生きて、活きて、行く上で人の幸せとは何なんだろうと。。
強く感じることがある。。。
皆様。こんばんは。こんにちは。
【プリンセスのんのブログ】
“のんの”の息子 次男のSHINOです。
何故、息子の私がこのブログに投稿を行っているか、不思議に思う方もおられるかもしれません。。。
どうしても、息子の私が母“のんの”の代わりに伝えたくて。。。
母の生きてきた証をどうにか、どこかに書き残したくて。。
母が楽しそうに、希望の眼差しでパソコンに向かい。
沢山の癌経験者の皆様のブログ見ては、勇気をもらい。勇気を与え。
自分のブログに書き込みを行っていた。。
このブログに書き込めば、きっと母にも届くはずだと。
私は、ここに母と息子の私たちが、ここまで歩んだストーリーを、ありのままに、そっと“書き残したい”と思います。
私、SHINOはブログはしたことも無く、読みにくく、決してステキなブログ投稿にはならないかもしれません。。
少しでも多くの方々に、この投稿が届けば幸いです。
ここまでの文章をお読みになってお気づきになられた方々もおられると察します。
母“のんの”は3月14日0時24分 62歳でこの世を去りました。。
ここからは、私共の親子のストーリーをお話しします。。。。
去年の2月。。母は余命宣告を受けました。
母は14年前乳がんを患い、闘病し14年後の去年。
もう取りあえず安心だと医師からも言われて生活をしていました。。
その間に父と離婚をし、息子兄弟二人は結婚と就職により家を出て割と広めの実家に母は一人で暮らしておりました。
そんな中、母に降りかかるのは世間では当たり前に起こりうる
90歳になる祖母の介護でした。。
日々、介護に追われておりました。
認知症も無く優しい祖母です。ただただ『ごめんね。ありがとうね。ごめんね。』を繰り返す祖母でした。。
誰も悪くない。誰も悪くない。誰も悪くない。。。。。
ただ。ただ。。。。
気づくのが遅かった。。
胸の中心部。胸骨の部分にシコリ、違和感がある。。
母は息子の私たちにその時教えてくれていました。。
にも関わらず私達は『病院にいけよ!また再発かもしれんで!』
心配はしていたものの、毎日に追われ母への気遣いが足りなっかったのかもしれません。
祖母のお世話を兄弟で協力して、母をもっと早くに病院に連れて行ってあげれば良かった。。と後悔ばかりが先立ちます。
余りに胸骨のしこりが、コブのように大きくなるため、祖母をデイケアに行かせるようになり、流石に病院に行った母は、医師から『乳がん再発、多発転移により余命3ヶ月』を知らされます。。
本当に気丈で綺麗だった母は、こんな絶望的な宣告を告げられたにも関わらず、私にこう言いました。。。
『あーあー。やっぱりこの時が来たかー。
でもね、死ぬのは怖くないの。
何より痩せて大好きな服が着られなくなったり、髪が薄くなったりして、女性らしくいられなくなる事の方が怖いのよ。。
あなた達も大人になって立派になったから後悔はないの。
余命もらったんだから延命治療も抗がん剤治療も絶対しない!
余命3ヶ月じゃ死なないよ!
もう、めいいっぱい、お洋服来て、ネイル行って、温泉タオルン販売するの!ウインドウショッピングもして!死ぬなんて怖くないよー』
なんて強い母なんだ。。。
私は玄関を出て帰りの車で運転をしながら泣きました。
少し私の話をします。
私SHINOは、母の気丈な性格をしっかりと引継ぎ、負けず嫌いで頑固者。
学生時代は少々荒れた時期もありました。
反抗期には負けづ嫌いと頑固さに拍車がかかり、
母と何度も衝突し家出を繰り返した時期もありました。
高校1年生で一人暮らしを始め高校3年間では母とは口を利かない。
そんな時期も。。
しかし、母は、入学式も、部活の引退試合も、卒業式も、大学の入学式も。
参列席には座らず遠くの柱の陰でそっと、私の晴れ姿を隠れて見ていたのを私は知ってます。
そんな時、母はいつも帰って私服に着替え。
ずっと家にいた事を装い。
何も言わず。
私に似合いそうな新しい高めの服を買ってくれ。
私の部屋にそっと置いているのでした。
その服を着て母の前に行った時、
『やっぱり良く似合う(^^♪』
と嬉しそうに笑う母の顔を今でも思い出します。。
ただ反抗期と私の頑固さが邪魔をしただけで、本当はそんな母が大好きでした。
年頃を迎え、負けず嫌いな私は何とかして母親を認めさせてやろうと言う“負けん気”ばかりが先立ち、ただの頑固者になっていたのかもしれません。
もっと早く素直に甘えればよかった。。
そんな事を心に思いながら余命3ヶ月の母との関わり方が始まります。。。
母と週に2度ほど会う事を決め、3ヶ月が経ちました。余命を告げられた3ヶ月は、余命宣告が信じられない位何も問題なく元気いっぱい。
薬はどんどん増えますが、全然元気な母はあちこち遊びに行き、自分の心への終活をしていたのかもしれません。
そんな中でもライフワークとしていたことが。。。
母開発の『湯あみん』『温泉タオルン』の製造、販売。
まだまだ癌サバイバーの為にとミシンでコトコト、切ったり縫ったり、パソコンの販売ページを見たりと頑張っておりました。
この辺は、私が引き継ぎクラウドファンディングを立ち上げてます。母の経緯などはこちらをご覧下さい。
そんなある日、腰と背中の痛みと呼吸の苦しさを感じるようになり病院へ。
肝臓、腎臓、肺にと転移。。
また薬が増えました。しかし気丈な母は
『ガンが増えても、まだ生きてるし(^^♪お母さんはガンを体に飼ってるだけー』
なんて冗談を言っていました。
息子の私たちの方がショックでびっくりしているのに。。
この母の気丈な姿には圧巻でした。。
このような転移の話を聞いてショックだろうとその夜は実家で母と2人で思い出話をしながら食事を共にし沢山笑いました。
帰り際、私は母に。
『少しでも元気な状態で過ごせるように頑張ってくれ。苦しむことの無いように。痛むことの無いように。頑張ってな。』
そっとこう言って玄関で靴を履くと、
私の後ろから突然、母がギュッと抱きしめてくれました。
背中で聞こえる震える声と、鼻をすする音。
『こんなに大きくなっていたんやね。
もう、あんた達を抱っこできないから最後の抱っこしてやる!
特にあんたは反抗期が早くて酷くて。。
小学生の時には抱っこしてやれなくなってしまった。。
あんたも可愛い子供がいるんだから、抱っこ出来るときは愛情いっぱいに沢山抱っこしてやりなさい。。。。
親はどんなになっても我が子が可愛いんだよ。。。』
母は泣いた顔を息子の私たちに一度も見せた事ない。。。。
いや見せたくないのでしょう。
涙が落ち着くまで、しばらく私の背中で顔をうずめていました。。。
本当は気丈にふるまい、冗談を並べていますが。。
とてつもない不安と自分の最後への恐怖を感じていた。
ただただ、息子の私たちに心配をかけないように気丈に頑張っていたのだと。
強い母が初めて崩れた、私の背中に最後に感じた。。
強く優しい温もりの有る“抱っこ”の感覚が忘れられません。。。
最後の“抱っこ”から更に5ヶ月。。。
母は麻薬が含まれる、薬を処方されました。
ご飯が食べられなくなり、水も口を濡らす位にしか含めず。
本当に薬でごまかしている状態でした。。
YouTubeで、グルメ番組見ては『食べたいなーおいしそうだなー』
痩せたそんな姿を見て、辛くて可哀想で。。
毎度の帰り道、車を止めて泣きました。
花粉症のフリをしてティッシュで顔を覆って。。。
ここからの母の衰弱は本当にかわいそうでした。。。
臓器不全により腹水がたまり、足は象の様にむくみ靴下、靴が履けなくなり、歩くことも立ち上がることも難しくなりました。
医師からも、『入院しましょう。緩和ケアでチームとして全力でケアを行います。』
しかし、母は、『ガンの悪さには負けたくないんです。
ギリギリまで家にいて普通に生活してやるんだと思ってます。。
まだまだ息子達に伝える事や自分の身の回りの整理もありますし。。。
トイレに自分で行ける内は、自分の事が自分でできるうちは家にいます。。
入院して死ぬ準備しちゃうと、ガンの悪さに負けた事になるような気がして。。』
医師も目を丸くして、母が診察室からでた後に私だけ呼びこう言います。
『お母さん。気丈にしておられますが、出ている麻薬が入ったお薬、診察の状態を見ても、本心は非常に辛いと思います。
何か異常があればすぐにご連絡ください。
病棟は何時でも受け入れ態勢です。
普通の方ならばこちらの医療のケアが無ければ毎日が余計にしんどいのが明らかな状態です。』
何処までも強い母でした。。
ここから更に一カ月近く。。。
さすがに一日に起きている時間が30分位しかなく、食事水分補給ができていない為、肌は荒れ、顔も体も余計に痩せこけました。
それと共に腹水と足の浮腫みは増し。。
いよいよ手を借りないと歩行移動も難しくなりました。。
この頃から、母の強気な心が初めて崩れ。
良い意味で母の心が変わり始めます。
本来なら怖くて辛くて何とか生きたいと藁にもすがる思いであらゆる物に頼るのでしょう。。
母は違いました。
いよいよ母自身で基準を決めていた、
“自分の事が自分でできるまで”
のラインを満たしてしまっている事。
心配している私たち息子の顔を見た事。
これが母の入院の決断に至りました。
『これ以上はあなた達に迷惑かけれないから。。
入院する。。。
コロナも心配だし、お見舞いも来なくていいよ。。。
最後はお母さん一人でも大丈夫だから。。。
あなた達も仕事に家族もあるのに、こうして帰って来てくれて心配してくれていた。。。
嬉しかった。。。
もう、大きくなって子供の時の様に可愛くはないけど、成長した姿も見れた。。。
あんなに小さくて可愛かったのに、2人共おじさんになったなーって思ったけどね。
笑った顔はやっぱり私の子供達だったよ。
もう大丈夫、明日病院に行くから。。。。』
死にたくない、ガンには負けない。。では無く。。
全てを受け入れて今度は人の心配を。。。
もう、この期に及んで俺たちの事はいいのに。。。。
この日は兄と私、母と3人で最後の夜を一つ屋根の下。
生まれ育った実家で過ごしました。。
翌朝入院の日、母を起こします。
母はゆっくりと目を開けて、小さな声で
『ちょっと化粧台まで連れて行って。』
化粧台に座らせてフラフラと横に倒れそうな、か細くなった母を私は支えます。
『あー久しぶりに鏡見たけど、ミイラみたいな顔だなー。。恥ずかしいな。。』
そして母は、細く震える手で化粧を始めます。
ファンデーションを塗り、アイラインを引き、顔色が悪いからと、チークも。。。
『あー肌が荒れて化粧がなじまないなー。。
こんなお母さん連れて歩くの。
あなた達恥ずかしい思いさせるねー。ごめんねー。』
いや、そこに写る母は間違いなく女性でした。。
私たちの自慢の綺麗な母でした。。
ここで私が泣いたら母に心配をかけるとグッとこらえて母をベッドに戻します。。。
そこでまた母が。
『近所の人がこんなミイラみたいな姿を見るとビックリしたら行けないから裏口に車回して、見られないように裏から出たいの。。』
ここに来て息切れをしながら。。
息をするだけでも辛いはずなのに。。
私たちの心配、ご近所への心配。。
自分の女性としての振る舞い。。。
細く小さくなったけれど、心の大きな綺麗な私たちの母は。
まだそこにいました。。。
病院に着き車いすで診察室へ。
医師は、母を見るなり
『ここまでお一人で良く頑張られましたね。取り合えずお疲れ様でした。。ここからは私達で緩和ケアを全力でさせていただきます。』
入院です。。
病棟の準備をしている間に母が、
『三人で写真撮ろ(^^♪最後になるかもしれないから。。』
これが最後の親子の写真となりました。。
その入院次の日、お昼に私はお見舞いへ。
母はちょうど昼食が出てました。
家では何も食べれなかったのに、病院給食のお魚を3分の1ほど、イチゴを一個食べました。
『おいしー。。。テレビでね美味しそうなお料理いっぱい見てたけど、こうなるとね。。お料理の質とかじゃないんだよ。食べれること自体が幸せだな。。あなたも食事はしかっり食べるんだよ。。』
食べれた母にホッとした私でした。。
そして、もう食べれない。と食事を下げます。。。
そして、少し寝て夕方に目を覚ました母は私を見つけると。。
ふと思い出したかの様に私に告げます。
『ここまで、ありがとうね。。。
あなたには、家出させてしまう事もあったし。。
子供の時に叱り過ぎて辛い思いをさせてしまっていたんだと思う。
当たり前の優しいお母さんではなかった。
子供の時間が幸せな時間ではなかったとしたら。。
ごめんね。
あなたは自営で店もして、こんなに立派になってお母さんは、あなたが自慢の息子。。
結婚もして可愛い孫もいる。
あなたは奥さんと子供達と幸せな家庭を気づきなさい。。。
いっぱい愛情注いでかわいがってあげなさい。。
そして、自分のお店や。引き継いでくれたお母さんの商品を通して。。
あなた達なりに人の助けになれるように頑張りなさい。
そしてお兄ちゃんと何歳になっても兄弟仲よくね。。
お願いね。。
お母さんはここまで幸せだったよ。。。』
なにを、死ぬ前みたいな話してんだよ。。
まだがんばれよ。。
クラウドファンディングも終わってないだろ。。
クラウドファンディングの支援者のメッセージ見て凄く喜んでたじゃん。。
元気な時みたいに、一つや二つ、文句言えよ。。。
もっと、あーしろ、こーしろってアドバイス言えよ。。。
俺と、意見のぶつかり合いして親子喧嘩してよ。
さっきご飯食べれたじゃん。。
孫に会いたいって言ってたじゃん。。
私の心は号泣でした。。。
しかし私は母の手を握り、
『何言ってんの。
俺がここまで頑張れてるのはオカンの元に生まれて、オカンに育てられて、オカンの気丈な部分を引き継いで強く逞しくなれたから。
俺はオカンの息子で幸せだ。
家の事やら残した物は俺がしっかりやっておくから心配するな。。
でも、まだ諦めたらダメだ。
もし、もう無理だってなっても。“俺が来るまで逝ったらダメだからな。”
それだけは約束してくれ。いい?
俺が不幸だったなんて思うな。
俺はオカンと過ごした思い出は沢山ある。
オカンがお母さんで幸せだったよ。。
ありがとうは俺たち息子がいうことだよ。』
今しか感謝を伝えられないと思った私は。
恥も全て捨て母に心から伝えました。。
母は、小さな涙をこぼしてニコリと笑ってくれました。
『孫たちが心配するから,帰ってお父さんしなさい。バイバイ。。』
そして。
また明日来るからと、ニコリと笑う母へ笑顔で手を振り。
個室のカーテンを閉め。
私はカーテンの後ろで、右腕の袖で顔を覆い。
声が漏れだすほど泣きました。。
駐車場でも、泣き。
帰りたく無く。
母の隣にずっといてやりたかった。。。
私は家に帰ると、我が子を抱き上げギュッと抱きしめました。
お風呂に入って遊んで、怒って、また遊んで一緒に寝て。。
いつもの日常。。
子供を寝かしつけた頃。。
病院からの電話、
お母さんが危篤。。
急いで服を着替えて、車移動。
いやいや。。5時間前に話したばかりだよ。。。
車を飛ばします。
走って病室へ。。
そこには、『はあ、はあ、はあ。。。。。。』と、
細かくただただ、息だけをしている母。
意識が無くただ苦しそうな母。。。
いやいや、5時間前に話ししたじゃないの。。
医師は『ただ、息を頑張ってしているだけの状態です。。酸素とモルヒネの投与しか方法がありません。。』
私は母の手を握り。。
『オカン!俺!来たよ!もういいよ!オカンは良く頑張ったから!俺たちもう大丈夫だから!』
その時母は手を握り返してくれました
。この手は声を聴いてくれていたのか。
体が反射的に反応していたのかはわかりません。。
その瞬間、母は、頑張っていた呼吸を止めました。。。
処置を行おうとする医師と、看護師に私は言います。。
『先生。。もういいです。。逝かせてあげてください。。。』
3月14日0時25分 母は62歳で素敵な生涯を終えました。
この日の夕方、母は私に伝えたい事が全て話せたのかもしれません。。
私も、母に感謝を伝えられたからかもしれません。
元気な内には、お互い恥ずかしくて言えなかった感謝も色々な親子の思いも素直に話し会えたからかもしれません。。
母本人がスッキリしたのかな。。
そして、最後の約束。『俺が来るまで逝くな!』もちゃんと守ってくれていた。。
私が到着して手を握った10分後。
最後の約束を果たして息を引き取りました。。
最後までやっぱり私の母でした。。
最後のお見送りは、オシャレが好きだった母らしく葬式葬式しないお軽い感じで。。。
可愛い花を飾り家族楽しく。孫達と一緒に。。
不思議なんですよ。。
辛そうな母が連れて帰ると。寝顔が微笑んでるんです。。
きっとまだそこで、横で母が見てくれている。。
やっと。ここに。このストーリーを残す決意ができました。。
母が亡くなって、母のショップを通して、自宅に電話が鳴るんです。。
群馬に、大阪、北海道から。。
このブログ“プリンセスのんの”の閲覧者のみなさまでした。。
ブログの更新やショップの動きが無い事からのご心配のお電話でした。。
お悔やみのお言葉を頂き。母の経緯をお話しすると電話の向こう側で涙までしていただく方も。。
そんな方々の為にも私は今日。
思い出し途中涙しながらパソコンに向かいます。
ありのままのストーリーをそっとここに置いておきます。。
ガンとは、怖くて憎いものではあります。。
しかし、人を強くするものでもあるのではないかと考えます。
母は、ガンで亡くなりましたが、一度目のガンを克服し社会復帰。強くバイタリティーのある活動を。。
そして家族の絆をより深く結び付けるガンとの闘病の経験でもあったのかもしれません。
病気にかからず元気が一番であることは間違いない。。
闘病している皆さまや、経験者の皆様の本当の心の部分に触れる、気の利いた言葉はここには残せませんが。。。
乳がんサバイバーであり、ガンと戦い、ガンと向き合い、ガンと付き合ってきた親族を持つ息子として。。
【生きて、活きて行く幸せ】【母として祖母として一人の女性として】
私の経験の範囲内で。。。
ここに、ガンに関わる親子のストーリーをそっと置いておきます。。
不慣れなブログで読みにくいとは思いますが。ここまでご覧いただきありがとうございました。。
沢山の皆様に届きますように。。。。
そして、このストーリーを寂しく感じていただくのではなく、
母が“母として、祖母として、一人の女性として”
気丈に戦ってきた、活きた証が。。
少しでも沢山の皆様に届き。
病気との付き合い方の参考になりますように。。
サバイバーの方にも、そのご家族にも。。
うまく上手に言えませんが。。
一つだけここで闘病者の親族として言える事は。
生きて、活きて、行く上で人の幸せとは何なんだろう。。
強く感じることがある。。。
“一日一日の当たり前の日常を。。。
当たり前にいる家族と共に過ごせる事。。。
それが
病気もせず元気な健常者でも。
闘病中の方々にとっても。
その親族にとっても。
この世に生を受けた全ての人にとって。。
かけがえも無く大切だと言う事でしょうか。。