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大熊孝氏  

2022-01-15 13:41:30 | 文化

 

>かわ・まち計画研究会 副会長   >大熊 孝

>明治維新以後、近代的科学技術が導入されてから、富国強兵・殖産興業・高度経済成長を急ぐあまり、自然は収奪と克服の対象となってしまいました。   

 

そうですね。残念ながらそれが本当のところですね。     

 

>いわば「国家の自然観」のもとで、日本の自然は「国土」と捉えられ、川であろうが都市であろうが、自然の摂理を無視した開発が進められてきました。  

 

それは残念なことですね。国家は自然の豊かさを守る責任がありますね。衣食足りて礼節を知るということなのかな。      

 

>その典型が田中角栄(19181993)の「日本列島改造論」であったかもしれません。 > それまで、日本人であれば誰もが「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」で表現される自然観を有していました。 >これは、自然界のあらゆるものは無機物も含め平等であるが、人間だけは欲望があり、その自然の摂理から外れる「うしろめたい」存在であり、そのことを自覚して生きる必要があることを説いたものです。  

 

そうですね。人間には意思があり、自然を守る責任がありますね。   

 

>実際、庶民は、自然に生かされていることを自覚し、自然を熟知して、生業を営んでいました。 >この自然に対する熟知と謙虚さが、いわば「民衆の自然観」でありました。   

 

触らぬ神に祟りなしですね。自然信仰ですね。     

 

>その「国家の自然観」と「民衆の自然観」が、明治維新以後の150年間、ぶつかり合い、軋轢を起こしてきました。 >足尾鉱毒事件(1885年顕在化)、水俣病(1956年確認)、新潟水俣病(1965年確認)、福島原発事故(2011311)、八ッ場ダム問題(2019年完成)などは、その軋轢の象徴です。 >そして、今や「国家の自然観」が国民に浸透し切って、「民衆の自然観」は消失し、国民は自然から乖離していることに安住し、疑念を持たなくなりました。 

 

残念な事実ですね。リニア新幹線の為のトンネルを掘ると大井川の水量が減るという弊害もありますね。   

 

>例えば、都市計画は、本来ならば、その計画地域の自然のあり様を前提として、食べ物の調達も含め農業を取り込んだ形で立案されるべきだったと考えます。 >しかし、日本の都市計画は、自然を捨象し、食料は他地域や他国からの輸入を前提として立案されてきました。  

 

それは浅はかな人間の計画ですね。月世界で人間が生活するような感じでね。        

 

>一方、自然災害に対しては、その災害の奥には害だけではなく恵みももたらすという、人と自然の複雑な関係性があるのですが、そのことを忘れ、一方的に近代技術で自然を克服するといいながら自然を破壊してきました。  

 

我々は近代技術を駆使して自然を守る必要がありますね。野放しの近代技術は放射能のまき散らしのようなもので危険この上ないものですね。土石流でも人が死ぬ。           

 

> そうした結果のしっぺ返しが、21世紀に入って頻発する災害ではないかと考えます。  

 

人間の無知により引き起こされる災害ですね。これを人災というのかな。      

 

>人は表面的な自然からの乖離に安住していましたから、被害は一層深刻になっています。 >もともと川の氾濫の履歴があるところに、無防備に宅地開発し、それを購入した人たちが水害で寝たきりのまま溺死する事例が増えています。  

 

歴史の勉強も必要ですね。ただ開発の許可を与えるだけでは人災は防げませんね。       

 

>そんな悔しい思いの中で人生を終えなければならいとは、だれが想像したでしょう。 >宅地やマンションの開発許可を与える行政も、設計者も、それを購入する買い手も、その土地の履歴を無視したからにほかなりません。

 

そうですね。開発許可に科学的知識が入っていないのですね。自然をあなどって有頂天になっていたのでしょうね。彼を知り己を知れば百戦あやうからず。          

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)     

 

> もう一度、便利すぎる日常を反省して、自然と人との直接的な関係性を復活させ、「国家的自然観」に「民衆の自然観」を組み込んでいく必要があると考えています。  

 

そうですね。便利すぎるのは無知に依る錯覚の為ですね。    

 

>この「国家の自然観」と「民衆の自然観」の両者が、並行ではなく、撚り綯わされて新たな綱になることが求められていると思います。 >これが、熊本・水俣でいう「もやい直し」でないかと考えています。

>明治維新の近代化を成し遂げた人々は「松下村塾」で育った人たちが多かったと思いますが、その中央集権的近代化はあまりに一方的で傲慢ともいえる「国家の自然観」に貫かれていました。  

 

そうですね。西洋に追いつけ追い越せですね。農村ではなく都会になることですね。実学 (技術) に目がくらんでいたのですね。当時としては無理もないことです。いつ目を覚ますかが我々の問題ですね。        

 

>「かわ・まち計画研究会」は、「うしろめたさ」を自覚した「民衆の自然観」に配慮して、今後の150年を見据えてほしいと思います。 >換言するならば、「かわ・まち計画研究会」が「裏返しの松下村塾」になることを期待しています。    

 

英国の科学雑誌 ‘NATURE’ (自然) が読めるような教育をわが国にも導入する必要がありますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。      

 

 

 

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