あけましておめでとうございます!

 

もう2月です(笑)

 

新年一発目のブログで推したいのが、今年の芥川賞を受賞した小説「推し、燃ゆ」です。

 

一言で言うと、私たちのような「推しを持つ人」が主人公の物語なんですが・・・すごいんですよ。

 

何がすごいって、あなたの人生が変わるかもしれない。マジで。

 

是非、読んでほしい。

 

Kからのお願いです!

 

JUMP関連の作品以外で、Kがこんなに何かを薦めことあります?(笑)

 

それくらいよくできた作品なんです。

 

2~3時間で読めてしまう短編なんですけど、もし読んでいただけるなら、心して読んでほしいです。

 

本の帯に「すべての推す人たちにとっての救いの書であると同時に、絶望の書でもある」と書いてあったんですが、ホントそれに尽きます。

 

もしかしたら心乱される場面もあるかもしれませんが、逃げずに主人公を、いや、鏡に映る自分の姿を、見つめてほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ここからネタバレもあるのでご注意ください!

 

読んだ前提で感想書いていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、身につまされましたよね。

 

見覚えのある光景やワードがたくさん出てきますし

 

「推しを推すことは私の背骨」

 

「病めるときも健やかなるときも推しを推す」

 

「推しを解釈したものを記録してブログとして公開する」

 

俺じゃんって(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に、やられたって思いましたよね。

 

作者の宇佐見りんさんはインタビューでこう話していました。

 

『「推し」という言葉も、その感覚も、世間的にはまだその実態が理解されていないように感じたのが、書いたきっかけのひとつです。「推す」ことが趣味の範疇を超え、生きがいのようになっている人もいるんですね。生活の一部に深く食い込んでいる人が多いのに、あまり注目されていないと感じました』

 

この小説の新しいところは、世の中に相当数いながら、今まであまり注目されていなかった、「推しを推す人」の生態と心情を深く分析し、そのリアルを精緻に文学的表現で描写した点です。

 

そう、「推し、燃ゆ」は時代の一面を鋭く切り取った「社会派小説」なのです!

 

元文学少年のJUMP担としては、俺にもっと文才があったらこんな小説書きたかったなあ、悔しいぜという(笑)

 

「推しと推す人」の関係性は、いきすぎるとある種の危険性を孕んでいて、その構造的な問題については、これまでもここで指摘してきたところですが、同じ問題意識を小説という形で表現したのが「推し、燃ゆ」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、社会派小説といっても、問題提起するような説教臭さはありません。

 

あくまで、「推しを推す」ことの業を、客観的に描いています。

 

我々を批判してないし、否定もしてません。

 

作者は「生きづらさ」を抱える主人公に、推しを推しているときだけ「生きていることを思い出す」と語らせていますが、推しを推す人々には様々な事情や理由があるんだということを、たぶん、感覚的に理解してくれているんだと思います。

 

宇佐見りんさんは21歳の大学2年生ということです。

 

世代が近いせいかズレてない、我々が見知った世界やリアルに対する表現の選択がかなり的確なんです。

 

文章は簡潔で疾走感があり、美しい。

 

構成は緻密で無駄がない。

 

推しが子役時代に「ピーターパン」を演じてたとか、エピソードもうまい。

 

とにかく、よくできています。

 

21歳には書けない、21歳にしか書けない、社会派小説だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、主人公の「推し」である、アイドルグループのメンバー「上野真幸(うえのまさき)くん」

 

作中ではそのかわいらしさが非常に魅力的に、生き生きと描かれてますよね。

 

対照的に、『有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり、歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい』と語る主人公の女子高生「あかり」の造形は曖昧で、あまり説明されません。

 

この対比は、光を放つ「推し」と、不特定多数の「推す人」という関係性を象徴しています。ここテストに出ますよ。←現代文の授業かw

 

彼女は真幸くんのテレビやラジオや舞台や雑誌の言動をつぶさに観察してノートに記録し、それを解釈しようとします。

 

彼女が魅かれたのは、彼のかわいさやかっこよさだけでなく、不器用さだったり、時折り見せる睨むような冷たい目だったり、自分だけの聖域を持つミステリアスなところで、『彼は人を引きつけておきがなら、同時に拒絶するところがある。「誰にもわからない」と突っぱねた推しが感じている世界をわたしも見たい』とブログに綴っています。

 

ところで、真幸くんという男性アイドルは、誰がモデルなのでしょうか。

 

キャラ的には、メンバーカラーが青だからってわけではありませんが、JUMPの中だったら伊野尾慧ぽいなと感じました。嵐なら大野君や二宮君を彷彿とさせます。彼らはファンを殴ったりしませんが(笑)

 

そもそも真幸くんが所属するのは男女グループなのでジャニーズではないですけど、あえてその設定にしたのもうまいなと思いました。ジャニヲタを敵に回すと「推し、燃ゆ」が燃えちゃいますからね。これもテストに出ます(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『未来永劫、あたしの推しは上野真幸だけだった。彼だけがあたしを動かし、あたしに呼び掛け、あたしを許してくれる』

 

主人公あかりが「私の背骨」と語る真幸くん

 

しかし、真幸くんは、「炎上」「ファン離れ」「解散」「引退」「におわせ」「結婚疑惑」という、ジャニヲタなら想定される中でも最悪の展開を進み、同時に彼女の人生も壊れていってしまいます。

 

世間的には「甘えるな現実を見ろ」と一喝されそうですが、推しが救いになっている彼女の生活を丁寧に描いているので説得力があり、共感できる部分もあります。

 

うーん、でも、良いか悪いかで言ったら、良くないでしょうね。

 

なんでも「いきすぎ」は良くないですから。

 

でも、現実にそういう人は存在するので、なぜなの?という人に理解してもらうためには最高のテキストなのかもしれません。

 

最終的に「推し、燃ゆ」は、「担降り」の物語です。

 

宇佐見さんはこれもインタビューで、『いつか絶対に自分が飽きるか、相手が活動を停止するかの未来が待っている。終わりを描くことによって、推しを推すとは本質的にどういうことかが見えてくると思います』と語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

推しを推すとは、本質的にどういうことか?

 

これがこの小説の最も重要なテーマです。

 

本を読んで皆さんはどう思われましたか?

 

様々な解釈があると思います。

 

個人的には、1つには、男性目線になるかもしれませんが、女性が男性アイドルを推す本質は、やはり「疑似恋愛」ではないかと。

 

この作品は素直に読めば、主人公が真幸くんに恋して、恋愛依存というか真幸依存症に陥り、失恋して、自分に向き合おうとするまでを描いたお話です。

 

彼女は物語の終盤、ネットで特定された真幸くんのマンションを訪ねていき、そこで洗濯物を干す若い女性を見てショックを受けます。

 

ちょっと長いけど引用します。

 

『どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であってもよかった。仮にあのマンションに推しが住んでいなくたって関係がなかった。あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった』

 

しんどいですよね。残酷です。

 

すべてが無駄だったと俺は思いませんが、これ紛れもない失恋シーンですよね。

 

ファンがアイドルの「熱愛報道」「におわせ」にあれだけ過剰反応にするのは、それが『一足の靴下』に見えるからなのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2つには、基本的には「疑似恋愛」だと思うんですけど、どうもそれだけじゃないとも感じます。

 

主人公は時間やお金や体力、人生のすべてを推しに捧げ、『全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた』と、推すこと自体に幸せを感じていました。

 

生まれてきてくれてありがとう的な、そこに推しが存在して、愛でられれば、それでいい。

 

見返りを求めない、推しの幸せをひたすらに「祈る」ことで、自分が浄化される。

 

信仰に近いものですよね。

 

もともとアイドルとは偶像崇拝のことですが、ある種の「宗教」なのかなと。

 

推しを全面的に信奉したり、お金を貢ぐことに喜びを感じたり、推しを解釈することにのめり込んだり、信仰の方法は様々です。

 

ただ「宗教」とも少し違うなと個人的には思っています。

 

まず「見返りを求めない」とよく言われますが、そんなことないですよね。

 

アイドルを応援することで、毎日の元気や糧をもらっているし、主人公のように「推しを推す」ことでなんとか心の安定を保っている人もいます。

 

だから見返りを得られないとなると、存外簡単にファンは離れていきます。

 

「推しの幸せをひたすら祈る」と言っても、その「幸せ」の中にどうも推しのプライベートの幸せは入ってないらしいし、結婚や解散や引退は入らないという人が多いみたいです。

 

それは信仰の対象である「神」が、人間だからです。

 

アイドルは人だからです。

 

「神」ではないから、年を取るし、考え方も変わるし、結婚もするし、アイドルを辞める日もきます。

 

だから、いつか必ず破綻するシステムなんですね。

 

推しと推す人の関係は、「疑似恋愛」でも「疑似宗教」でもいいんですが、いつか破綻することが宿命づけられている。

 

その本質を端的に描いているから、「推し、燃ゆ」は、我々にとって「絶望の書であり、救いの書である」のです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、本書のもう一人の主人公ともいえる男性アイドル上野真幸くん。

 

彼が一人称で本心を語る場面は1行も出てきません。

 

あくまで主人公が見聞きし収集した情報の中でしか、彼は描かれません。

 

だから彼がなぜ「神」の座を自ら降りたのか、真意はわかりません。

 

それは私たちが私たちの「推し」に直接真意を聞けないのと同じです。

 

ただ、アイドルという存在は、多くの人に元気や勇気を与えられますが、主人公のような少女の人生を壊してしまうこともある。

 

あなたなら耐えられますか?そんなの知らんと

 

相当な無神経か悟りを開いていないと、「神」を演じ続けることはできません。

 

さらに「神」は、処女性や童貞性が求められる存在なので、ちょっとでもケガレると、あれだけ崇拝してくれていたはずの信者が、すぐに別の「神」に乗り換えたりします。

 

カメラやファンに追われ、自宅が特定されたり、プライバシーもありません。

 

主人公が彼の自宅マンションから走って引き返すとき、「なぜ推しはファンを殴ったのだろう。解釈のしようがない」と独白するのですが・・・いやおまえみたいなファンがいるからだろ。暴力はいけませんが。

 

「生きづらさ」を抱えて「推す人」がいる一方で、「推し」も「生きづらさ」を感じている。

 

あまり強調されていませんが、本書でもう一つ言いたかったことなんじゃないでしょうか。

 

この時代、アイドルとして生きることがどんなに大変なことか。

 

だから私たちは「推し」が「推し」でいてくれることに日々感謝して応援しなければいけませんよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物語の最後、主人公は「推し」の呪縛から解かれ、「推し」抜きの自分と初めて対峙します。

 

目の前に広がる荒れた自分の部屋を眺め、『中心だけではなく全体が、あたしの生きてきた結果だと思った』と、人生という長い道のりを這いつくばっても一歩一歩、生きていこうと決意します。

 

このラストシーンを、「絶望」ととるか、「希望」ととるか、評価は分かれると思います。

 

幸せの形は人それぞれなので、ピーターパンとネバーランドにとどまり続けることが幸せと考える人もいるし、今の「神」が去っても八百万の神々の国ですので新たな「神」を見つける人もいます。

 

自分が「希望」と捉えるのは、彼女が『中心だけではなく全体が』と気づいたことです。

 

『中心』というのは「推しを推すこと」ですよね。

 

「推しを推すこと」が人生の『中心』であってもいいと思うんですよ。そういう人がいても。

 

でも、それが『すべて』や『絶対』になってしまったり、そこしか見えなくなると弊害が多いと思うんです。なんでも「いきすぎ」は良くないですから。

 

『中心』であっても、人生の『全体』からすれば『一部』であるという認識があれば、『ゼロ』にする必要はない。

 

常識を持って推しを推すことを楽しめばいい。

 

我々にそんな大切なことを教えてくれる「推し、燃ゆ」は、やはり救いの書です。

 

読了後、知念担の先輩が昔からよく言ってた「リアルが大事」という言葉を思い出しました。

 

先輩を推しててよかった(笑)