道元禅師のお言葉には「この故に万法ともに我にあらざる時節まどひなく悟りなく、諸仏なく衆生なく生なく死なし」と。
これが「忘自己の実現」です。
これに於いて始めて「本源自性天真仏、本来の面目」が、実現するのです。
道元禅師の師である如浄禅師と道元禅師の有(在)り方を見るに、忘自己の一刹那から自覚を得る時の一刹那、自己が先に起こるか、法が先に起こるかに依り、此の一刹那に声聞に成るか本来の面目と成るか危機一髪の処が有(在)るのです。
如浄禅師が「一々(いちいち)が自己の見解(けんげ)を離れた様子ではないか」と、直下(じきげ)に本来面目自体を示されました。
ここに於いて如浄禅師が明眼(めいがん)の師 成るが故に、此の危機一髪の処を示されたのです。
これに因って道元禅師もこの危機から脱する事が出来たのです。
如浄禅師の明眼の重大性を深く感じられる処です。
幸いに道元禅師は悟後の修行と云う訓練の、用がないまでに「大悟(だいご)徹底」せられたのです。