長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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❽【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念⑧】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2023年01月12日 11時37分18秒 | 日記












          関白・秀吉


 頼朝や足利義満のような源氏の子孫では秀吉はないので征夷大将軍とはなれなかった。将軍でなければ幕府は築けない。しかし、そこで秀吉は一計を案ずる。まず、天皇から関白の位をもらい、独裁政府をつくるのだ。関白・豊臣秀吉の誕生である。
 秀吉は元同役の前田利家を五大老に加えた。五大老とは大臣クラスのことで、前田利家、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らである。それと五奉行、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家である。そして、それを実現させるためには家康をまるめこまなければならない。
 秀吉はここでも一計を講じた。

「おふくろさまを……家康の人質にですと?」石田三成は仰天して上座の秀吉に尋ねた。 秀吉は頷き「そうじや。家康とは和睦したぁがぜよ。おっ母を渡せば、家康とて人間……わしの気持ちがわかるはずじゃ」といった。
 秀吉は自分の母・大政所(なか)を家康の人質に出すというのだ。
「しかし、家康がおふくろさまを殺して…また戦をしかけてきたらどうなさりまする?」「そんときは…」秀吉は暗い顔をして「そんときよ」
 かくして、秀吉の母・大政所(なか)は人質として家康の居城・岡崎城にきた。大変なババァを人質にしたものだ……家康は苦笑してしまった。しかし、秀吉は自分の母でさえも、家康のために人質に出すとは…。
 家康は何ともいえない感情にとらわれた。
 なかはにこにこと笑って、家康と握手した。そこに四十三歳の年増の朝日の方も到着し、なかと朝日の方は抱き合った。抱擁だ。家康はいたみいった。大政所と朝日の方、なかと朝日の方、母と娘………。
 これは秀吉と和睦するしかない。家康は決心した。
 家康は十月二十日、上洛した。もう夜だった。
 徳川家康は座敷で辛抱強く待った。座敷は蝋燭のほのかな明りでオレンジ色だ。秀吉はやがて上機嫌でやってきた。「家康殿、よくぞまいられた!」
「関白殿にはごきげんよろしゅう」
 秀吉はにこりと笑って「堅い挨拶なぞなしじゃ、家康殿」といい、饅頭を渡して「これでも食ってくだされ。腹が減ってるにゃら、おまんまも用意するでぇが」
「いいえ。関白殿、おかまいなく」
「家康殿、悪いんじゃが、わしを立ててはくれまいか?」
 秀吉は続けた。「わしのつくる政府の五奉行のひとりになってほしいのじゃ」
「……秀吉殿の家来になれと?」
「いや、形式だけ。形だけじゃで」
 家康は平伏し、「わかりもうした。この家康、関白・豊臣秀吉公の下で働きまする」
「そうか? かたじけない、家康殿!」
「関白殿にはもうそのような陣羽織りは着せません。関白殿にかわって戦は私が指揮し、関白殿はゆっくりと後方で休んでわれらを見守ってくだされ」
 家康は下手にでて、平伏した。秀吉は感激し、そして、次の日の大名たちとの会議でもわしに平伏する演技をしてくれ、と頼んだ。そして、家康はみごとに演技をした。
 こうして、徳川家康は秀吉の”形式”だけの家来と、なったのである。       

話を戻す。
秀吉は公家の菊亭晴季に”征夷大将軍”の位をもらいたいと朝廷に頼み込んだが、百姓上がりの秀吉はなれなかった。そのかわりとして”豊臣”の名を授かり『豊臣秀吉(とよとみのひでよし)』となった。征夷大将軍にはなれなかったが関白職を授かり、やがては長じて太閤殿下とまでなった。寧々を悩ませたのは秀吉の”女癖の悪さ”である。
秀吉は絶倫で、愛人を何百人も囲う。しかし、”種なし”の秀吉には子供が出来ない。
そんな中で寧々の心を傷つけたのが茶々のちの淀君への秀吉の溺愛である。
……憧れたお市の方さまの娘だからか。仕方なし。しかし、本当に殿下の子供なのか?
秀吉は狂っていく。最初の茶々との子供・鶴松が死ぬと朝鮮出兵・唐入りを決意し、攻めた。また子供が茶々との間に出来る。のちの秀頼で、ある。
だが、秀吉は幼い秀頼を残して死んでしまう。
こうなれば後は天下を治められるのは徳川家康しかいない。
『関ヶ原の合戦』も寧々は傍観した。幼い秀頼や淀君では駄目だ。天下はまた乱れ乱世に逆戻り、である。
寧々は出家し、髪をおろし、高台院と称して高台寺に隠遁した。
話を戻す。





         夢のまた夢
        




        天下統一


 天下統一作戦は秀吉の命令で始まった。
 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。
 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴松。男の子だった。
 秀吉は大変な喜びようで、妻の寧々(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。
 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。
 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。まだ政宗は若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。あとは関東の北条だけが敵である。
 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。
「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。
「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。
 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。
しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。
「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」
 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。
 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。
「家康殿、此度は小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」
 秀吉はにやりとした。
 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。
「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大坂はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。


          唐入り


 大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名と小一郎秀長がなると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。
 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。
 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。
 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。
 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……
「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」
 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。
「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」
 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。
「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」
 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。
 そんなおり、息子の鶴松が死んだ。まだ赤子だった。
 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。
 北政所(寧々)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と蝦夷(北海道)くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!
 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。

 家康と秀吉は会談した。
 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……
 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。
 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体があまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。
 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。
 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。
 小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。
 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。
「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でジダンダをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がござりまする」家康はなだめた。
(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦させよう)
 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。
 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。
 すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。
「なんじゃい? おっかあ」
 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。
 秀吉はうんざりぎみに「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。
「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」
(魔王とは…)
 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。
 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。








          母の死とやや



 大政所(なか)が死んだ。北政所(寧々)に見守られての死だった。
 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。
 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。
 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。
 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!
「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。
 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。
 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。
 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。
「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」
 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。
 だが、どこまでも桜はきれいであった。


          夢のまた夢



 秀吉は伏見城で病に倒れた。
 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。家康たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。家康は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐでない!」といった。冷酷な声だった。家康の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」
 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。

「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」
高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。
「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」
「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」
……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。
高台院の停戦工作は失敗した。
高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。
涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……
「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」
すると秀吉の亡霊が言った。
「おかか! これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」
「お前様………」
「わしのおかかになり苦労させたのう」
「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」
「はははは。まっておるぞ、おかか」
亡霊は消えた。
「…お前様?」
高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした」
高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。
豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。
こうして秀吉と寧々の物語は、おわった。

 ……露といで、露と消えにしわが身かな、なにわの夢も夢のまた夢……

  こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。
 享年・六十三歳。秀頼がわずか六歳のことで、あった。



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