自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/屋内殺害はなかった/軽トラ-キャビン内殺害

2022-12-24 | 狭山事件

承前
この章では殺害場所とそこに至る経緯、動機を考える。
いわゆるご馳走説が否定されると、屋内殺害説も崩れ、屋外殺害説が浮かび上がる。
屋外のどこかが問題となる。靴が脱げた形跡がないこと、白ソックスが汚れてないこと、衣服に腐葉土や朽葉のほこり・草木の染みが付着してないこと、つまり抵抗した形跡がないことから、人目につかない野外での雑木林内殺害も否定される。
いちばん可能性が高い雑木林内殺害が否定されると残るのは車内殺害であろう。車なら人目につかない場所を選べるし死体を任意の場所に運ぶこともできる。埋蔵に必要なスコップ、縄、紐、風呂敷、玉石、棒切れ等をあらかじめ用意して積んでおくこともできる。
あくまで私個人の想像の産物にすぎないが、被害者の長兄に焦点を絞ってストーリを創作する。
長兄が妹を迎えに行った時の車は、車庫から出て納屋の物置に戻った。出発と帰宅の時刻は当人、家族の発言だから信用できない。家長である父親は奥に引っ込み長兄がもっぱら報道陣に対応している。すでに家督となっているかのように振る舞っている。
その車は750kg積載の日野ブリスカ3人乗り軽トラックである。1961年4月新発売時の価格は40万円であった。次姉が横に立つ事件直後の車の写真があるが手元にコピーがないので、マイナーチェンジ車の広告写真(1963年)を掲載する。フロントグリルの菱形模様が付加価値になっている。搭乗者が乗り心地を自慢できるアメリカンスタイルのレジャー兼用車であった。

出典   ブログ「新  懐かしの旧車カタログ館」   使用許諾をいただきました。

キャビンの横幅、足元が広く、大人3人がベンチにゆったりと座れてドライブを楽しめることを広告は謳っている。バカンスブームに合わせた軽トラックである。

では、私の創作物語の幕開けとしよう。
長兄は妹が欲しがっていたものを誕生日プレゼントとして買ってやるから、4時にガード下で待て、と言って、妹と落ち合う約束をした。兄は法廷で第二ガードは知らないと言っているが信用できない。待ちくたびれた妹は半ばあきらめて加佐志街道に出て通称沢街道に向かった。途中沢地内で奥富少年に出会っている。そのあとすぐ、沢街道(佐野屋から沢地区に至る道)で兄の車に拾われた。自転車を荷台に積みキャビンに座った。その後まもなく人目のない場所でいきなり両腕で首を絞められて殺された。柔道の襟締めを連想させる。普通より広いとはいえキャビン内ゆえに抵抗の動きが封じられた。
兄は死体と準備した埋没のための道具とグッズを死体発見場所付近に隠した。いったん帰宅して車を元通り車庫に入れ扉を閉めた。

5時~7時まで2時間の空白ができた。その間主人公がなにをしていたか不明である。

7時に迎えに行き7:30に帰宅したときは車を車庫ではなく物置に置いた。自転車を下し、かねて用意していた「脅迫状」を玄関ガラス戸の隙間に差し込んだ。

兄の言によれば、土間で夕食のうどんを食べた。帰宅10分後脅迫状を「発見」している。直後、車と自転車が父親の目にとまった。車庫なら視界に入らなかったと断言できる。身代金目的の誘拐であることに疑いを持たせない証拠一揃いを10分以内で陳列する頭の良さに感心する。車庫の位置は当ブログの一章「狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡」で確認できる。

「誕生日プレゼント」について・・・。
妹が布団をかぶって小遣いを巡っていく度か悔し涙を流したことはその日記からあきらかである。伊吹氏の『検証・狭山事件』から引用する。
「四月二十六日 [遠足で楽しかったことが綴ってある]お天気もすばらしく、これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙をながし、ねむりについた。
つらい、苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕もとをながれた・・・・・・」
「土曜日[二十七日]今晩もくやしい。ちょっと友人と立話しをしておそくなれば姉はおこっている。[ごく普通の姉との感情のもつれが綴られている。姉の気持ちが痛いほど分かる]
夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい━・・・・・・」[兄が実質家長であるようだ]
三日後の30日、次男に1000円借りている。当時私のバイト日当が500円だったからかなりの金額である。
年頃だから友達と東京に遊びに行きたいだろう。流行の服・靴も、レコードも欲しいだろう。姉が主婦代わりに家事を一身に背負ってしかも農作業に従事していたことを考えると外出のための出費よりか、姉の手伝いで暇なしだったことからくるストレスを解消できる、夜一人での癒し時間をすごすグッズが欲しかったのではないかと思う。
具体的に言うと布団をかぶってじゃませず邪魔されず楽しめる、当時流行のトランジスタラジオであろう。姉が妹の土葬に際して「ステレオとテレビ」を入れたという報道記事を承知の上でのトランジスタラジオである。SONY製で当時の価格は6千円以上。
妹は王選手の熱烈なフアンだった。トランジスタラジオがあればテレビで見損なった王選手のニュースをチェックすることができる。フアンだった弘田三枝子の「ヴァケイション」などヒット曲も聴くことができる。

時代背景・・・。  
複雑な家庭だったと云われている。母親は10年近く前に国立武蔵療養所(戦時中は軍人-軍属の精神病院であった)で死亡している。父は短冊型に区切られた農地-屋敷が横並びする地区の富裕農で「百万円様」と呼ばれる有力者である。家父長制の遺制のような家族で、父親が進学、結婚、相続を個々人ではなくお家第一に考えて決めている。
明治の名残を想わせる家族共同体を、所得倍増計画と都市化(東京が世界初の1000万都市になった)に象徴される高度経済成長の上昇気流が揺さぶった。もっと都心に近いところでは若者の流出が激しく「三ちゃん農業」の悩みが表面化していたが、ベッドタウン化が始まったばかりの狭山市ではまだ家長の権威が強く農業と家族の空洞化は問題になるほどではなかった。その分、家族内葛藤が増し一家団欒に影を落とした。

一家団欒の喪失と願望・・・。 
母親の死亡(1953年末。享年44歳)は事件の10年近く前である。
長女27歳(事件当時)は母の死後家を出てほぼ家族と断絶している。
長兄25歳(5月5日26歳)は、中学時代、学年で1番の成績優等生だったが進学校受験を許されず、不承不承定時制高校に通って農業を手伝った。長兄の気持ちがいかばかりであったか察するに余りある。
「顔面神経病で半身不随みたいに」なって家から都内に通学ついで通勤(会計関係)しながら東大病院で5年間療養した過去がある。
次女は中学卒業後幼い弟2人と妹の面倒をみながら一人で家事を担った。兄姉二人が厳しい家庭環境で煩悶する姿が目に浮かぶようだ。
長兄は20歳から5年間療養生活をしているから、もっぱら家業の農業に従事したのは事件が起きる1年前からである。長子相続の目途が立って父親はさぞかし安堵したことだろう。家内のことは長男に任せて、みずからは公益の外交に集中、従事したと考えられる。二頭制家長である。
父親は農業委員を制度開始時から務め、直前まで農協の理事でもあった。事件前には選挙で区長になっている。名士として家柄(個人よりも家が重んじられる社会的地位)と家名を護る役割に専念したのである。
長兄は実質的家長として家業を継ぎ、家族内限定の監督、家督になったのである。家計を握り出費、収入を管理した。弟妹の小遣いまで管理し、姉妹の万年筆・時計を購入したのも長兄である。これら家政 house  economy は旧民法では家長の仕事であった。
父親(56歳)は、まだ老け込む齢ではないのに、遺体発見直後、犯人が捕まっても会いたくもないし顔も見たくない。犯人の方でも私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから、と気になる発言をして寝込んでしまった、それも10日間も。一家をまとめ率いる家長の面影はさらにない。
長兄は、事件の発生と犯人逮捕の遅れを「農村という古くからの何者かゞひそんで居たのではないかと責めざるお[を]得ないのです」と石川さん逮捕を報ずるサンケイ夕刊に投稿*して、農村共同体の因習を責めている。一方でその古い慣習を引き継いでいたことは自己矛盾である。
*私には秀才の小細工に見える。
後年自殺した次男は、カレンダーの裏に「古いものの中にいつまでもいいところもあることを願っていたい」という文言を遺して、古い共同体の遺制による家族内抑圧で自己崩壊に直面しながら、一家団欒への願望を発している。

兄が妹を・・・何故?
妹殺害の動機に共同体崩壊期の家族のジレンマがどう繋がるのか。そう、一家団欒が失せただけでなく、皆が束縛からの自由を求めた情動が事件の背景に見え隠れしている。長女は逃げ出し、次女は忍従し、妹は「家長」に向かって臆することなくモノをいう。兄はのちに今も顔面不随であると証言台で触れた。その原因である憎いはずの家父長制の承継者として、弟妹を扶養、保護、監督、支配している。立場が替われば兄と弟・妹との関係も変わると言える。
事件発生の10年近く前に精神病院で亡くなった母もまた幸せでなく自由を求めたことは想像に難くない。噂だけで証拠はないが、同情してくれた男性と情を交わしたとしても不思議ではない。世間でよくあることだ。私は亀井トムさんからその証拠(顔のパーツの一部が似ている)を聞いたが説得性に欠けると思った。
母の煩悶と過ちが家族の団欒を完全に消失させた。長兄はたぶん多感な思春期に夫婦不仲を知った。母の死は16歳のときである。わたしは精神医学-心理学的知識はないが、長兄が心身に深い傷を負い「顔面神経病」を発症したこと、感情が鈍磨したことは容易に想像できる。
長兄が将来の暗い幻影に執着し始めたのは実質的家長になってからである。家長としての義務を果たしはじめると、弟妹の扶養はもちろん、生活全般にわたって気を配り、励まし、見張り、口出しすることになる。はじめは、手伝い、小遣い、消灯時間などの細かい決まりごとについての干渉であろうが、次第に、外出、門限、男女交際にまで及ぶことは必至である。
兄は口答えから言い合いになる妹を意識するようになった。それまで母の面影に寄り添う兄妹の連帯感から気にならなかった事柄が家長になると心配事になった。卒業後どうするか。気が強く自己主張する妹が兄の意のままになるとは思えない。権利を主張するだろう。家父長制的家族では絶対に許されないことだ。
自由(恋愛、結婚)と平等(財産)を要求して来そうだ。そうなれば、家長の権威は失墜する。封建的慣行が崩壊し家族が四散する。

兄は次第に妹の存在自体に危機感を覚えるようになった。「消えてほしい」「消えろ」「消してしまえ」と過激化した。
血のつながりが二分の一であることがダメ押しとなって殺害を決意した。世の人はこういう残忍な身内事件では犯人の異常人格を疑う。ちょっと唐突に飛躍するが、権力者が往々にしてライバルになりそうな有力な同志を身内であっても予防粛清、謀殺することは歴史の教えるところである。実例として大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をあげるだけで十分であろう。
兄は旧来の家の秩序を守るために近い将来脅威となる妹を予防殺害した。謀殺だった。異父兄妹関係と本人が精神に受けた傷が彼の犯罪心理増幅に影響した。
家の秩序は恒産である不動産と持たれ合っている。狭山市の地価は開発景気で急速に値上がりしていたが、当地区の土地は市街化調整[制限]区域に指定されていたため資産価値は低かった。運良く土地を処分できたとしても、全財産をきょうだい5人で分けると一人当たりの相続分は大きくない。しかも家族の四散を伴う。そうならないための家の古い秩序維持が殺害の動機だった。
3人の弟妹が異常な死に方をし、末弟が養子(相利的慣習)になったため結果的に長兄の単独相続になったが、動機を財産独占目的の殺人とするのは短絡すぎると思う。



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