2022年2月ぶりの文章化です。
お久しぶりです。
みなさま、お元気でしたか?
文章にしない日々というのは
エネルギーが
ただただ通過し
想いが「かたまらない」ので
ものすごく さっぱり しているとあらためて感じています。
日記として
感情記載から
「本心」に氣づく
ということも
ものすごく自身対峙のステップとして重要。
それに慣れてくると
書くことなくとも「本心」に氣づくので
その氣づきで終了となり
ストーリーの起きてきた
「本来の目的」のみで
日々終えることになる。
「本来の目的」とは
「本心」に氣づいて自分の一歩出す足の向きが理解できること。
現実はポインターでしかなく
それによって出てくることがなければ知ることができない。
だからこそ
現実のストーリーではなく
自分の感情がヒントとなる。
突き詰めたら
恐れ前提の世界にいるところから
安心前提の世界に移動させるための誘導でしかないことに氣づくしかなくなる。
ただただ
それの繰り返しだから
本当にシンプル。
でも
恐れストーリーに翻弄されることもよいんだよ。
どれも同じだから。
それ
なくそうとしてきたし
べつのなにかになろうとしてきたように思うけれど
なくさなくていいし
べつのなにかになろうとしなくてもいいし
なくそうとしてもいいし
べつのなにかになろうとしてもいい。
毎日シンプルに
今日も生きているっていうこと
噛みしめたらいい。
噛みしめるようにもなっているし
自動的にうまくいっている。
偏ると
シーソーで同じだけ動くし
自分の氣づき放置によって
とっさに動かないといけないような
事件のようにみえることつくって
動くようになっているし
ものすごく
うまくできているのが
たのしい。
たのしいと思えなくても
たのしめばいい。
たのしめないでいることも
それもたのしい。
自分の大事にしたいことは
大事にするし
大事にしていないなっていうことは
それに氣づくようにつくるし
ほんとすばらしい。
「ひとつひとつていねいにね」って
いつも指導が入るし
「自分大事に」
「自分たのしんで」という
メッセージばかりが
現実ポインターから氣づくことが続いています。
自分が自分に対して
真摯に向き合うこと以外
この世界にはない
と思っています。
色々な瞬間
そのものがすでに
たのしい
ものすごく
豊かなことです。
HIROMITTI