自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

リュシコフ大将始末記/勝野金政vs大越兼二

2021-09-01 | 近現代史 敗戦で窮地に陥ったリュシコフ大将

リュシコフ大将の謎を追究する旅の最終章である。
振り出しに戻る。1968年の勝野金政訪問で私はモスクワ帰りの元共産党員高谷覚蔵に訊けばリュシコフ大将の最期がわかることを知った。勝野さんは「関東軍に消された」としか言わなかった。

勝野と高谷は、参謀本部嘱託として、第5課のソ連情報班で、その後第8課の宣伝謀略班で、同じく嘱託のリュシコフ大将を交えて共に仕事をした。勝野は国際主義・社会民主主義、高谷は反共反ソの国粋主義、リュシコフは反スターリン「正統」コムニスト(後述)である。
参謀本部のソ連情報班は、満鉄調査部もそうであったが、仕事の性質上、異なる思想に拠って立つ要員を抱えていた。戦局が不利になればなるほどこれを危ぶむ硬派上司の介入が増した。勝野は「上層部は凡庸な古手軍人ばかり」になったと嘆いている。その上層部に大越兼二大佐が入って来てリュシコフ文書を吟味していたとわたしは想像する。

文藝春秋1955年臨時増刊号掲載   大越兼二「リュシコフ三等大将の脱出」に依拠して綴る・・・。
大越兼二中佐:第18師団参謀長 1943年7月1日 - 1944年9月1日 
1944年の夏、ビルマ戦線から帰還した大越大佐が、次の新任務(関東軍情報主任参謀/情報部門のTOP)の準備作業の一環として、高谷覚蔵を介してリュシコフを碑文谷の居宅に訪ねた。思想検査である。
大佐はマラトフ情報と手記はもちろん、「ソ連共産党小史批判」(史実を歪曲してスターリン崇拝を決定づけた新党史の批判)を読み、リュシコフがレーニン主義をすてていないことを直接確認に来たのである。
「ではソ連で云う”帝国主義”に協力するということは、生きてさえ行けたら、反ソ反共にもなるということですか」という詰問に、リュシコフは憤然として断乎たる声で明確に答えた。「私はブラウォエールヌイ[正統]・コンミュニストです。だからスターリンには反対です。しかし彼は永久ではありません。」
そのころ参謀本部情報部は、対ソ調査研究などを放棄、九段ソビエト研究所を閉鎖、東方社も解散して、活動を駿河台分室での対米宣伝工作一本に絞った。ロシア班の解散により班長矢部忠太中佐、 職員中田光夫、嘱託高谷覚蔵は満洲の特務機関へ、勝野は駿河台事務所へ配置転換になった。その時からリュシコフをどうするか、参謀本部情報将校間で、大越大佐と浅田大佐の間で、模索が始まった。 
10月31日付で大越大佐は関東軍情報主任参謀に着任した。
在任中、リュシコフ大将に続いて外蒙古(ソ連の最初の衛星国モンゴル)を脱出して関東軍に軍務協力していたフロント少佐の始末(この場合はマライかマニラへ逃亡の計らい)を進めるためフロント少佐を面接している。意外なことに反ソの少佐が宿敵ソ連の対独戦快進撃に歓喜しているのをみて「血は水よりも濃い」と納得して工作を中止した。フロント少佐はソ連軍に捕らえられることになる。
そして1945年「3月筆者は東京への転任を命ぜられた。後任の某大佐(特に名を秘す)は、情勢判断を聞くためにリュシコフをつれて来たいが、彼も来ることを欲していると筆者に話した。彼は矢部少将[最終階位/ 正しくは大佐か]に代って、リュシコフの世話をしていたのだ。私は新京はうるさいから、大連がよいだろうとすすめ、その通り実行された。」
大越大佐は、「彼ら[リュシコフとフロント]が何うであったかは、その消息が明らかになって、初めて断じうるのであろう」と、とぼけているが、彼がリュシコフ処分工作の首謀者であり、この文章は真相をカモフラージュしていると私は観ている。
特に名を秘した後任の某大佐は浅田三郎関東軍情報主任参謀(任期:1945年4月10日~終戦)である。
なお大越氏の執筆時の肩書は「元大本営参謀大佐・現産経論説室嘱託」となっている。

1968年全共闘運動の最中、京大の原理研究会が高谷覚蔵をよんで反共講演会を催した。わたしが、法経第一教室から出て来た高谷氏に「リュシコフ大将のことで・・・」とインタヴィユーをしようとしたら、「それは・・・」と振り払うようにつぶやいて、無言で数人の若者に護られて去って行った。やや猫背の小さな老人だった。

戦後勝野が浅田大佐に聞いてみると「多分彼を日頃疑っていた関東軍旧派の人たち[勝野っぽい表現、後述]に殺されてしまったのであろう、とのことであった。」(勝野『凍土地帯』1977年) この時期リュシコフ暗殺の真相はまだタブー視されていた。
8月号掲載

1979年文藝春秋の記事で突然タブーが破られた。筆者自身が実行した殺害の顛末を語ったのである。竹岡 豊 「私がリュシコフを撃った」  筆者の肩書はフジ・サンケイエージェンシイ社長である。
竹岡大尉(大連特務機関長)は、関東軍情報部高級参謀・浅田三郎大佐の指示でリュシコフを大連に受け入れた。1月頃の話だったのに到着が延び延びになって実際に到着したのは終戦一週間前の8月8日であった。ソ連が日本に対して宣戦布告をした日である。
ソ連情報分析のエキスパート・リュシコフがソ連の対日参戦を想定できず、のこのことソ連が攻めて来る満洲に行くことを希望するはずがない。到着が遅れたのはリュシコフが抵抗したからであると私は断言する。
日本の敗色が濃厚になるとロシア班の要員(矢部、中田、高谷)は対ソ諜報謀略の最前線=満洲に配転され、中田少尉の任務はソ連の侵攻時期を観測することであった。
リュシコフは、親しく9年間みっちり諜報のノウハウを教え込んだ中田光男(ハルピン特務機関に配属)に送別の辞を贈った。
「この戦争は敗戦必至だ、だが、君は死んではならない。死んだら犬死だ。君に話したソ連革命を思い出して欲しい。“敗戦を革命へ’’と考えたレーニンの所謂“二段革命論”だ。革命は日本の敗戦後に迫っている。その時こそ存分の働きをして欲しい。」(中田光男「リュシコフ大将に捧げるレクイエム」より)
中田少尉は、恩師に言われた通り、特務機関員でありながら忠義を裏切って逃げ帰った。わたしは、ハルピン特務機関長・秋草俊少将がソ連で獄死したことを知ったとき、ずいぶん昔のことだが、情報のプロが捕まるなんて・・・、とおろかにもつぶやいたことを今思い返している。
リュシコフを大連に連れて来たのは「ハルピン特務機関嘱託高谷覚蔵通訳」であった。高谷通訳は関東軍本部に指示を仰ぐと言って急遽新京に逃げ帰った。「そして彼からはもちろん、その後なんの連絡もなかった。彼は大きな荷物を私に押付けて行ってしまったわけである。」
終戦になってもなんら指示命令が下りて来ないので8月18日頃関東州防衛司令官・柳田元三中将を訪ねて指示を仰いだ。身近に居たゆえであろう。本来ならば新京の関東軍情報主任参謀・浅田大佐に指示を仰いだはずだ。リュシコフの名を初めて知った柳田中将はとまどった末竹岡大尉の五つの提案の中から「処分」(提案の言葉は自決)を選んだ。
処分を躊躇しているうちに大連にソ連軍が迫って来た。20日リュシコフを特務機関2階の事務兼応接室に案内して、敗戦をふくめて諸般の情勢から判断して彼に残された道は自決しかないと説得した。リュシコフは「とんでもない、逃げる」と頑固に自決を拒んだ。
陸軍中野学校出身ながら修羅場をくぐった経験のない竹岡大尉はどうにか動揺を隠して、君の逃亡を支援するから海岸に出て船を探そう、といって先に席を立って、連れだって1階に降り、玄関から外に出た。外の石段を下りたところで竹岡大尉は振り返りざまにリュシコフをコルトで撃った。リュシコフは反射的に右手で拳銃を払ったが弾は心臓の下辺りに命中した。「私がピストルを落すのと、彼が足からへなへなと崩れ落ちるのが同時であった。」この一瞬の間に、モスクワに残した妻と娘の面影がリュシコフの脳裏をかすめた、とわたしは想いたい。

ソ連の捕虜となった関係者の消息は次のとおり。柳田中将病死、とどめを撃った有満軍属消息不明。浅田大佐は竹岡大尉とソ連の獄中で再会した。同監獄には初代中野学校長経歴の秋草少将も収監されていたが、竹岡大尉は先輩に関して一言も触れていない。
竹岡大尉は12,3年後に帰還した。3.15で逮捕され獄中転向声明第一号となった国策パルプ・文化放送・サンケイ新聞・フジTV元社長水野成夫の紹介でフジサンケイグループ会議議長・鹿内信隆の秘書となった。

リュシコフの最期という謎は解けたが、戦後を生き抜いた大越兼二と勝野金政の確執という新たな謎が生じた。この難問を解くキーワードはスパイである。
勝野は非国民、転向者という非難には堪えることができた。かれはインターナショナリストを自称していたし、自分は転向ではなくトルストイの平和主義、ジョーレスの社会民主主義への回帰であると自負していたからである。
かれがもっとも怖れ嫌悪したのはスパイ視されること、スパイにされることだった。それは彼の人格を否定することだった。かれはGPUの執拗な強要に抗していずれも拒否して2年半の獄中生活の末ラーゲリに送られた。
スパイをキーワードにして『凍土地帯』(1977年)を黙示録として読み返す・・・。
1944年サイパン島が陥落し本土空襲が本格化した。前述したとおり対ソ情報・宣伝どころではなくなった。活動の舞台は対ソ諜報謀略の本拠地ハルピンに移った。勝野は駿河台分室で専門外の対米宣伝を命じられた。「尾崎秀美[/スパイ・ゾルゲ]事件がおこると、われわれ左翼出身の民間人は極度に警戒され又圧迫されはじめた。」
上層部は無智、無能な古手軍人ばかりになった。「駿河台分室など、ひどいもので、特に悪質な某少佐などは私に翻訳を命じ、私がそれを断ると殴る蹴るの暴力をふるう有様だ。」
某少佐は大越大佐、翻訳は「ソ連共産党小史批判」を暗示していると想像する。
『凍土地帯』のこの一文はハチの一刺しにすぎないが勝野による暗黙の敵討ちである、暗殺された「同志」リュシコフのための。「共産主義本来の意義はスターリンに党と赤軍をよって[ねじまげられて]歪曲されてしまった、というリュシコフの意見には私も同感であった。」
戦後、ソ連の監獄から帰還した浅田大佐から勝野が聞いた「多分彼を日頃疑っていた関東軍旧派の人たちに殺されてしまった」というフレーズもまた、タブーを回避して真実を伝えようとする勝野のちょっとした細工だったと思う。関東軍旧派とは大越・浅田両大佐を暗示している。勝野は「顔もみたくない」旧派浅田大佐に会って訊くはずがない。これは勝野自身の「旧派」に対する(擬装された)告発メッセージである。
終戦時ソ連進駐を怖れて、勝野は、軍人会館で撮った結婚写真まで焼いた、という回想に続いて、脈絡のないパラグラフを挟み込んでいる。国内にもスパイがいたという挿話である。
「朝鮮人とロシア人の混血で大越兼二という男がいたが、この男は日本語もロシア語も出来るし大変重宝がられ又信用もされていたが、これも戦後聞くところによればソ連側のスパイであったという。」
これは「ニイタカヤマノボレ」のような渦中の人間にしか解らない暗号メッセージである。意味は「大越大佐と浅田大佐、リュシコフ処分工作を忘れないぞ」である。戦後とは言え、対ソ情報戦TOPに「復讐」する勝野さんの勇気、矜持に感動する。
対米宣伝の駿河台分室ではすることがなく「将校たちの無智、無能さ加減には顔を見るのもいやだった」勝野は1945年春故郷に帰る決心をした。「9年近く一緒に働いてきたリュシコフは涙を浮べて悲しんでくれた。」
ラーゲリのソ連で「敵同士」であった二人は、参謀本部情報課で協働者となり、思想的に「同志」となったあと、一人は敗戦時に関東軍によって暗殺され、一人はゴルバチョフのソ連によって判決の取り消しがなされた。



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