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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

モーリー・ロバートソン氏  

2022-07-12 03:27:03 | 文化

>ウクライナ侵略と「自分」をつなげて考える議論が広がらないのはなぜ?    (略)   >2022年7月11日 6時0分 週プレNEWS   >「今やグローバリズムが世界に大きな"バグ"を発生させていることは疑いようがない」と語るモーリー氏   

>* * *

>「核兵器、軍、"帝国の野心"を持つ巨大な国における独裁政権がどれほど危険か、10年間西側に訴え続けてきたけれど、彼らはビジネスを優先した」。   

そうですね。西欧はロシアの天然資源に頼り切ってきましたね。   

>こう指摘しているのは、ゲリラ的な表現活動でプーチン政権を批判してきたロシアのアーティスト・アクティビスト集団「プッシー・ライオット」のメンバーです。  >一部のメンバーが政治犯として有罪判決を受けたこともある彼女たちの立場から、「"モンスター"を育てたのは、グローバリズムのなかでひたすら資本主義経済を肥大化させてきた欧米社会でもある」との批判が発せられることには重みがあります。  >ロシアのウクライナ侵攻後は欧米メディアでも同様の論調が散見されます。   

そうですね。モンスターの育成には我が国も加担していますね。   

>それに伴い、軍事や地政学、経済格差、環境問題といったあらゆるイシューはつながっている、それらはグローバリズムとも一体化しているという認識も、これまでより広く共有されるようになった印象です。  >グローバリズムには光も影もありますが、影の部分についての議論は、反グローバリズム運動が顕在化した2000年代初頭までは左翼活動家の"ごっこ"としか見られませんでした。  >しかし、今やグローバリズムが世界に大きな"バグ"を発生させていることは疑いようがない。 >そのしわ寄せが今来ている、今後はもっとひどいことが起きるかもしれないという認識から、欧米では若い人たちが自分とウクライナ侵攻との"つながり"を意識し、声を上げているのだと思います。   

欧米には世界観がありますので若い人でも歴史とのつながりを意識していますね。日本人には世界観がありません。    

>他方、日本では参院選の論戦真っただ中ですが、円安や物価高への対応に関する責任を岸田政権に問うことはあっても、これまでの対露関係や対中国関係を含め、グローバリズムそのものへの疑義、見直すべきかどうかという議論は一向に熱くなりません。   

そうですね。日本人はノンポリ・政治音痴ですからね。   

>世論を見ても、ウクライナや台湾に同情はするけれども、その脅威となっている独裁政権が野放図であり続けていることと、自らの行動や自分たちの社会が深いところでつながっているのかもしれないという意識は極めて薄い。  >そのことが回り回って自国内の経済格差や低賃金にも影響しているんだ、まずは自分の行動様式を変えるところから始めよう――といった議論は"意識高い系"の部類にカテゴライズされてしまうでしょう。   

そうですね。日本人には世界観がありませんね。   

>当事者意識を持てないのは、まだ多くの意味で日本社会に「守られている」ことと無関係ではないのかもしれません。  

そうですね。日本人は昔から目先・手先のことしか頓着しませんからね。深く考えることができない。我が国に英米流の高等教育機関が効果的に作動しないのと同じ原因です。      

>例えば、あちこちで銃乱射事件が起き、国民皆保険がないために新型コロナで100万人以上も死者が出てしまうアメリカとは明らかに違います。

そうですね。日本人には何事もお変わりのないことがよいことですね。    

>ある種の勤勉さやマメさ、細部に注意を払うエンジニア気質のようなものが日本社会の土台となっており、ハードに議論したり、政治の波を起こしたりしなくても、「改善」によっていわゆるマジョリティの幸せを辛うじて維持してきたのかもしれません。   

そうですね。日本人には社会の修繕・補修はできても革命・建設はできませんね。これは日本語によるメンタリティの問題ですね。        

>しかし深刻なのは、「その無関心がいずれ自分たちを脅かす」と警鐘を鳴らすべきメディアが、ことごとくクリティカルな物言いを避けて報道を「丸める」クセをつけてしまっていることです。    

そうですね。日本人のメディアはなっていませんね。残念ながら軽薄そのものですね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

>これは英BBCや米CNNと比較すると一目瞭然。  >今後もガラパゴスなままでい続けるのは本当にリスクが高いと私は考えますが、皆さんはどうでしょうか。    

私も日本人の無哲学・能天気は非常にリスクが高いと考えていますね。わが身を守るためにも日本人はアングロ・サクソンの考え方を学ぶべきですね。  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

>●モーリー・ロバートソン(Morley ROBERTSON)   >国際ジャーナリスト、ミュージシャン。   >1963年生まれ、米ニューヨーク出身。   >レギュラー出演中の『スッキリ』(日テレ系)、『報道ランナー』(カンテレ)ほかメディア出演多数。   >昨年はNHK大河ドラマ『青天を衝け』、TBS系日曜劇場『日本沈没―希望のひと―』への出演でも話題に!   

 

 

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