の活躍を見せました。

特に第3戦のメキシコ戦の前半、右サイドを50mほど疾走、最後にもう一段加速して倒れ込みながら中央にクロスを送り、船越選手の先制ゴールをお膳立てしたプレーは圧巻でした。
代表でのキャリアの最初の頃は、サイドを駆け上がってクロスを供給するプレースタイルだったようでした。

・1995年、Jリーグをめざす高卒新人の最大の目玉として12クラブ中、11クラブから誘いを受けるという高評価の中、中田英寿選手は、自ら幾つかのチームの練習に参加した上で、ベルマーレ平塚を選択、入団しました。

・1995年、もう一つ上のカテゴリーの、いわゆる「ワールドユース選手権」にも主力として出場します。この大会では2トップのすぐ後ろに位置して攻撃陣の一角を担い2得点をあげ、グループリーグ突破に貢献しています。

・1996年、アトランタ五輪サッカーのメンバーとして、松田直樹選手と共にチーム最年少19歳で出場しています。

ご存じのとおり、この大会、初戦のブラジル戦に勝利して「マイアミの奇跡」と呼ばれることになりましたが、中田英寿選手自身は、チーム戦術が守備をガッチリ固める戦いに終始したことから「もっとDF陣が押し上げてくれないと勝てない」と不満を漏らしたこともあって、第3戦のハンガリー戦ではスタメンを外され、不完全燃焼となった大会でした。

・1996年、ベルマーレ平塚では得点能力の高いベッチーニョ選手をFWに据え、中田英寿選手をトップ下に置く布陣を採用、これ以降、中田英寿選手はトップ下を不動のポジションとして進化していきます。

・1997年5月、日韓共催W杯記念試合として東京・国立競技場で開催された韓国戦にフル代表として初招集されると、いきなりスタメン、トップ下を任され正確なスルーパスを連発、すぐにチームメイトの信頼を勝ち得て、多くのチャンスメイクに絡みました。

翌日のスポーツニッポン紙には「加茂監督は普通のオッサン、W杯は国際大会の一つと言い切る強心臓、(中略) 98フランスW杯出場を何気なくやって、2002年でも主役の座を手にしそうな背番号8」と、輝かしい未来を予見するような記事が載っています。

・そして同年9月からのフランスW杯アジア最終予選、期間中に加茂監督が更迭され岡田コーチが昇格するというショックに見舞われながら、ギリギリのところで第三代表決定戦のイラン戦に臨むところまで来ました。

中田英寿選手はこの時、弱冠21歳。すでに日本代表の中でも「別格の存在」といっていい程の存在感を示しています。

このイラン戦を戦いながら中田英寿選手の脳裏には、高校2年に出場した全国高校サッカー選手権時に提出したアンケートに「日本は98年フランスW杯に出場できると思う」と答え、その理由として「自分が出るから」と書いたことがよぎったのではないでしょうか。

「いまこそ、自分の力で初めてのW杯出場権を獲得する」「自分はそうやって道を切り拓いてきたし、アンケートに書いたことは絶対に実現する」という気持ちが、あのイラン戦での、これでもかこれでもかというチャンスメイクを生み出したように思います。

あのイラン戦でのプレーは、かつてアトランタ五輪アジア最終予選の準決勝サウジアラビア戦で前園真聖選手が見せた、ここ一番の鬼気迫るプレーに匹敵する中田英寿選手の渾身のプレーだったと思います。

その結果、中山雅史選手の先制ゴール、城彰二選手の同点ゴール、そして岡野雅行選手の劇的なVゴールを引き出し、彼が高校時代に自らに課した約束を見事に果たしたのです。

中田英寿選手自身も「「ジョホールバルの歓喜」として語られている、あの試合の結果があったことで、国内外からの注目度が一気に高まり、同年12月に開催された「フランスW杯組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜」にも選抜され、その後、日本代表の不動の司令塔として、また自ら海外でプレーすることになるキャリアのターニングポイントになった」と語っているようです。

・1998年6月、フランスW杯に初出場、3戦全敗でグループリーグ敗退した日本代表にあって、一人、中田英寿選手は世界と伍して戦える逸材として高い評価を得ました。

・98-99シーズンの戦力強化を図る海外クラブの中で中田選手獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼったそうです。ここでも95年にベルマーレ平塚を選んだように、彼の深謀遠慮が発揮されます。加入後、すぐにレンタルに出されてしまいそうなクラブを避け、チーム作りで自分が活きるクラブを探し、1998年7月、セリエAに昇格したペルージャに移籍しました。

・同年9月、開幕戦で王者ユベントス相手にいきなり2ゴールを奪うという驚異的なパフォーマンスでデビューを飾りました。

・以降、2000年シドニー五輪サッカー、2002年日韓W杯そして2006年ドイツW杯に至るまで、文字通り日本代表の大黒柱として欠かせない存在であり続け、また、その期待を背負い続けてきました。

・2002年日韓W杯は、自国開催でありグループリーグ突破が至上命題とされた大会です。トルシエ監督が4年かけて作ったチームの大黒柱は中田英寿選手であり、プレー面でもチームワーク形成の面でも中田英寿選手の双肩にかかる期待は相当なものでした。

 その期待を背負いながら中田英寿選手は見事にそれに応え、グループリーグを首位で突破するという日本サッカー史に刻まれる偉業を成し遂げたチームの、紛れもないリーダーでした。
 こうして自分に寄せられた日本代表としての期待に一つひとつ応えながら、代表でのプレーを終えると自分の所属するヨーロッパのクラブへと淡々と帰るサッカー人生を続けてきました。

・この間、所属クラブがペルージャからASローマ、パルマ、ボローニャ(レンタル)、フィオレンティーナ、ボルトン(プレミアリーグ)と変わっています。

ペルージャでの成功の高揚感を知る者にとっては、ローマでのスクデット獲得などの栄光はあったものの、中田英寿選手が、それぞれのクラブでの、さまざまなチーム事情も絡んで、なかなか大黒柱として完全燃焼できる機会を得られなかった印象があります。

ポジション的にも、本来のトップ下のポジションでプレーできたかというと、必ずしもそうではなく、ボランチやサイドハーフなど、監督の方針やチーム事情に左右されたポジションを黙々とこなしていた印象です。

代表での立場も、2002年まではトルシエ監督の強い意向のためクラブとの兼ね合いに苦労する状況が続き、ジーコ監督になってからは、チームの中で図抜けた存在であることがチームメイトとの間に微妙な隔たりを生み、必ずしも幸福な代表人生とはいえなかった印象があります。

そうしたクラプでの状況や代表での立場が、徐々に中田英寿選手から「純粋にサッカーに情熱を傾ける」マインドを削いでいったことは想像に難くありません。

・そして2006年、すでに前年11月にドイツW杯を最後に引退の意向を固めていた中田英寿選手の最後の舞台ドイツW杯、6月22日のドルトムントのホームスタジアムで行われた第3戦ブラジル戦、1分1敗で後のない日本代表は玉田圭司のゴールで先制しますが、結局1-4でグループリーグ敗退が決まってしまいます。

試合が終わって選手たちがロッカーに引き上げる中、中田英寿選手がセンターサークルで仰向けになりドルトムントの空を仰ぐシーンが、彼のピッチでの最後の姿になりました。

ブラジル戦から10日後、2006年7月3日、彼の公式HPで現役引退が発表されました。

・その後の彼の多彩な活動は、多くの人が知るところですが、やはり日本代表の別格の存在として駆け抜けた14年間は「日本サッカー30年の記録」において、とりわけ「中田英寿選手の心・技・体」について、あらためて記録に留めたい14年間であります。

次回(その2)において、詳細に記録していきたいと思います。
どうぞ、お楽しみに。



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