はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
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青嵐に笑う その2

2022年01月29日 13時05分39秒 | 青嵐に笑う


孔明は、官渡でおこなわれた曹操と袁紹の会戦のあと、徐庶や崔州平らとともに、戦場の跡地や今上帝のおわす許都などを見て回った。
そうして感じたのは、生まれ故郷の徐州を無残にも踏みにじった憎き曹操が、袁紹を撃破したことで、その勢力を吸収し、想像以上に巨大な力を手に入れたのだという実感であった。

当の曹操とは直接対面とはいかなかったが、遠目から、その姿を見ることはできた。
袁紹の遺した三兄弟のうちのひとりを打ち破った戦の凱旋であった。
曹操は誇らしげに馬上で胸を張っていた。

孔明は曹操をはじめて肉眼で見た。
思っていたより小さな体躯の男だな、というのが最初の印象であった。
しかし、そのまとう火焔のような雰囲気はどうだろう。
さして派手な武具や衣装を身につけているわけでもないのに、そこにいる曹操はまさに英雄の名にふさわしい、ぎらぎらとした輝きを放っていた。
都のひとびとは、だれもが、自分たちの主を誇りに思っているらしく、曹操を熱狂的に迎えている。
だれもが、徐州でおこなわれた虐殺を知らないかのように。

かれらにもみくちゃにされながら、孔明は一人だけ、曹操を見て唇をかむことしかできなかった。
悔しさがあった。
おのれの無力さがむなしかった。
曹操にひとことでもいいから、ここに徐州を忘れていない人間がいるのだと告げたかった。
黒山のひとだかりをかきわけ、かきわけ、前に進もうとしたが、熱に浮かされたように曹操の名を叫ぶ群衆は壁のように孔明の前にたちはだかる。
その人の壁の厚さこそが、孔明と曹操の立場の差を明確にあらわしていた。

やがて、行列は過ぎていき、曹操は孔明の存在を知らないまま、通り過ぎていく。
呼び捨てにしようものなら、その場の興奮した人々に取り押されられることは確実だった。
孔明は煮えたぎるような恨みの気持ちを押し殺し、こころのなかで叫んだ。
曹操、わたしはおまえを忘れない。
おまえがどれほど天辺に上ろうとしても、わたしがおまえを引きずり下ろす。
そして孔明は嘆息した。
もし自分に度胸と腕があったなら、いにしえの荊軻や張子房がそうしたように、曹操に近づき、徐州の恨みを晴らしたのに。
かれらのようには、わたしは失敗しない。
命に代えても、徐州で塵芥のようにあつかわれた数々の命の仇をとる。

孔明、と自分の名前を呼ばれて、孔明は我に返った。
群衆は渦のようにうごいて、曹操の行列を追いかけて少しずつ移動している。
その渦に巻き込まれながら、徐庶がけんめいに孔明を追いかけてきたのだ。
兄弟子にして親友の、こちらを心配している顔を見て、孔明はすこし冷静になった。

多くの見方を手にし、綿密に計画を立てたなら、もしかしたら、暗殺計画は成功するかもしれない。
しかし、それまでに、どれほどの屈辱に耐え、卑屈にならねばならないだろう。
危うい道を目隠しのまま歩くような人生が、果たして自分の性質にあっているだろうか。
正義の仇討ちをした徐庶でさえ、役人にとらわれてひどい目に遭う世の中だ。
万が一、曹操を狙って、失敗したら?
姉たちは、弟はどうなる。
曹操に仕えんとしている諸葛一族の全員のことも考えねばなるまい。
もちろん、いま目の前にいる徐庶のこともだ。

ふと、孔明は何百年の時間の垣根をこえて、大軍師張子房が語り掛けてきたように感じた。
はやる気持ちはわかる。
憎しみにとらわれるその気持ちもわかる。
だが、熱すぎるその思いだけで突っ走って破滅を迎える。
それがおまえの望む人生なのか。

曹操とその股肱の将の名を連呼する群衆の中にいて、孔明はただひとり、天からの声を聴いていた。
荊軻は犬死だった。
張子房ですら、始皇帝を暗殺し損ねて、潜伏せねばならなかった。
曹操は始皇帝と同等の巨大なものになりつつある。
かれらと同じ手段では、曹操の野望をくじくことはできない。

見やると、どこまでも抜けるような蒼穹のもと、曹操の小さな後姿が遠ざかっていくところであった。
曹操の凱旋の行列は長く、どこまでも続くようにすら思えた。
それほどに多くの将兵を曹操は抱えていて、戦果もまた、目覚ましいものがあったのだ。
行列をつくる兵士たちの持つ槍や矛が陽光を受けてきらきらと輝く。
誇らしげに。
挑発するかのように。

対抗せねば、天下はあの男のものになる。
わたしもまた、おのれの高祖を見つけるべきなのだ。
孔明はこの光景をけっして忘れまいと思った。
そして、曹操の姿を目に焼き付けて、誓ったのだ。
きっと、あの男の野望をくじいてやるのだ。

腹が据わると、気持ちがすっと落ち着いた。
荊州に戻った孔明を待っていたのが劉備で、そして孔明はようやく、わが君と呼べる人物を得た。




高祖の風格のある劉備を孔明は尊敬している。
かれと、かれを慕う仲間たちは、同志だ。
曹操の天下統一をゆるしてはならないという、その理念で皆一致している。
だから、時間はかかるかもしれないが、いずれはわかりあえるはずだ。

時間に限りがある。
焦りはある。
だが、いまは目の前にある仕事に最善を尽くすだけ。
そうして実力を発揮していけば、やがて皆がついてきてくれるだろう。
孔明には自信があった。
かれらの理解力にも、自分の実力にも。




筆を懸命に動かしていたら、すっかり暗くなっていた。
どうやら、ほかの者たちには声をかけられたようだが、夢中になっていて気付かなかったらしい。
いつの間にか、執務室には麋竺以外に、書記たちが数名残っているだけ。
その麋竺ですら、もう手を止めて休んでいる。

「申し訳ありません、夢中になっていたようです」
孔明が謝ると、麋竺は、なんの、と言って、肩をすくめた。
「熱心なことはよいことだ。みなも喜んでおる。とくに、いままで残業続きだった孫乾と簡雍は、定時に家に帰れるようになったとご満悦だよ」
「そうですか、喜んでいただけているなら、よかった」
「だが、ほどほどにしておきたまえ。あまり君が猛烈に仕事をしてしまうと、周りがそれに慣れて、逆に仕事をしなくなる危険がある。いじわるを言っているのではないよ。きみを案じているのだ」
「わかります。気を付けましょう」
答えつつも、孔明はすこしがっかりしていた。
麋竺に失望したのではなく、自分の甘さにがっかりしたのである。

実務を本格的にやりはじめて気づいたが、自分はどうやら、仕事に夢中になりすぎるようだ。
周りが見えなくなるときがある。
気を付けないと、麋竺が指摘したように、周りがついてこられなくなる。
頭ではわかっているつもりのことだったが、実際に動くと、わかっていなかったじゃないかと突きつけられる。

まだまだだな、と心の中で反省して、孔明は小さくため息をついた。
その孔明の横顔を、麋竺が心配そうに見ていたことには気づかなかった。

つづく

(2006/08/13 初稿)
(2021/11/26 改訂1)
(2021/12/20 改訂2)
(2021/12/26 推敲1)
(2022/1/3 推敲3)


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