まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学  あの、北野たけしさんでさえ

2021-11-08 11:24:59 | Weblog

イメージは関連サイトり転載

 

いつのことだったか、北野たけしさんが弟子と称する若手のタレントを引き連れ講談社の写真週刊誌に殴り込み(襲撃)をかけたことがあった。

理由はさておき、その後のインタビュー映像でこう語っていた。

「一人で行くのは怖かった・・」と。

 

後年、監督となり、文化的(教育的)な番組に出演している。

映画ではその頃は廃れてしまったヤクザ映画と称するバイオレンスを「アウトレンジ」と題して制作し、無頼な漢(オトコ)の集団を刹那的、娯楽的、かつ社会的に糾弾されている暴力団の実相を見事に表現していた。

しかも、その世代、その心情に触れたのか興行もシリーズ化さえされた。

 

あるいは某誌上で、いまは反社とか暴力団と括られている組織の統率者とも懇談して、現代任侠論を語っている。

つまり、社会の或る部分ではあるが、偶然にも直面した漢の言葉や行動に表れる姿や、かつ彼らなりの形で表現する任侠心、義理、人情、意気地、について、そこではカタギ(素人)と稼業人の括りを越えて共感する内容でもあったと記憶している。

 

「そもそも論」からすれば、人の人生はつねに自分と他人との関係で成り立っている。

それを繋ぐのが良し悪しは別として「縁」や「運」に括られて語られ、現在を語るときには何処かで「了」としなければ自身の境遇のさえ綴ることはできない。

頭の中での過去と現在と未来は瞬時に想起される。

それは過去の反復と現在の姿、将来の想像が、反省や安堵、あるいは悩み、希望などとして混在し、はっきり、すっきりしたものを観たければ言葉や行動を具体化することしか自身への納得性はない。

 

それが彼らの姿として、容{人相)、象(雰囲気)、体(身体動作)に現われるが、数奇者、傾奇(カブキ)者と云われた派手な衣装の旗本や、金糸であつらえた陣羽織をまとった戦国武将と考えれば、似て非なる目的ではあるが漢(オトコ)衣装として思いうかべることができる。

戦場での前口上(仁義を切る)はまさに舞台芸にもなるような流れがあり、装飾を施した衣装で街中を肩をいからせて練り歩く旗本と奴(ヤッコ)もそうだ。

 

あの火盗あらため鬼平犯科帳長谷川平蔵の活躍した頃はとくに町中は風紀が乱れ糜爛していた。目立ったのは旗本と奴だが、庶民も華美になり町娘は、「この帯と友禅は越後屋でかんざしは何処どこの店」と、寄ると嬌声を挙げていた。武士も「この印籠は、刀の鍔(つば)は誰々の作」などと自慢しあっていた。

ヤクザ渡世人も博打や遊興に「これがしたくてヤクザをしている。できなければやめる」と啖呵をきり、当時の警察官だった町方同心も岡っ引きを共連れに、羽振りの良くなった商家に様子伺いと称して小遣いをねだっていた。まさにミカジメ料だ。

 

だだ、カタギをいじめたり、盗人、女犯、人殺しはご法度。行儀が悪く人情もないヤクザは身内のリンチ、絶縁、所払いは、まともな親分なら内々で彼らなりの掟や習慣で処置をした。

岡っ引きも町の顔役、御上御用として同心のまねごとで懐を潤していた。一昔前の交通違反の願い下げを顔役に頼んでビール券を持参すのも、その倣いなのだろう。

 

四角四面に考えると社会機能は詰まってくる

法のくくりが追いつかなくなり、何よりも煩雑になり、三百代言(弁護士の類)が跋扈して,奉行所のお白州(裁判の場)まで、「情理によって・・」など、大岡や遠山の更生への説意や援護など失われ、現代流行の範例ならぬ知恵のない過去の「判例」に簡便埋没している。

 

明治初頭、法令が一新された頃は判例もなかった。それゆえ判決には「情理(条理)にもとづいて・・」と、裁判官は判決に添えている。

江戸っ子化すれば「粋だね」となる干天の潤いだ。

 

標記の「一人では怖かった・・」まさに腑に落ちる吐露と大衆は観た。

相手も組織を持ち多勢で北野氏の隠された部分をほじくり世間に露呈させた。

色(異性)と食(グルメ)財(金)は人の本性欲とはいうが、これに覗き、脅し、嫉妬によって誌面を飾れたらカタギ素人だけでなく、恥ずかしげもなく画面で嬌声をあげたり、醜態,イジメすら笑いにしてしまう一部芸人すら、たとえ同種の世界だとしてもカンにさわるだろう。

たとえ法律の埒外(治外法権)を演じていても、第三者への人情を汚されることは我慢ならなかったのだろう。

芸能の世界もその種のマスコミを媒体として同じ水をすすっているが、善悪が表裏となって歓迎される浮俗の感覚と、それが食いぶちになる虚構の世界ではある。

 

それを前提としても、ふと漏らした北野氏の実感する言葉に、棲む世界は違うが「野暮」ではない素直な生き方を見せてもらったようだ。

 

 

 

 

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