まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

蘞利偉人(エリート)は土壇場で逃げる

2024-04-17 07:30:35 | Weblog

 

 

 

 哲人、岡本義雄は 学び舎エリート(選ばれ、優れたもの)を「蘞利偉人」(エリイト)と造語した。

 

与えられた課題に疑問すら抱かず、あくせく答えなるものを出すために熱中して、これまた商業化した学び舎において労働者教員が判定する数値によって選別され、生涯賃金の多寡を人生の目的とし、国家なるものの下僕である官域に生息する、その群れを岡本は俗称「蘞利偉人」と呼んでいる。

 

ときに和製宦官とも記すが、陰茎を切り取って宮中の募集に参集する漢(オトコ)ならぬ男子と類似して揶揄している。

 

満州崩壊のおり佐藤慎一郎氏は最後の重臣会議に招かれた。

甘粕など重臣が集う会議において、満州国崩壊の土壇場において右往左往する重臣たちは腰も落ち着かず、史上はじめての日本人が異国での亡国時の対処に妙案すらなかった。

そこで、二十年余にわたって異民族の生活になじみ、大同学院教授であった佐藤に意見を求めた。

佐藤は一言「この国のことは、この国に棲む方々に任せなさい」と。

そのとき思い浮かべた言葉があった。

「物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い」

「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

 

 

この言葉の背景がある。佐藤の実体験だ。

  近代日本の歴史から忘れ去ろうとしているなかに“満州”があります。

  ユーラシア大陸の東、現在の中国東北地方であり、それ以前は韃靼(ダッタン)と呼ばれ、辛亥革命で国父と呼ばれた孫文は当初「万里の長城以北は外国である」と述べたように数百年にわたって漢民族を支配した清朝(満州族)の地でもある。

 

万里の長城を築く要因となった北狄であり、漢民族にとっては外国そのものである。 

その中国にとっても、ことさら日本にとっても異文化の地である“満州”に、それまでの多くの日本人は自国外での生活することの無かった。

 

しかも数十万の大移動でもあった。どのようにして異民族と暮らし、あるいはどんな世界があったのか、

 

 一方では植民地政策としての入植事業、一方では結果として大地に伏した庶民、それは近代日本の歴史的な“鏡”としての姿がありました。

  そのことは敗戦を境として悟った現実の“答え”でもありました。

 

 崩壊を察知して、いち早く日本へ逃げ帰る高級軍人、植民地官僚、利権商人。 本来その高位高官である人間たちに 守られるべき入植者庶民、特に婦女子の受難は、より“満州”という現実を忘れ難いものとしていると同時に、明治以降の官製の学歴という、そもそも学問とは何かを問いかけるものでした。

 

  その中でも純粋に普遍な心で異民族に触れ、互いの民族特性を評価し、補い合った協和の結果、多くの業績が有形無形のかたちで継承されていることは、歴史的にも稀なことでもあります。

 

 佐藤慎一郎先生は最終講義「別れの言葉」の中で

  “私は留置場の中で、あるいは死刑執行場で、自分自身の入る墓穴を掘りながら、本当の学問というのは書物以外により多くあること体験させられました。

 

土壇場の満州で彼らが護るべき開拓民、多くの邦人ほ置き去りして逃げ去った。しかも夜陰に紛れて電話線まで切った家族ともども逃げた。

 

 

天安門の騒乱ではANAやJALの航空会社は往路乗客も少なく、帰路は満員の邦人を乗せて飛び立った。戒厳令下の空港での混乱に走り回る大使館の若い職員が添乗員のように動き回っていた。

各国の航空機も発着の枠組みがあるので調整が困難を極めていた。当然、日本からの便かは限られていた。

 

北京市内の情況は、広場以外は平穏だった。小学校や大学、天壇公園、王府井、いつもと変わらない。

 

広場も北京だけでなく地方の学生の流入で混雑していたが、騒擾ではない。

外国のカメラクルーは目立ったが、日本のクルーは人民大会堂や向かいの建物の階段には地方の学生がイベントを観るスタジアムシートのように座っていたが、その上段から広場を眺めても見かけなかった。

日本の新聞は北京戒厳令と書き立てているが、現場は代々木のイベント会場のようで平穏だった。

 

それでも空港では日本行きの便は混雑、いや混乱していた。

長期滞在者に聞くと、大使館から帰国便の案内はなく、それには順序があって大使館職員や家族、政府関係者、大手企業の社員と家族がその順序だという。

つまり、マスコミは邦人救出と書くが、邦人には変わりないその種類の人間が優先されるのだ。

 

フィリッピンのゲラ支配地域にいた日本人がいた。同じ時期に三井物産の支店長がやはりゲリラに拉致され身代金要求事件があった埒。解放後支店長は日本から派遣された特別機で羽田に送還されたが、同じ境遇の日本人は同乗も叶わず別の経路でようやく帰還している。

 

今回のアフガニスタンでも急を知った大使館員は隣国に退避している。

自衛隊はたった一人の邦人なる国民を乗せて帰還している。

大統領も土壇場では車に紙幣を満載して逃げた。ヘリコプターに積み切れなくて滑走路に残置したらしいが、亡国とはそのような人間ゆえの結果なのだ。

 

できない理由の法律なのか、しなくてもよい法律なのか、使い勝手の良い成文法だが、結果は残置された邦人には何人の公務員がいるのだろうか。

まさか、臨時雇用、アルバイト、不定期雇用の民間人ではないと思いたいが、拉致同様、異国に残置された邦人同胞や危機を共有した同僚に、政府はことのほか冷酷な処遇しかできないと多くの国民は感知している。

 

これをも法の不備を理由にする政治家、官吏の増殖を赦してはならない。

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